○ 臼井城跡 (うすいしろあと)
( 出典 ; 「口訳 利根川図志 巻4」 1982年10月23日 崙書房 発行 赤松宗旦 原著 阿部正路・浅野通有 訳 成田市立図書館蔵 )
臼井宿の台にある。 佐倉から一里(約四キロメートル)あまり西北の方である。 私は、ある日、臼井の大川源五右衛門書成(ふみなり)のもとを訪ね、臼井の城跡を尋ねた。 書成は筆をとって、今の様子を図に書き、私に示してくれた。 そこで、その図を北斎に縮図にしてもらって、次にかかげて置いた(杉浦注;ここでは図を略す)。 また、同所の円応寺に伝わる旧記を見せてもらった。 その要点をまとめて、ここに記しておく。
臼井元祖伝
千葉ノ介常兼は、三男常康に数箇の庄園(角来、飯重・井郷・羽鳥・亀崎・栗山・長岡・内黒田・鍋黒田・生谷・物井・下志津・上志津・上座・小竹・井野・青菅・先崎)を分け与え、臼井城主とした。 これに因って臼井六郎と号した。 千葉介・上総介に次ぐ大族である。 この臼井城は、前には広野が渺々と開け、後には湖水が満々と水をたたえ左右の谷は広く深く、山は繚(めぐ)り曲り、人力を尽したとしても、どうしてこのように堅固にすることができようか。 自ら守るに利あり、敵の攻めるのに便がなく、南方を望めば生谷(おぼかい)(小保貝は林の名)の松が千年のめでたい瑞(しるし)を示し、北方を顧れば印旛の波が万歳の響を伝えている。 城郭の周囲は三里(約十二キロメートル)余りで、印西から水を隔てること一里ばかり、誠に名城であり、景勝の地である。 常康は、頼朝に奉仕して勲功があった。 頼朝公は、大庭氏のために軍を敗(やぶ)られ、千葉氏を頼って下総に到った。 常胤は一族を率いて従った。 時に常康の嫡子常忠太郎、孫子与一等も、騎兵三百を率いて従った。 以来、前には平家を追討して、西海に粉骨し(後には)泰衡を征伐して、東国に砕身した。 常胤が頼朝公に大功があったのは、偏(ひとえ)に一族が力を合わせたためである。 頼朝公の常胤に対する敬愛は、世の知る所で、その恩顧も浅からず、それ故余威が親族に遍(あま)ねかったのである。 ただ恨めしいのは、功労があっても、千葉一族と書かれるだけで、各自の名を記されなかったので、美誉も遠くは聞えず、芳声も久しくは伝わらなかったことである。 常胤より祐胤四郎に至るまで、凡そ五世相続いで臼井の城主と為り、将軍家に奉仕した。
臼井正統中絶記
正和三年(一三一四)秋、祐胤は不幸にも病の床に臥し、医療も施すすべがなくなった。 祈祷もききめがなくついに八月七日に死去した。 歳僅かに二十五歳、ただ一人の子息がおり、竹若丸と呼ばれた。 三歳であった。 死に臨んで祐胤は遺言した。 「胤氏(祐胤の弟である。志津の城主となったので、志津次郎と号した。『東鑑』に臼井次郎とある。)が竹若丸に代って法令を行い、士を憐み民を撫すること、祐胤の生存中のようにせよ」と。 胤氏は始めは兄の遺命を守っていたが、次第に謀反の心が生じて、義心は忽ち消え、まだ一年も立たないのに、秘かに竹若丸を殺して、自分が臼井の城主になろうと謀った。 家臣に岩戸五郎胤安(岩戸村の名は印西にある。胤安はここに居たので、岩戸五郎と号した。)という者があり、側(ほのか)にこのことを聞き、殺そうとした前夜に、自ら山伏の姿となり、竹若丸を笈の中に蔵(かく)し、潜(ひそ)かに逃れ去った。 この時、胤安は妙見菩薩に祈って、恙ないことを願った。 胤安は笈を小舟に載せて、自ら湖水に棹(さおさ)し、岩戸に帰った。 そうした後、また潜かに岩戸を出て、鎌倉に奔(はし)り、直(ただち)に建長寺に至り、ひたすら仏国禅師に頼み、成長の後は僧にするよう約した。 禅師は具(つぶさ)にその由(わけ)を聞き、愛憐養育すること、父の子に対するようであった。 漸く成長して後、禅師は僧とすることを願わなかった。 これは孤児を恤(あわれ)む真心から出たものである。 かくて元服させ、左近行胤と号した。 機会あるごとに基時・貞時等に告訴し、本領の地に帰らせようとした。 しかしながら天がまだ命を下さなかったのであろうか。 事は終に成就しないうち、禅師は示寂された。 しかしあらかじめ弟子の仏真禅師にいわれるのに、「どうかわたしの志を継いで行胤を助けてほしい。」と。 その遺教に因って仏真禅師も亦恩顧の厚さは、仏国禅師に異ならなかった。 行胤は辛苦を嘗(な)め、春を送り秋を迎え、空しく二十余年を終えた。 此の時に至って、歴代の文書も皆なくなり、累代の珍器もすべて失われた。 これは幼少で孤児となり、その上禍にあったがためである。
臼井中興記
