○ 臼井八景 并びに序
( 出典 : 「口訳 利根川図志」赤松宗旦 原著 阿部正路・浅野通有 訳 1978年6月10日 崙書房 発行 成田市立図書館 蔵 )
下総国臼井郷瑞湖山円応禅寺は、中興の城主平行胤が故(わけ)あって草創した精舎である。 境地は霊妙、景色は絶佳、後は、古城を背に、高い樹や長い竹がまわりを囲み、前は、湖水を抱き、そこには静かな鴎(かもめ)や浴みする鳬(かも)が浮んでいる。 晴れた日も雨の日もその景色はすばらしく、日夜遊渉して飽きることがない。 若(も)し試みにこの趣をいえば、東方、飯野の晴れた雪景色を望めば、西方、故城の夕陽に照り映える。 浮き草が切れて、金玉のようにかがやき流れるのは、瀬戸の月影であり、晴れた日の山風が吹いて琴瑟の響を立てるのは洲崎の松の音である。 光勝寺のまどうに聞える鐘が暮れを告げて、諸戸の片帆舟は帰りをせき立てられる。 沙浜の平らで水の浅い、秋の訪れた遠部の浜には、旅する雁が下り、野雨が静かに降る舟戸の岸には、漁翁が舟を繋ぐ。 さらに、春には花の曙(あけぼの)を待ち、夏には竹の陰の涼を納れ、大樹を移り飛ぶ鳥、嶺に答える蝉、秋には楓林の酒を愛し、冬には山道を行く樵(きこり)の歌に和して歌う。 広野に鳴く蛩(こおろぎ)、寒々とした汀に立つ鷺、おおよそ四時の佳興、一日の眺望は、千変万化、枚挙に遑(いとま)がないのである。 私は老の身をもって寺前に留り、心懐を湖水に濯うようになってから、今に至るまですでに五年になる。 寺の僧的公は、仏門における旧識である。 興に乗っては、一日を詩歌の製作に過ごし、静寂な住居を尋ねては、また燈の前に一夜を過ごすというように、本当に世俗を忘れた楽しみは、大きく且つ窮りない。 公が常に恨んでいうのに、ここは景勝の地に恵まれているにもかかわらず、詩人の詩、歌人の歌がない。 これは有るべきものが欠如しているということである。 もしこれを補わなければ、風流の罪となろう、と。 そこで遂に八景を詩に賦して示された。 一たび唱すれば、景勝の地に坐しているようで、本当に所謂有声の画である。 後世のこの作品をみるであろう人々にとって、詩が欠けることも歌が欠けることも許されない。 公がいわれるのに、私もまたこれを詩歌に作って見ては、と。 義を見てどうして黙っていられよう。 漫りに詩歌を綴って公の佳作の後に付した。 みずから絶世の美女西施の顰(ひそみ)に效った醜女東施のしわざに類するものと思っている。 内心では、とても食べられない蝦や蟹を餌にして金鱗の魚を釣ろうと期するもので、願いはここにある。
時に、 元禄十一年(一六九八)十一月晦日 臼井の隠士 信斎叙す
舟戸の夜雨 宋 的
夜雨蕭々たり舟戸の天 深泥路を封じて平田に接す。
青燈耿々たり漁窓の外 幾許の浴鳬か水辺に喧しき。
夜の雨がさびしく降る舟戸の空、平田に接する路は深い泥に封じられている。青白い灯火の明るく輝く漁師の家の窓の外、幾羽ぐらい水浴する鳬がいるのであろうか。水辺が騒がしい。
漁する舟戸の浪のよるの雨ぬれてや網の縄手くるしき 信 斎
夜の雨と舟戸の浪に濡れてしまって漁をする網の縄手がとても苦しく感じられることだ。
遠部ノ落鴈 宋 的
行を乱す飛雁田疇に落つ 蘆葉半ば凋む遠部の秋。
稲梁を貧了して饉を充たさんと欲す 沙頭に倦翼し且つ踟チュウ(知ヘン+厨)す。
列を乱して飛ぶ雁が田畑に下りる。秋の遠部では、蘆の葉が半ば凋んでいる。稲や梁を貪り尽くして饉を充たそうとし、砂浜におりて翼を休め、かつ たちもとほる。
手を折りてひとつふたつとかぞふればみちてとをべに落つる雁がね 信 斎
指を折って、一羽、二羽と数えて、指の数全部の十に至った、ちょうどその時、十という数そのものの遠部(とおべ)に落ちてゆく秋の雁たちよ。
飯野ノ暮雪 宋 的
一丘突兀として気蕭森 冬嶺の青松半ば陰を落とす。
瓊屑紛にたり衰日の暮 玉龍忽ち見る波心に偃するを。
