○ 利根治水協會會報第一號 (織田の祝文及び論説)
<出典;「利根治水協會會報第一號」 明治二十七年九月十八日 利根治水協會事務所(布鎌村)發行 發行者 高瀬泰次郎(布鎌村) 流通経済大学図書館<祭魚洞文庫>蔵>
祝 文
利根治水協會報ノ發刊ヲ祝ス
善哉、治水協會ノ擧アルコト、善哉、協會々報ノ發刊アルコト、聊カ爰ニ一言ヲ述テ以テ祝セズンバアルベカラザルナリ、抑利根川ハ、東海第一ノ大河ニシテ、此水ヲ治ムレバ、先ツ全國治水ノ大模範ヲ示スニ足ルベシ、如何トナレハ、諸國ニ河川多シト雖モ、此水ノ如ク關係ノ廣且大ナルモノ非レバナリ、此一水ヲ治ムレバ、東京百萬ノ人家ヲ保安スルニ足ルノミナラズ、軍備非常ノ用ニ供スルモ、亦等閑視スベカザルモノアリ、此水ノ氾濫ヲ除キ、湖海ニ廣土ヲ開ク等、無量ノ洪益ヲ興スハ、敢テ難事ニ非ルナリ、利根川分水ノ説ハ、余ガ宿論ヲ記シタルモノ、別ニ之アリ、曩ニ 高瀬 吉植等ノ諸氏、率先此協會ヲ起シ、爾来着々其基礎ヲ固メ、今ヤ此發刊ヲ見ルニ至ル、而シテ東京貴顕紳士モ、賛成ノ意ヲ表シ、此會ノ加盟者日ニ多キヲ加フ、實ニ國家無量ノ幸福、是ヨリ将ニ隆起セントス、予欣喜自ヲ禁ゼス、敢テ蕪辭ヲ呈シテ發刊ヲ祝ス
明治二十七年九月 織 田 完 之
(杉浦補注 ; 祝文は二稿あり、本稿は兵頭千葉県知事の稿の次に掲げられている。)
論 説
利根川分水説略 東京 織 田 完 之
夫れ水土を平くるは國家の要務にして 農産を盛んにするは富殖の根元なり 近年利根川暴漲の農産ヲ惨害するもの年一年より甚く 今や利根分水の實論大に人心を聳動して事業亦将に隆起せんとす 是れ災害其極に達し一轉して復た幸福の域に赴くもの國家の為めに慶賀すべきなり
抑利根川の治水に於けるや余が積年抱懐する所の説あり 其計畫たる 印旛沼を内海に放ちて洪水の困難を救ひ 下流の淤塞を除きて平水の順流を條達せしむるにあり
印旛沼は 東京を距る僅に十里餘 蘆花浅水の中に七里の膏土を遺棄し 東京灣と相距ること四里餘 舊渠の址暦々として規模を存し九仭僅に一簣を○(欠)くのみ 今一工役を起せば容易に印旛の水を内海に注く得べし 然するときは沼水悉く乾涸し沼中は只條流を留め 左右満面稲田を興すに足り 利根川の舟船内海に導くを得べし
夫れ印旛沼口平戸橋と内海岸檢見川との間を浚渫するや 先ず平戸橋の最低水下六尺を掘下け 檢見川橋に於て最低潮下六尺を掘下るものとし 漕渠四里十二町餘の間勾配七尺六寸二分あり 其勾配に因り一旦沼水を悉く内海に傾くるは容易の業なりとす 往時屡大土功を起し中間掘り餘す所は僅二十町餘最高三丈二尺のみ 今舊渠の址を斷面より見れば實に大扇を張るが如く 凡そ地紙の部分は既に古人の八十二萬坪餘を掘鑿したる恩賜にして 要(カナメ)の部分川敷を十間と假定し凡そ三十五萬坪許は當に今より浚渫すべきの區なりとす 此一區を除くときは流水の廣狭は唯其欲する所に随ふのみ 已に要(カナメ)の部分を除くときは沼海の堡障忽ち開け 沼中自ら三千七百六十八町二段四畝の沃田を現出するは實測に詳かなり 況や天保以来沼中の埋まる六尺以上 