○ 吉植農場
< 吉植 庄亮 > (よしうえ しょうりょう)
( 出典 : 「20世紀日本人名事典 そ〜わ」 2004年7月26日 日外アソシエーツ(株) 発行 成田市立図書館 蔵 )
大正・昭和期の歌人、政治家 元・衆院議員(無所属倶楽部)
生年月日;明治17(1884)年4月3日 没年月日;昭和33(1958)年12月7日 出身(出生)地;千葉県印旛郡 号=愛剣 学歴学位;東京帝国大学経済科(大正5年)卒 経歴;父・庄一郎経営の中央新聞に勤務し、大正10年文芸部長になり、のち政治部に移る。 13年帰郷し、印旛沼周辺の開墾事業に着手。 昭和11年衆院議員となり百姓代議士として活躍、3選したが戦後公職追放となった。 歌は明治33年頃から「新声」などに投稿し、金子薫園に師事。 大正10年「寂光」を刊行し、11年「橄欖」を創刊。 13年「日光」同人となり、昭和3年「くさはら」を刊行。 他の歌集に「大陸巡游吟」「開墾」「風景」「霜ぶすま」などがあり、随筆集に「馬と散歩」「百姓記」などがある。
< 歌集 開墾 後記 >
( 出典 : 「歌集 開墾」 吉植庄亮 著 平成13年3月1日 短歌新聞社 発行 成田市立図書館 蔵 )
この歌集に採録した歌一千有余首は、大正十五年一月開墾に着手してから、昭和十年水田六十町歩開墾終了まで、約十ヶ年間の開墾と、百姓仕事との、文字通りの怱忙の生活から生まれたものである。 百姓の事に関しては何ひとつ知らない身で、今年は五町歩、翌年は十二町歩、そのまた翌年は十町歩と開墾を続けては、今度は前年迄の開墾分と併せて、稲作りの百姓をやってゆくのであるから、全く以て一つの大きな冒険であった。 開墾資金は政府の低利資金を借りて充てたが、農業経営資金は一文なしである。 第一年目の収穫などは、収穫小屋も無いので、居宅の畳をみんなあげて、籾は板敷の上に収穫(とりいれ)をした。 第一年目の収穫で、農具も沢山買入れ、作業所もやっと建てたが、二年目にはこの作業所は、あまりにも狭過ぎる作業所となってゐた。 二年目に、三年目に、四年目に、建増しの上にまた建増しと言った具合に、妙な恰好の作業所が出来上った頃に、やっと四十町歩だけの水田開墾の目鼻がついた。 開墾が手広くなるにつれ、牛馬が十数頭になるし、作男(さくおとこ)も二三十人といふ大家族になり、鶏、豚、兎、山羊、七面鳥の眷属も殖えるし、その人間と家畜との住居(すまい)の造作が始まり、百姓に大事な、堆肥の為の大きな建物も建てられた。 何の事はない、開墾につぐに開墾、建設につぐ建設、そしてあとは大百姓(だいびゃくしょう)の目の廻る生活が残された。
私は春四月から秋十月まで、朝から晩まで田の中で暮らした。 田植どきなど、多い時は百人から百五十人を指図しつつ、自分が先頭に立って働き、用達しの人達が来ても多く田の中で話した。 私の腕も臑も、漆黒と言ひたいほどの黒さとなり、闇のなかでも黒光りに光った。 十一月から三月までは、今度は新しい開墾、整地、トロ押し、畦畔道水路作成で、余る暇というものは少しもなかった。 かうして、年から年中、土の中での生活が私に続いた。
幸に私の開墾と稲作りとは、不思議な大きな力で祐(たす)けられて、思う壺に芽が生えた。 私の家の作男らはよく、険悪(あぶな)い天候の下に働きながら、なあに仕事はまだまだ八分だ、この開墾は八分仕事には雨なんか降らないよと、口口に言ひつつ、ひと雨来たら根底から覆へる仕事を、ただただ強気で押し切った。 そして雨は、仕事が九分がた片付かない事には降らなかった。 この開墾は神様が特別に目をかけてゐて下さる、かう彼等が思ひ込み、私自身もさう思はざるを得ない程、開墾も稲作りも、順風満帆であった。 私の家の祖先達(みおや)の念願でありながら、機会に恵まれず私に残された開墾であるだけに、祖先神霊の冥助が必ずある、その順風満帆にあふ度に、いつもさう思はずにはゐられなかったのである。
私はいつも怡しかった。 一粒の米も穫れなかった土から、何百俵もの米を初めて穫り上げた時の心躍りは、いまだに忘れる事は出来ない。 その上に土の仕事は、身と魂との禊(みそぎ)になった。 労働は、痺るるばかり身と魂とを引き締めた。 幼き命を伸びしめ護りゆく、豊かなる百姓道がまた私の前にあった。 生命への強き愛着を、私は私の人生に於いて始めて感じた。 かういう生活が五ヶ年間、昭和五年まで続いた。
