○ 天保図録
(出典 ; 松本清張著 「天保図録 上」 1993年11月1日 朝日新聞社発行 <朝日文庫>)
― 筆のはじめに ―
天保(てんぽう)改革期を舞台に書いてみたい。
天保といっても改革がはじまったのは十二年(一八四一)に大御所だった家斉(いえなり)が死亡して、老中水野越前守忠邦に実力者の地位が与えられたときからである。
肩の張ることを書くつもりはないが、いちおう、この期の背景を記してみる。
江戸時代に極端なデフレ政策がとられたのは二度ある。 一度は天明七年から寛政五年(一七八七〜一七九三)に至る六年間で老中松平定信(かつだいらさだのぶ)によってとられたいわゆる「寛政の改革」である。 次が天保である。 両改革の間には五十年近い歳月がはさまっている。
この間が、前半は将軍として、後半は大御所として徹底的な浪費政策をとった家斉の時代である。 つまり、二つの改革は前時代の不健全な政治、放漫経済のあと始末ということもできる。 寛政の改革の前は将軍吉宗による享保(きょうほう)改革期(一七一六〜一七四四)があったことも忘れてはならない。
改革はなぜ起ったか。
簡単にいえば、徳川氏のつくった封建土地制度が貨幣経済の発達によって矛盾し破綻(はたん)を来たしたからである。
別の言葉でいえば、武士階級と農民との間に町人ブルジョアジーが興ったからである。 大名、武士は土地を領有して(領主、知行主)その土地に住む百姓(領民)から米を年貢としてとる。 領主はそれで経済を立て、家来には領民から取り立てた米をそれぞれの身分に応じて分配する。 この関係がこの単純さのままで永遠につづけば文句はなかった。
高柳光寿(たかやなぎみつとし)博士によると、戦国時代に武士が戦闘の際に、できるだけ目立つような旗指物をつけたり、「やあやあ、遠からんものは音にも聞け、近くば寄って目にもみよ、われこそは・・・・・」と大音声で名乗るのは、なにも敵方に己の武勇を誇示するだけではなく、実は、自陣の後方で諸士の働きを注目しながら採点をしている軍目付(いくさめつけ)(軍監)にわかるようにしたいためだったそうである。 点数によって知行が加増されたからだ。 なるほど、甲冑姿(かっちゅうすがた)の入り乱れる戦場では、誰が誰だか遠目にはわかるまい。 命を賭けての働きだから、確実に、おれだ、おれだ、と後方の採点係にわかるようにするには、独自の旗指物をつける必要があった。 それでそのデザインもしだいに奇抜なものとなり、色彩も工夫されていった。 これも、名誉心を満足させるほか、いわば少しでもよけいに扶持米(ふちまい)を貰い、経済生活を裕福にしたいためである。 (大久保彦左衛門の「三河物語」には自分の働きにもかかわらず、採点が少なかったと繰り言が述べられてある)。
これで、その子孫が先祖の手柄で貰う家禄米で座食していける間は天下泰平であった。 しかし、貨幣経済となって諸生産が起こり消費生活が膨張すると、幕藩から支給される米(金銭と併用して支給)の年三回の期限が待ち切れず、禄米や知行米を抵当に、町人から金を借りてやり繰りするようになる。 町人は日ごろから蔑視されている恨みが欲に手伝って、高利をとったから、武士はいよいよ困窮し、町の金融業者はいよいよふくれ上がった。 武士の魂の中身が竹光(たけみつ)という旗本がある一方、花街(いろまち)で一夜千金を浪費する蔵前(くらまえ)の札差(ふださし)(もとは幕府に支給される扶持米の保管倉庫業者だったが、金融業を兼ねた)が出る。 武士の女房が冬でも夏の単衣を着て裾囲りだけ袷(あわせ)でごまかしているのに、町人の女房の頭には百金の髪飾りが載っているという具合。 おのれ素町人(すちょうにん)め、と怒っても金には弱くなっている武士階級は、各藩いずれも大坂の町人ブルジョアジーに頭を下げねばやっていけなかった。 地方各藩の改革が中央よりも早期に行われたのは、これを物語っている。
これを要するに、徳川初期の土地経済が貨幣経済に移ったため、限りある土地の米収入では、無限の支出を余儀なくされる貨幣に追いつかず、これがなければ衣食住もできないくらいに消費生活や経済が向上しているので、幕府や大名が貧窮したのである。 これに、一定の扶持米で抑えられている武士階級の人口増殖が生活の零細化を扶(たす)ける。 つまり、貨幣流通の回転速度に、土地経済が追いつけなくなり、幕府の自壊となるのである。
それでも幕府に権威の実力があるころはよかった。 権力で、ある程度、町人の横暴(貨幣経済)を抑えることができたからである。 享保の改革はそれで成功したのだ。 寛政の改革も辛うじて破綻から救われた。 だが、天保となると、もういけなかった。 それは年代が下がるほど経済組織が発達したからでもあるが、肝心の幕府に実力が失われたからである。
