○ 農村と都市の再生―田園都市の形成に向けて―
( 出典 ; 「農業農村整備サマーセミナー(第43回)講演要旨」 講師 沢田敏男(日本学士院会員 京都大学名誉教授) 平成17年7月5日 全国農村振興技術連盟 発行 「農村振興」第668号 )
農業生産の基盤づくりというのは、人間の生存のための大地への働きかけ、自然への働きかけだと、そのように捉えることができる。 これが農業生産の基盤づくりの一番大切なフィロソフィなのです。
そこで、まずセクション一におきましては、この基盤をなす圃場、それから用・排水路、貯水ダム、頭首工、あるいは揚・排水機場等の整備状況について、「日本水土図鑑」を中心にしてお話を申しあげたい。 それからセクション二におきましては、その基盤づくりのために駆使されてきました科学技術、いわゆる農業土木学会が定義いたしました「水土の知」の進歩状況について概観をする。 そして、最後にセクション三としまして、望ましい社会のあり方として、農村と都市の共生による田園都市の形成について論及してみたいと考えます。
まずセクション一です。 私は、かんがい用・排水路は、あたかも地域の動脈・静脈であるということを以前から申しております。 人間に例えれば、動脈・静脈の機能を果たしています。 かんがい用・排水路は、国土の保全、あるいは国土の発展のためには、地域の用・排水路として非常に役立っていることをまず認識してほしいと思います。
水路の建設の歴史は、人間の生業すなわち農業の営みの歴史と同じだと考えます。 特に、我が国における水田稲作のために十数世紀にわたって開削してきた用・排水路の総延長は、40万キロメートルぐらいになります。 丁度、地球一周4万キロメートルの十倍、そういう長さの水路を、既に我々の先輩、あるいは皆さんもそれに関係して造成されてきたわけです。 その他にも農業水利施設としてのダム、頭首工、揚・排水機場等を合計しますと、主なもので6700ヵ所もあり、また、ため池台帳に載っているため池がおおよそ21万ヵ所あります。 それらはまさに、田園平野における動脈・静脈としての機能を発揮しています。
そして、その用・排水路の関係は、『keine Bewa¨sserung ohne Entwa¨sserung』つまり、排水なきかんがいは無いということです。 これは、ドイツ語の『カイネ・ローゼ・オーネ・ドルネン(とげなきバラは無い)』という有名な諺を少しもじって作ったものです。排水とかんがいというものは、まさに表裏一体、大変密接な関係にあります。(日本水土図鑑による説明省略)
次にセクション二、水土の知の進歩ということに移らせていただきます。 この「水土の知」というものの定義でありますが、農業土木学会は「新たな<水土の知>の定礎に向けて」と題する農業土木ビジョンを策定しました。 これは三年ほど前です。 その要旨は、太陽系で唯一生命が生息する地球上で、生命が持続可能なのは、水と大気の循環と関連した物質の循環の原理、これが作用しているからである。 雨、それを集めて川、あるいは農業用水は用水路、排水路、地下浸透などを経て海に流下し、そこで蒸発した雲が風によって動いて、また雨になる。 そういう水と大気を中心とした循環によって、物質の循環がなされるわけです。
また、人類は、地球の構成要素の一員ですが、今や人類圏として特筆できる活動を行うまでになっています。 人類の生存基盤は農耕をもとに形成されており、水と土がその基盤にあることから、生存基盤の維持のためには、水と土を、生命を律する原理である循環の原理に即して健全に維持していくことが重要です。
つまり、「水土の知」は、生命を律する循環の原理を健全に維持しようとする、そういう哲学のもとに、水田稲作農業に深くかかわる「水」と「土」とそれを使う人に関する全体を対象とした総合的な科学技術で、これが農業土木であると定義をしております。
そういうことから、我々農業土木人は、この農業土木の哲学であり、農業土木原論ともいうべき理念を体得し、誇りをもって「水土の知」の進歩・発展を図らなければならないと考えます。
歴史的に見ると、19世紀においては、それまで人類が蓄えた知識が倍増したので、19世紀は進歩の世紀だといわれています。 ところが、20世紀になり、特に20世紀の後半に19世紀までの知識の十数倍の進歩発展をした。 まさに知識の爆発の世紀でした。 このため、急速に進歩した人間社会が、一面で不安定になったというデメリットも指摘されています。 そういう知識の爆発の世紀である20世紀広範における、農業土木の科学技術すなわち、水土の知の進歩について概観してみます。(水土の知の進歩、省略)
それでは、最後のセクション三―田園都市の形成に向けて―に入ります。 人類が創造した農業の営みから安全で安定した農村社会が生まれ、さらに人口が増加して発展して都市が形成されました。 そして、食料という一次生産から二次、三次産業と分業が進んで、近代的社会が形成されてきたという歴史的な発展過程を考えますと、今さら農村と都市の共生とか連携というのは当然で、当たり前のことなのだということです。