本歌集の全般は、大体さう言った私の心が、生活が、心(しん)となってゐる歌ばかりである、と言ってよからう。
ところが、このまことに恵まれた私の百姓生活は、昭和五年後半から、農村全体の転落と共に転落した。 昭和五年の豊作飢饉、昭和六年の凶作飢饉、それから引続いての農村地獄の中に、私は私自身を嘆息した。 そして政治の浅薄と、片手落と、無認識とに、激しき憤を感じた。 同時によくもこんな特殊な世界があったものだ、それにしても私はまた、よくも選りに選って、命がけで、かうした世界に飛び込んだものだ、といふ感傷に苛まれた。 随って農村問題への関心を昂め、革新政治への熱意を湧き上らせた。
昭和五年後半から十年へかけての歌は、大方かうした心が中心になってゐる。 そしてその心の延長が、衆議院に進出の十一年の歌を、開墾十年の附録として採録せしめていゐる。
私は外の場合でも書いてゐるのであるが、日本には農民勤労歌が、万葉集の中に数首見出されるだけで、長塚節の出現まで二千年間、全然その後を断ってゐる。 開墾の歌に至っては、二千年にたった一首、万葉集にそれが出て居る程度である。 この点から言って、開墾農耕の歌で一杯の本集は、偶然にも、日本の歌壇に一つの寄与をなすものと言っても、過言でないやうである。
また、今日の農民文学は散文による作品乃至は記録に止まって居り、之に対して、私はかって農民短歌を除外して農民文学を論ずることの誤謬を、指摘して置いたことがあるが、その意味に於て、私は一つの見本として、勇敢に本歌集を農民文学陣営に献ずるものである。
が、どちらにしても、それらの事を決定するものは、本歌集の内容であり、実質である。 この点に就て私は、あくまでもつつましく、大方の厳正なる批判(さばき)をまつものである。
― 以 下 略 ―
昭和十一年十一月十八日
印旛沼にて
吉 植 庄 亮
< 解 説 > 広 川 義 郎
( 出典 : 「歌集 開墾」 吉植庄亮 著 平成13年3月1日 短歌新聞社 発行 成田市立図書館 蔵 )
吉植庄亮の歌集を代表するものとして『寂光』『開墾』『大陸巡游吟』の三冊の歌集があげられる。 第一歌集『寂光』により、華々しく歌壇に登場したのは衆知の通りであり、繊細閑寂の境地による秀歌が多い。 『大陸巡游吟』は製作年代からすれば『開墾』の後になるのだが、先んじて発表されている。 一カ月にわたる中国大陸での旅行詠で、衆議院議員として食料増産と言う時流にも乗り、社会的には生涯を通じて最も充実した年代での所産で、歌柄が大きく繊細の感受もあり、ここにもまた庄亮の代表歌とすべき作が多い。
『開墾』は昭和十六年一月一日、甲鳥書林より、特装本と普通版の二種が刊行されている。 年代的には『大陸巡游吟』に先行するもので、『寂光』おあと刊行された『くさはら』『煙霞集』につぎ、内容は開墾のみに絞り、大正十五年一月一日の開墾始めより、昭和十年六十町歩の水田開拓終了に到る十年間の作、一千五首が収録されている。
それまで東京住いが多く、農機具などに直接ふれたことのなかった庄亮にとって、初めての経験であり、政界進出をも含めてその後の生き方を決定づけた、画期的な事業であった訳である。 庄亮が東京住いをなげうって迄、開墾を決意するに至った経過は不明であるが、度かさなる印旛沼の氾濫による農村疲弊で、明治二十五年には一村四十七戸を引きつれて、一家をあげて北海道石狩国雨龍郡に移住、雨竜村和(やわら)の開墾に当っている。 この時八歳の庄亮は東京の祖父母の許に預けられている。 印旛沼開墾は吉植家積年の悲願であり、その後も氾濫は繰り返されており当然それらを見ききして長じた庄亮にとって、吉植家の長男としての自覚と共に、大きな比重をしめる様になった事は想像に難くない。 それ迄勤めていた中央新聞を大正十三年に退社、翌十四年には岡山、静岡、愛知等の農場を視察、吉植家代々の悲願であった、印旛沼周辺開墾の準備を完了している。
