○ 鹿島神宮・香取神宮と神郡
  ( 出典 ; 平成23年10月8日 千葉県史講演会資料 県立千葉高校 吉井 哲 )



はじめに
 現在の千葉・茨城の県境付近一帯は、古代においては、霞ヶ浦・北浦から印旛沼にまで大きな内海が広がっており、この水域はかって「 香取の海 」等とよばれていた。
 鹿島神宮のある常陸国鹿島郡と香取神宮のある下総国香取郡は、内海入り口付近の南北に位置し、水上交通の拠点として重要な役割をもっていいた。
 この鹿島・香取の地は、古代国家にとって重要な地域であったと考えられる。 なぜならば、延喜式内社に記された全国の神社のなかでも、伊勢神宮を除いて「 神宮 」と称せられる官社は他にない。 また両神宮には武神が祀られており、律令政府の蝦夷征討の拠点としての重要な役割を担っていた。 その機能を維持するため、両神宮の鎮座する鹿島・香取郡は神郡( しんぐん )に指定されている。
 これらの特殊性は、鹿島・香取両郡並びに両神宮に共通するものであり、両者が常にセットで扱われていることも大きな特徴である。
 古代国家にとって特別な神社であった両神宮の祭神やその性格、神郡としての両郡の成立事情について検討し、古代国家と房総の関係について考えてみたい。

  1.鹿島・香取神宮の性格      (略)
  2.香取・鹿島における神郡の成立と蝦夷征討       (略)
  3.神郡の一般的性格と香取・鹿島郡       (略)

まとめ
 ・律令国家は、和銅2( 709 )年を最初に養老年間以降に本格化する蝦夷征討にともない、タケミカヅチ・フツヌシを東国へ勧進しようとした際、水軍の発進基地となった「 香取海 」の両岸に隣接する鹿島・香取の地が必然的に選ばれ、鹿島・香取社を全国平定の神であるタケミカヅチ・フツヌシを祭る「 神宮 」に再編成していった。
 ・「 香取海 」を発した征討軍は、鹿島・香取社の分社・末社の分布が集中する太平洋沿岸地域に沿って、奥羽への海上交通ルートを北上した。
 ・律令国家の東北経営推進の思想的背景として、軍神としての性格を有するタケミカヅチを祭神とする鹿島神宮と、士気の高揚をはかるなどの精神的な側面を有するフツヌシを祭神とする香取神宮とは、両者がセットで存在しなけらばならなかった。
 ・その意図からタケミカヅチの方がより重視されていたことは陸奥国における苗裔神( びえいしん )( 分社 )の分布からも裏付けられる。
 ・両神宮を維持するためには、それぞれ別々の神郡を必要としたものであり、そのために隣接する地域に2つの神郡を成立させることになった。
 ・さらにいえば、養老七年に「 下総国香取郡、常陸国鹿島郡 」は「 紀伊国名草郡 」とともに郡領の三等以上の親の連任を認められている。 ここでも両郡がセットで登場しており、領神郡の神郡認定も『 日本書紀 』編纂時に同時に実施された可能性が強いと考えられる。

 [付] 各神郡の祭神に関する記述は、その多くが『 日本書紀 』神代巻に掲載されている。  例) 度会・多気郡の天照大神。 名草郡の日前大神。宗像郡の田心姫・市杵島・瑞津姫の三神。・・・・・律令国家の支配者にとって重要な要素を有する


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