建武二年(一三三五)の秋、足利尊氏は詔勅を奉じて時行を追討しようと、関東に下向し、相戦うこと十余度びあった。 時行は敗北し、行くえ知らずになった。 その後尊氏の兵威は、重く八州を左し、関東の武士は皆これに属した。 尊氏は自ら征夷大将軍を称し、義貞を討つことを奏上した。 義貞もまた尊氏に逆心の有ることを奏上した。 これに依って京都のあたりは騒然となた。 この時、仏真禅師は行胤と相議していうのに、「尊氏卿は必ず天下を主どる器(うつわ)である。この度従軍して抜群の忠義の働きをしたならば、錦を着て故郷に帰る望みを達することができよう」と。 そこで行胤は精兵五騎を率いて尊氏卿に属した。 その費用はすべて建長寺一山と仏真師との扶助に出るものであった。 かつ門出の日より、建長寺において、一山の僧侶が集まり、毎朝、尊勝陀羅尼百遍を誦して、行胤が戦功を立て本領の地に帰還できるよう祈願した。 その功徳が無駄となるはずはない。 然る後、延元元年(一三三六)の二月、尊氏卿は摂州豊島の合戦に利を失ない、敗走して筑紫に赴いた。 菊地武俊は九州の兵を率いて、筑前の国多々羅浜において、尊氏卿と対陣した。 尊氏卿がいうのに、「敵軍は多く、強く、わが兵は少なく、疲れている。 わが運命は今日すでに窮まった。」と。 ここにおいて行胤が思うのに、わたしが抜群の戦功を立て平素の志を遂げるのは、正に今日の戦場においてである。 これは神力に因るのではなくて、どうして成し遂げることができよう。 つつしんでわが家の守護神に念じ、かつ宇佐八幡および大宰府天神に祷り、みずから誓っていうのに、「もし功が成らなければ、われを速やかに戦死させたまえ。生き延びても何の生き甲斐もありません」と。 主従六騎は直ちに真先に攻め込み、大いに菊地の軍を破った。 その勢は比倫を絶し、いわゆる碬(いし)をもって卵に投ずるがごときであった。 どうしてこれを人間の為(いわざ)といえよう。 本当に神助を得たものであったことがわかる。 菊地が敗北して後、九州はその兵威を恐れ、ことごとく尊氏卿に属した。 大そう感激し喜んだ尊氏卿は、そこで行胤に約束していうのに、「わたしが今日の危機を脱することができたのは、ひとえに行胤の忠功にある。のち天下がわが掌中に帰した日には、再び本領の地に帰らせ、感謝としたい。その誓約は変えることはない」と。 天下がすでに定まって後、暦応元年(一三三八)お秋、尊氏卿は行胤を挙げて、従五位下行左近将監に任じ、臼井城主となし、代々領有して来た土地を帰し与えた。 かつ行胤の名を改めて興胤とすべしとの厳命があった。 廃(すた)れた家を再興した意味を取ったのである。 又千葉介貞胤に命じていうのに、「速かに胤氏を志津に退去させて興胤に対して臣としての礼を守らせよ」と。 ああ、天運は必ずめぐり復(かえ)るものである。 興胤は再び臼井城主と為り、その昌栄は又昔日のようであった。 これを臼井の中興というのである。
円応寺草創記并わせて八幡宮・天神祠の造営
興胤が再び臼井城主となって後、自ら心のうちに思うのに、わたしの中興の功が成ったのは、もともと仏国禅師の撫育・仏真禅師の扶助によるものである。 その恩の忘れることのできないことは、ただ自分だけでなく、永く子孫に至るまで、また、なお追憶すべきであると。 そこで豈州国清寺に住持していた仏真禅師を招請して、開山とし、新たに精舎を立て、山を瑞湖と号し、寺を円応と名づけた。 かつ領地の十分の一を寄附した。 興胤の仏真禅師に事えるさまは、まるで子の父に対するようであり、晨(あした)に省み、暮に定め、いわゆる能(よ)く其(そ)の力を竭(つ)くす者であった。 寺と城とは、一つの池で隔てられてたので、橋を作って、その往来を便利にした。 又あらかじめみずから心に期して思うのに、わたしに子供が生まれたならば、その長子をまず僧として、法を仏真禅師に嗣がせようと。 併せて強い恩徳に感謝する気持ちを表したのである(『道菴和尚伝』に云う、興胤の長子で、暦応二己卯年(一三三七)の歳、十月二十四日誕生した。若い頃から僧と為り、仏真禅師に法嗣し、円応寺の第二世と為った。道菴和尚とはこの人である)。 それだけではなく、多々羅浜の戦功が、ひとえに神助に因るものであるので、それ故宇佐八幡宮及び宰府天神を臼井に勧請し、長く報賽(神の恵みに感謝する祭り)を致した。 八幡宮は城南にあり、その山を八幡山と呼び、その寺を満蔵寺と呼んで、別当とし、神事を掌らせた。 八月十五日に祭礼がある。 興胤は最初土地をここに相(み)た時、みずから携えて来た楠樹の枝を地に植(た)てていうのに、もしこの楠樹の枝が活きて葉を生じたならば、神霊が来り格(いた)った証拠である、と。 そうした後、その樹は繁茂して大木となった(今神前にこれがある。周囲は三丈ばかり)。 ああ、その霊妙は測り知れないものである。 又城中に、菅神祠を草創し、妙見堂を修覆し、八月二十五日には菅神を祭り、七月二十二日には妙見を祭り、みずから神がそこに在(いま)すがごとき礼を行った。 想うにそもそも興胤の人となりと、その誠実はよく二神を感動させ、その勇気は忽ち三軍を挫き、幸いに中興の祖となり、みずから富貴の地位に処ることとなったが、長く郎当の身分であったことを忘れず、寒く饑えたる人々を恤(あわ)れんだ。 おおむねいくつかのことによって、その人の平生の志行というものは、察することができるのである(この外、旧記は多いけれども煩雑を恐れて省略した。○『諸国圭斎録』の「下総国、禅宗」に、「二十石 印旛郡臼井郷 円応寺」とある)。
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