今は平水僅に三尺なるをや 且又内海に於ては数千町の新田を起すの根據を定むべく 殊に利根川の横溢を許さゝるが為めに年々被る所兩岸の水捐を免かるる凡そ二十萬石餘の増収穫を毎年に見るべし 斯のことくなれば堤防修繕の費用十萬圓宛を減し 衛生に宜き 農業を助け 軍用の備へ非常の策應一に之に依りて著るしゝきを致し 林野も為めに拓け 新業も為に起り 實に東海無量の大寳藏を開發するものは眞に是なり
且又漕運に於ては 霞浦北浦銚子港等より利根川を遡る○(汽)船帆船孰れか東京を指さゞるものあらんや 安食村の長門橋下より順流に任せて印旛沼を通過し 平戸より降り檢見川に出て内海の波を破て墨田川に達する 其水程を利根運河に比して凡そ四里餘の捷路に當るへく 故に舟船の往来漕運の便利に關しても亦鴻益たると其れ幾許そや
已に此の工事を竣功すれば 内海の墾田は論なく 手賀沼を印旛沼に通し涸沼を北浦に通するの擧も亦○(隨)て其成を見る所あらんとす
凡そ大利を興さんと欲せは大業を成さゞるへからず 大業を成すは固より地方の衆思を集め群力を藉らざるべからす 印旛沼開鑿の事は大業なり大利なり 故を以て其目的を達せんと欲せば一會社を組織するも亦可ならずや 其營業は先つ印旛沼中三千七百六十町餘の沃田を得ることを以て主となすと雖も 遂に相關連して内海に新田を開くの盛事を見るに至るべし
蓋し行舟の安全を期するは運河に若くはなし 已に印旛沼開鑿の業成り舟纜を東京新大橋の下に解くに當り 兼て風浪の害を免れしめんには 行徳の下なる湊新田押切村の悪水路を適宜の處より海中に貫通し 高谷、船橋、鷺沼、久々田、馬加、檢見川迄の海面乾潟に一條の深澪を開浚し 竹木柵を施して航路となし 其南方に人造石の○(堤)を築く一萬間 其の中に船港を作り 檢見川より印旛沼に入り 更に瀬戸、吉高の間を中斷して長門川に出つるの便を取る 其の工事たるや沼中は○(減)水に及て泥土を掘下くる數尺 航路の左右に竹木柵を施し逐次土○(堤)を築き 中川鹿島川等を導て水路を作り 檢見川海に送る 豈に利根川の平水を分つを俟んや 内海には一廣土を新造し或は海原区國と稱すべき乎 或は中總國と稱すべき乎 却て洪水を利用して楽土を作出す 昭代の美事豈之に加ふるものあらんや
方今鐵道の説 保険會社の議各所に起り 又海外に向て植民せんことを計畫し 各公私の利益を圖るものありと雖も 眞成に帝都目前の水土を平け萬民産業の大功を全うして 忽ち國家の經濟に大關係を及ぼすもの蓋し幾許そや 謂ふに未だ曽て印旛事業の遠大雄偉なるに若くものならさるべし 是れ此事業の興起するときは此に附帯して利益の勃興する事 恰も大英雄の崛起して俊傑雲の簇り起るが如き觀あらんとす 利根川分水の要旨大斯の如し 其詳説は我印旛沼經緯記内外編(補注参照)にあり 就て講明すべし
(杉浦補注 ; 印旛沼経緯記<内編>は明治26年7月7日、同<外編>は同年8月15日に出版されている。 因みに、本會報は明治27年9月18日で、印旛沼経緯記の一年後の發行であることに注目したい。)