科学技術が進歩し、高度なIT時代を迎えた今日、改めて農村と都市の共生の重層性が高唱されていますが、そのモデルともいえる地域事例について考察し、さらに、望ましい共生社会の姿として田園都市の形成につき論及したいと思います。 さて、私の考えている田園都市というのは、高い生産性と美しい田園景観をもつ農業地帯であり、いわゆる都市ではないのです。 シティではない。 そのようなカントリーで、かつ、都市的な利便性と文化度、これを備え持っている農民、市民の混住・共生の地域社会、これが私の田園都市の定義です。 これから、私が今まで、いろいろ見聞きし経験した地区の中から田園都市ないし田園都市化しつつある事例を選び紹介します。(事例の説明省略)
むすびを述べたいと思います。 21世紀社会のビジョンとしては、活力のある福祉社会の建設・実現が大切だということが私の持論です。 それを実現するための基本的な理念としては、科学技術を振興するための「創造の科学」、さらに資源の温存や環境を保全するための「自制・抑制の哲学」、この二つが必要だと考えています。
21世紀は、知識基盤社会の時代ともいわれており、我が国は、世界最高水準の「科学技術創造立国」の実現に向けて取り組んでいます。 このためには当然、「創造の哲学」が必要です。 我々は、水土の知に対しましても、益々研究を推進し、創造的技術開発に取り組まねばなりません。
それと同時に、人類は、万物の霊長として欲望や要求を抑え、資源エネルギーの消費を節約するという、自制・抑制による資源の温存と環境の保全ということを真剣に考え実行しなくてはなりません。 したがって、人類の持続的発展のキーワードは、「創造の哲学と自制・抑制の哲学」こういう二つではないでしょうか。 この二つの哲学を車の両輪とするような取り組みの大切さを強調したいと思います。
活力ある福祉社会の具体的な社会形態としまして、セクション三で述べたような田園都市の形成が望ましいと考えます。 すなわち、物心両面にわたり豊かな生活を実現し、維持するためには、人と社会と自然が調和した営みをすることが不可欠です。 元来、農業は人間と自然の接点であって、食料の生産とともに、民族にとってたくましい文化の源泉であるといえます。 一方、都市においては、人口が集中し、高度の産業や教育、文化等が発達をして、文化や経済活動の拠点を形成しています。 そこで、kの人類社会の両輪ともいうべき都市と農村の共生〜その在り方として田園都市の形成こそが大切なのだと言うことを申し上げたいのです。
我々農業土木人は、田園都市の形成のために、前述の「創造の哲学」の重要性にかんがみて、水土の知をさらに振興し、農業の生産性の向上ならびに、農業地帯における景観の保全、生活環境の改善等のための研究、技術開発に努め、その施策を推進することが重要な使命であると考えます。
最後に、公共事業に携わる者としての使命感と、公共事業に対する価値観の変換、見直しということが大切だということを申し上げたいと思います。 今日、我が国では、公共事業の見直しとか、また、ダムの無用論などが叫ばれております。 しかし、とりわけ地方の公共事業がすべてむだであるというわけでは決してありません。 水田稲作地帯における水利施設、あるいは、その保全等が必要不可欠なことであるように、その地方や地域にあって、生活・生産基盤の改善向上のためにインフラ整備をしなければならないというところがまだまだ多く残っていると思います。 ダムや水路、道路等といった公共事業への取り組みは、その地方、地域の実態、その実態の中には、どのようにしてこの地域が整備されてきたかという歴史認識をしっかりもって、将来展望をする。 そのようなことを踏まえて、実態に応じて対処しなければなりません。
私は今日、公共事業が大きな批判を受けているのは、地方や地域の実態をよく知らないか、あるいは、無責任な風潮に迎合する人々の勝手な論調を流布したからではないかと思います。 真に各地域、地方の実態を認識し、国全体としてバランスのとれた、かつ、安全・安心の保てる地域づくりを実現すること、これこそが行政の要諦であると考えます。
それと同時に、公共事業に取り組む姿勢として大切なことは、価値観の変換、見直しということです。 農業土木におきましても、農業の生産性のみを追及するという価値観を見直し、農業の基本的価値を保全・継承することが必要であると考えます。 すなわち、これまで取り組んできたような農業開発に関する大型プロジェクトから、きめの細かい、例えば、ふるさと資源の再発見とか、また同資源を未来に開くような、そういうプロジェクトを重視する、そういう価値観の変換が大切なことです。
どうか皆さん、以上述べましたような新しい価値観をもって、農業土木事業という公共事業を、私は、言わば聖なる公共事業だと考えておりますが、そういう公共事業の振興、遂行のために、誇りと使命感を堅持して、しっかりと取り組んでほしいと念ずるものであります。 これで私の講演を終わらせていただきます。 ご静聴有難うございました。