○ 天明の一揆
(出典;平成17年3月13日発行 成田エリア新聞 「成田の歴史と史跡」 小倉 博)
イオン成田ショッピングセンターの北東、約2キロメートルのところに市立赤萩保育園があり、その前が広場になっている。 この地は江戸時代には、天台宗の羽黒山吉祥院薬師寺という寺があった場所である。 そしてここに現在の成田市域と富里市域の佐倉藩領の人々が集まったことがある。 天明の一揆である。
天明3年(1783)は利根川の洪水、霜雨による冷害、浅間山の噴火の降灰、気候不順などの諸条件が重なって大凶作となり、米価諸品は高騰し、各地に大きな被害をもたらした。
佐倉藩領の印旛・埴生・千葉郡の3郡の被害はひどく、世情は不安と動揺で騒ぎ出し、3郡124か村におよぶ農民一揆となったのである。 彼らは西郷筋(現佐倉市より西方)・印西筋(現印西市・印旛村・本埜村など)、それに現成田市と富里市の成田筋の3つに分かれ、それぞれ佐倉城に押しかけたのであった。
成田筋の農民は、12月29日の早朝に、赤萩村の大木久兵衛を頭取として同村の吉祥院に結集し、午後4時ころ城下に入り、追手門へ押し寄せた。 人数は約400人である。 成田筋の要求は「年貢を納めようにも大凶作で米がない。来年秋から15年の分納で納めたい。」ということであった。
藩との再三の交渉の結果、一夜明けた天明4年正月元旦に、米27俵10両替えで金納と決着している。 当時は13俵から14俵で10両替えが相場であり、年貢未納分が100俵とすれば、金納の場合は75両前後を納めなければならないが、27俵10両替えとなると37両ですむことになるのである。
こうした苦しさの中に一抹の安堵感を取り戻したが、一揆は禁制である。 とはいっても参加した農民すべてを処罰するわけにはいかず、そこで佐倉藩では頭取の赤萩久兵衛を永牢、その妻子を村払いとした。 久兵衛は入牢による栄養失調か、あるいは心身の疲労のためか、天明6年2月に獄死している。
佐倉藩領の農民にとって久兵衛は義民であり、この吉祥院址に「天明の一揆の結集地」などの標柱を立て、久兵衛らを弔ってあげたいものである。
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