一つの丘がそば立ち、大気はひっそりときびしい。冬の嶺の青松は半ば影を落とす。赤い玉の粉を散らしたような夕日暮、玉の龍が突然波の中に偃しているのが見えた。
ふり積る雪の夕べを見ぬ人にかくといひのゝことの葉もなし 信 斎
飯野に降りつもる夕べの雪のすばらしさを見たことのない人に、飯野の雪は、こんな美しいと言い得る言葉もない。
師戸ノ帰帆 宋 的
布帆一幅清湾に泛ぶ 万頃の煙波往きて亦還る。
潭面風休んで鏡を鋳るが如し 影は翠黛を分って前山を清す。
布の帆を張った舟は清らかな湾に泛び、広々としたもやのたちこめる水面を往き来する。潭の面は風が止んで鏡のように静かになり、前山のみどりを、くっきりと映し出している。
もろ人の諸戸の渡り行く舟のほのかに見えてかへる夕くれ 信 斎
すべての人―、もろ人が諸(もろ)戸に渡ってゆく舟がほのかに見える夕ぐれの中を帰ることだ。
瀬戸の秋月 宋 的
清湖影を漂わして月流るるが如し 残漏光を惜んで人楼に倚る。
瀬戸の清風今夜の景 吹いて我をして洞庭の秋を嘯(うそ)ぶかしむ。
晴れ渡った湖は月影を浮べ、月の光は流れるようである。夜も更けて時の過ぎ去るのを惜しんで人々は高楼から臨み見る。清らかな風が吹き渡るすばらしい夜の光景、風に吹かれて私は洞庭の秋を歌った詩を吟じるのであった。
もろこしの西の湖もかくやらんには照る浪の瀬戸の月かけ 信 斎
私のあこがれている中国の西湖も、きっとこのようなものだろう。眼前の浪の平らなまるで庭のような水面を照らす狭い海峡の月の光の、まことに美しいことだ。
城嶺ノ夕照 宋 的
空しく見る平湖と攅嶺 昔年の層閣総べて蹤なし。
孤城の返照紅葉に斂まらん 近市の浮烟翠且つ重。
空しく平らな湖水と重なり合った峰々を望み見るこの城山には、昔の高殿がすべて跡形もなくなっている。孤城の夕映えの紅が今にも収まろうとする時、近くの市あたりには夕もやが緑に幾重にも棚引いている。
いく夕べ入日を峰に送るらんむかしの遠くなれる古跡 信 斎
この古跡を照らす夕日を見るたびに、過去がいよいよ遠くなっていく。古跡の落日を、これからのち、さらに何回、あの峰に送ることになるのだろうか。
光勝晩鐘 信 斎
一遍の宗風己に儼然たり 星霜五百有余年
鐘声遥かに響く弧雲の外 知んぬ是称名落月の前
一遍上人の宗風は己に厳然たるもので、五百有余年の年月を経ている。鐘の音が遥かに離れ、雲の外に響き渡った。寺では夕方の念仏が始まったのであろう。
けふも暮れぬあはれ幾世をふる寺の鐘やむかしの音に響くらん 信 斎
今日も暮れてしまった。あはれ幾年も経た古寺の鐘よ、鐘の音だけはむかしのままの音で響こうとするのであろうか。
洲崎ノ晴嵐 信 斎
江山を掃尽して嵐靄を絶つ 朝来子細に洲崎を見る。
翅を曝す鴎鷺平沙の上 葉を交へる蒹葭浅水の濱。
湖や山にかかっていたもやを風が吹き掃って、すっかり晴れ渡っていたので、私は、朝から子細に洲崎を見ている。平らな砂浜の上では鴎や鷺が翅(つばさ)をひろげて日にさらし、浜の浅瀬では蒹(よし)や葭(あし)が葉を交えている。
ふき払ひ雲も嵐もなかりけり洲崎によする波も静かに 信 斎
風に吹き払われて雲はまったくなくなり、吹く嵐もまたなくなった。洲崎に寄せる波も静かでこの世はまったく静寂そのものである。
跋
おおよそ有名無実のものは、異国の景物である。 このわが寺の門外にある瑞湖(印旛沼)は、中国の瀟湘の佳趣に劣らないもので、はるかに洞庭湖の逸興を超えている。 しかしながら古今を通じてわが国においては、貴人が美しい文章に記すこともなく、僧侶や俗人が風雅なおもいを叙べ尽くすこともなかった。 それ故、景に富みながら句に富まず、吟に貧しいが興に貧しくないということになっている。 ああ、これこそ実が有りながら名が無いものといえよう。 この故に、信斎徴君とともに、逸余を繕い録し、闕漏を裨補(おぎな)った。 製作が積ってともに燈前に見る一軸となった。 これらは皆、文人墨客が黙って見過ごすことができないものである。
時に、 元禄戊寅の年(一六九八の冬 盲亀子 これが跋を作る。