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天保改革の立役者水野忠邦はもと備前唐津(びぜんからつ)六万石の藩主だったが、閣老になりたいばかりに実収二十六万石といわれる唐津を捨てて浜松六万石に願い出て転じた(唐津藩では長崎警備の任務を課せられるため中央政府入りができない慣例(しきたり)だった)。 もって政治家としての意気込みがわかる。 彼は天保改革のために生まれあわせたような男だった。
忠邦は改革に当たって手本を享保のそれと寛政のそれとに求めた。 とくに寛政改革を行なった白川侯松平楽翁(らくおう)(定信)を崇仰した。 しかし、忠邦は徳川吉宗(享保)はもとより、第二の定信にもなれなかった。
それは忠邦が定信にとくに劣っていたからではない。 もし条件さえ揃えば、手腕の点では両者五分五分であった。
条件とは何か。 そのことに少し触れねばならない。
徳川幕府は二百六十五年つづいたが、これを二つの時期に分けて前期を幕府政治の確立と発展期とし、その下限の元禄期が爛熟(らんじゅく)の頂点であろう。 後期の享保年間にはいると、その最盛期が前期の内部矛盾のためにしだいに動揺期にはいり、やがて衰亡の幕末期を迎えるのである。
これを別な見方からすれば、家康、秀忠、家光の創成記から綱吉、吉宗に至るまでが将軍の実力時代である。 綱吉時代には柳沢吉保(やなぎさわよしやす)にみられるような側近政治がはじまったが、まだそれは将軍の威令のもとに置かれた。 享保の改革が成功したのは、次代の吉宗の将軍的実力が残っていたからである。
その次のあたりから老中政治に移行する。 吉宗の子家重(いえしげ)の時代には田沼意次(おきつぐ)の老中政治が現われ、その放漫政策がインフレを増長した。 いわゆる田沼時代である。
そのあとを承(う)けた寛政のデフレ改革がともかくあまり破綻をみせずに済んだのは、松平定信の老中政治がまだ権威を持っていたからである。 いうなれば、未だに幕府自体の実力が温存されていたともいえる。
その後、ふたたび側近政治がはじまり、家斉時代には彼が大御所として寵臣に政治を任せっ放しになった。 また家斉の好色は、大奥に内閣人事まで容喙(ようかい)させるようになる。 芝居に出てくる茶坊主の河内山宗俊(こうちやまそうしゅん)の後ろ楯は家斉の寵臣中野清茂(なかのきよしげ)(碩翁〈せきおう)=石翁とも)であり、清茂の養女が家斉の愛妾お美代の方だから、河内山は横車が押せたのである。 また、この期は田沼時代にも劣らず賄賂・進物政治となり、将軍は貨幣改鋳のインフレ政策の上に奢侈(しゃし)生活を送った。 もっとも、貨幣経済はいよいよその威力を発揮し、さまざまな産業が急激に興り、消費生活はいよいよ贅沢なものとなっていった。 こういう時代は文化が成熟する。
水野忠邦は家斉時代の不健全財政を建て直そうとし、楽翁に倣(なら)って改革に着手したが、幕府の実力の衰頽は蔽(おお)うべくもなく、将軍の威光失墜は老中の影をうすくした。 そのうえ、蝦夷(えぞ)にはロシア艦船が、長崎にはイギリス艦船がうかがうというような、外からも脅威が目立ってきて、鎖国政治そのものにも破綻を来たし、幕府を根底から揺さぶるのである。
忠邦は合理的な政策を行おうとした。 たとえば、物価が高騰するのは大坂、江戸の問屋仲間が取引を独占して相場を操るからだとみて、問屋仲間の解散を命じたが、経済成長は幕府の実力では如何(いかん)ともすることができず、いたずらに市場の混乱を起こさせただけだった。 また、海外からの脅威に備えて、江戸と大坂周辺十里以内の土地を幕府直轄にしようとして、その域内にある各大名の代替地移転を考えたが、これに真っ先に反対したのは親藩(しんぱん)の紀州家であった。 このあたりからはっきりと幕府の足もとが見すかされ、各大名も幕府の命令を聞かなくなる。 たとえば、忠邦は水田開発と利根川の氾濫防止と、米穀の運送路を拓(ひら)くために、印旛沼(いんばぬま)の開鑿工事を行ったが、これに要する費用の分担金を仙台藩ははっきりと拒絶している。 印旛沼開鑿失敗は忠邦の失脚理由の一つである。
忠邦が老中の座を過信して幕府実力の衰弱に気づかなかったのは悲劇である。