歌集『開墾』を開くと先ず「新鮮なる開墾」と題された文字がとびこんで来る。 「ついで「家天午食」「春光」と続くのだが、庄亮の意気込み、大きな仕事を自分の手でなしつつあると言う喜びと気負いがストレートに出ており、年齢四十二歳、最絶頂期である。
おのづから道はありけり催せる空さへや晴れて星月夜なる
わが家の開墾事務所は穀倉のなかに設けて蛇もゐるところ
をりふしに鶏卵(かけろ)を生みに来て一日したしき倉のなかの事務所
見る限り焼き払ひたる出津の野はいく日ののちも野火の匂す
開墾機(トラクター)エンヂンとどろかし過ぎにけり働きてゐる大地をゆする
新墾(あらき)田の四五十人の一隊の打つ鍬先に光があがる
あかあかと股の下より照りかへす夕日の光顔にあつしも
一日に一俵の米をまかなひて田植台所に妻たけだけし
わが心とどこほる時いでて見る青田三十六町歩うちひびくなり
一つ鳴り二つ鳴りつつ新墾田の大田の鳴子鳴り揃ひたり
開墾機光かがやく玄土の大き切片を放り出しゆけり
むら肝の心をゆする土の香のみなぎらふ野となりにけるかも
ありがたく飯(いひ)いただきてあけくるるいまのおのれを思い見ざりき
土間に食ふ昼飯はうましわが足に触りつつ遊ぶ鶏(かけ)のひよこら
ひとつ潰れひとつ癒りて掌(てのひら)にかたまりのこる肉刺(まめ)のあと五つ
いささかの傷には土をなすりつけて百姓われの恙もあらず
「新鮮なる開墾」だけでこれだけの作が引ける。 土と一体となりきったとも言える作で、『寂光』『くさはら』の到達点、幽美閑寂の世界は影をひそめ、謂わば歌の原点に帰ったと言うか、労働自体即歌であり、歌は生まれるもの説を称えた庄亮本然の姿が、開墾を歌う事により、明確に確立されたものと言える。
穫れすぎてみな驚けり扱籾は畳をあげて座敷にも積む
後記に「私はいつも怡しかった」「幸いに私の開墾と稲作りとは、不思議な大きな力に祐(たす)けられて、思う壺に芽が生えた」「この開墾は神様が特別に目をかけてゐて下さる、かう彼等が思い込み、私自身もさう思はざるを得ない程、開墾も稲作りも、順風満帆であった」とある通り、順調に推移したのは上掲歌の通りであるが、「ところが、このまことに恵まれた私の百姓生活は、昭和五年の豊作飢饉、昭和六年の凶作飢饉、それから引続いての農村地獄の中に、私は私自身を嘆息し、農民農村を嘆息した」とある通りの事態となり、窮状を歌って作品も悲痛である。
出来秋の安値の底に売る米のよく出来にけるがむしろさぶしき
銀行の金催促のゆるさねば安値の底に米鬻ぐわれは
電力を購ふ金の尽きしかば青田の水を人の来り断(た)つ
肥料代払ひつくしてなにもなしせいせいと貧に虐まれゐる
米価安く暮し立たざる田作を勧業銀行苛(さいな)みつくす
憤りはげしく湧きて田作われ心あやふく傾かむとす
ただこう言ったような間にあっても、開墾は着々と進んでおり、稲もまた庄亮に応えてくれ、一穂五百二十六粒、一茎七百四十粒の新聞記事を見て、各地からの見学者が押しよせると言う事もあり、後年になって正月恒例の歌会の折などに我々も見ている。
政府の農政無策により、労多くして報わる事の少ない農業を自ら経験し、疲弊するばかりの農村を見て、政界進出の決意を固めてゆくのだが、庄亮の場合、開墾稲作りをする過程においての、必然のなりゆきであった事がこれらの歌を読む事によって納得される。
やはり後書きに「日本には農民勤労歌が、万葉集の中に数首見出されるだけで、長塚節の出現まで二千年間全然その後を断ってゐる。 開墾の歌に至っては二千年間にたった一首、万葉集にそれが出て居る程度である。 開墾農耕の歌で一杯の本集」が歌壇へ寄与するものと書いているが、これも開墾耕作の歌が、生まれるように、次から次と出て来た、過程から意識されたものであろう。
後年庄亮の政界進出について門下の間で、寧ろマイナス面として取りざたされたが、すべては、詮ないことで、六十町歩の美田、「それも農地解放令の出る前に、幾ばくの自作田を残し開放している」を開墾し、十一冊の歌集、六冊の随筆集を残し、庄亮は庄亮としての大道を歩んだと言うことであろう。
『開墾』からもう一首掲げて置く。
たまきはる命をかけてきほひたる事なりはててかくもむなしき