忠邦は質素、倹約のため徹底的な奢侈禁止令を出した。 江戸三座の芝居小屋を閉鎖し、町人が絹物を着ることを禁じ、婦人の髪飾りに金銀鼈甲(べっこう)の類を付けることを禁止した。 監視には市中に隠密を放ち、目付にはまた隠れ目付をつけるというありさまだった。 歌舞音曲いっさい罷りならず、女義太夫、女師匠、女髪結床(かみゆいどこ)、見世物などの禁止、水茶屋の閉鎖、町の看板の制限までして、江戸市中の盛り場は火の消えたようになった。 その倹約令は将軍の私宅である大奥にまで及んだ。 そこで、大奥からアンチ水野の火の手が揚がり、忠邦を倒す有力な原因となる。
たとえば将軍家慶(いえよし)は魚の添物(そえもの)につく嫩生姜(めしょうが)が好物であった。 ところが季節になっても食膳にいっこうに嫩生姜がのぼらない。 側近に訊くと、忠邦の政令で野菜の初ものは売買を禁止しているため、百姓が作らないのだと告げた。 江戸っ子が初鰹その他のハシリを好んで食べるのを贅沢だとして忠邦は禁じたのである。 家慶は「嫩生姜まで禁じるとは思わなかった」と不服そうに呟いた。 この呟きが忠邦の命取りになったという有名な挿話があるが、それがもとではないだろう。 しかし、もって忠邦の徹底的な改革ぶりがわかる。
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忠邦は老中首座となるや、閣僚を自派で固めた。 とくに南町奉行に鳥居甲斐守忠耀(とりいかいのかみただあき)を抜擢し、市中取締に任じた。 その監察が苛酷なため、彼の官名と名前をもじって世に彼を「妖怪」と呼んだ。 また、天文方(てんもんかた)で蘭学に通じていた渋川六蔵(しぶかわろくぞう)を登用し、己の相談相手とさせ、彼から諸種の献策をなさしめた。 また、金座の後藤三右衛門(ごとうさんえもん)と手を握り、経済政策の改革に彼を利用しようとした。
ところが、鳥居と渋川とは水野の形勢が悪くなると反対勢力に寝返りし、忠邦の脚を引っぱろうとする。 のみならず、彼の没落に追打ちさえかけている。
最近、水野家から夥(おびただ)しい文書が東京都立大学に寄贈された。 これを見ると、当時の幕府役人たちが両勢力の間を右往左往し、権謀術策を尽していることが詳細に出ている。 同大学教授松好貞夫(まつよしさだお)博士の「金貨と大名」には、その一端が出ていてたいへんおもしろい。
天保の改革も上層部の動きだけでなく、下級官僚の生活から眺めると、また現代に通じるものがある。
由来、江戸っ子は毒舌家だ。 しかし、気の弱い悪口家で、シリアスな苦痛も洒落でかわしている。 たとえば、ときの政治にひどい目に遭(あ)っても独特なユーモアで批判している。 それは言論の抑圧で正面切って云えないからでもあるが、元来がユーモリストなのである。
○世の中にか(蚊)ほどうるさきものはなし、ぶんぶ(文武)ぶんぶと夜も寝られず
○白河の清きに魚もすみかねて、もとの濁りの田沼恋しき
悪政家の田沼が倒れたときは「世直し大明神」の山車(だし)まで出した江戸っ子も、急激な改革には悄気(しょげ)てしまったのである。
これが忠邦の失脚となると次のようになる。
チョボクレ「ヤンレ、そもそも、水野がたくみを聞きねえ。 することなすこと忠臣めかして、天下の政事を己が気儘にひっ掻き回して、なんぞというとは寛政の倹約、倹約するにも方図があろうに、どんなに目出たい旦那の祝儀も、献上の鯛さえお金で納めろ。 あんまり卑しい汚ない根性、御威光がなくなる。 塩風くらってねじけた浜松(忠邦の居城)、広い世界を小さい心で、世知弁ばかりじゃなかなかいけねえ。 隠居(家斉)が死なれて僅か半年、立つか立たぬに、堂守潰して(感応寺の破却)御朱印取上げ、あまだな壊して路頭に迷わせ、芝居は追立て、素人つき合いちっともするなの千両役者も、浄瑠璃太夫も、めっぺらぼんのすっぺらぼんと、坊主にしようの奴(やっこ)にしようの、揚句の果てには義太夫娘を手鎖で預けて、おやじおふくろ干乾(ひぼ)しで殺して面白そうなる顔つきするのは、どんな魔王の生れ替りか、人面獣心古今の佞奸(ねいかん)、さてさて困った世間の有様、老中で居ながら論語も読めるか。 白河気取は見下げた大馬鹿。 チョボクレ、チョブクレ」(浮世の有様)
要するに、天保時代は、この改革をめぐって権謀術数が凝らされ、派閥の抗争激甚であった。 一方、市井(しせい)には隠密が満ちて、奢侈に馴れた江戸市民には一種の恐怖時代をつくった。
― 以下 略す ―
(杉浦補注)
天保図録は、織田完之著「印旛沼經緯記」を参考文献として書かれていると見られ、「印旛沼經緯記(外編)」から「鳥居甲斐守五諸侯ヲ率井印旛沼工事ヲ督ス」の記述が文中に引用されている。
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