武甲相州回歴日誌 < 織田完之著 > ( 出典 ; 日本庶民生活史料集成 第十二巻 世相二 三一書房 1971年発行、 国立国会図書館所蔵 )


 武甲相州回歴日誌  解題       河岡武春 ( 元神奈川大学教授・日本常民文化研究所 )

 『武甲相州回歴日誌』は、日本常民文化研究所所蔵の原本によったものである。 和綴、袋とじ七二枚。 著者、織田完之図書章という蔵書印と、「明治八年七月二十五日、為植物取調武甲相州地方へ出張申付候事 内務省」なる貼紙がある。 また青淵文庫の蔵書票は、著者の蔵書の一部が、渋沢栄一の同文庫に移管されたためで、これが祭魚洞文庫(渋沢敬三)にひきつがれたものである。
 ちなみに、著者と渋沢栄一との関係は、大蔵省から始まっている。 明治五年の「大蔵省・袖珍官員録」によると、栄一は、租税頭、三等出仕従五位兼紙幣頭であり、完之は、記録寮十二等出仕であった。 両者の交渉が密接であったのは、完之が利根川治水のため、印旛沼開疏の事業を計画した明治二十一年頃で、残された書翰よりみると、栄一の完之への尊敬の念あついことがうかがわれ、お互に漢詩を献呈しあい、栄一は事業推進の相談にのり、政府高官への橋渡しなどしている。
 織田完之は、天保十三(一八四二)年九月十八日、三河国額田郡福岡町南高須(現岡崎市)に生れ、幼名を策馬といい、緯を完之、鷹洲と号した。 十三歳のとき、鄰郷上地村の名医早川文啓に医を学び、また漢籍の素読をうけ、三年後、岡崎に出て曽我耐軒について学んだ。 さらに名古屋に赴き、松本奎堂の塾に入り、十九歳で塾長になっている。 奎堂が天誅組に走ってからは、家郷にかえり医業をひらいた。 元治元年、二十三歳のとき江戸に出、勤王の志士と交わるようになり、のち長州に志して行旅の途中、岩国で幕府の間諜とまちがえられ、獄舎につながれた。
 明治二年、禁をとかれて東京に帰り、弾正台に奉職、やがて若松県権小属に転じ、監察局頭取、主事をかね県学校創設にあたった。 四年、大蔵省記録寮に入り、七年、内務省創設とともに、勧業寮にうつった。 十四年、農商務省が設置されると、農務局の人となった。 これより十年、内外農書の蒐集、整理につとめ、博覧会あるいは共進会委員、水産振興などをはかりつつ、『日本農功伝』『大日本農史』『大日本農政類編』などを編纂して退官した。 完之は、明治三年ごろから、農政の学を志し、佐藤信淵の農政学と二宮尊徳の道徳経済論に啓発された。 官についてからは、学者として、行政官として、農政経済の学問を考究し、また直接に殖産興業につくした。 嗣子、織田雄次氏の『鷹洲織田完之翁小伝』(昭和四年刊)によると、当局へ意見をまとめて上申し、また所信を記して参考に供するなど、その記録はこれをあげると枚挙にいとまがないないほどである。 完之の学はまさに実学であり、一例をあげると、『農家永続救助講法』は明治八年の著作で、四〇〇部を内務省に献じている。 回歴日誌の中でも、しばしば土地の戸長、篤農家ら指導者に、この書を示し、農村振興の策を話しあっている。
 回歴日誌の旅は、明治八年八月三日に東京を出、十一月二十日横浜につくまで、東京府、神奈川県、山梨県、埼玉県にまたがる、一〇九日間の旅行である。 完之は、甲州南巨摩郡奈良田をすぎた僻村で、地租改正のための地券吏に間違えられた。 そこで彼は、「予然ラサルヲ説諭シ、本ヨリ農家ハ衣食ノ本源其各地ノ営生ヲ殊ニシ、種樹ノ差異アル、其農産を補足スルノ為ニ注意巡行スルノ官員ナルヲ示ス。欣然喜フ色アリ」と書いている。 出張の目的は、植物取調べのためであったが、この植物は農産で、しかも完之は植物本草にもくわしかった。 だが実学者であり、すぐれた行政官であった彼は、指導と調査をかねた旅にしているのである。
 かんたんにコースを書いておくと、東京を出て六郷川を渡り、川崎、横浜をへて、三浦半島東海岸を歩いて浦賀にいたり、そこから江ノ島に出、さらに藤沢、深谷、座間、厚木、平塚より小田原に滞在した。 そこから箱根に遊び、また小田原にひきかえして、背後の水田地帯から秦野、伊勢原をへて、大山に詣っている。 ここから萩野の谷を通り、半原から津久井へ、相模湖の北岸から甲州上野原に入った。
 甲州では、甲州街道ぞいに勝沼、石和をへて甲府につき、市内および周辺を歩き、韮崎、穴山、江草をへて、北巨摩の山間部をまわり、転じて、中巨摩から南巨摩に入った。 鰍沢より早川をへて、七面山をかこむ谷奥の小部落をいくつも訪ねている。 さらに南下して身延山から睦合までゆき、そこから甲府へ帰った。 さらに甲府から北行して御岳にのぼり、こんどは南西して南八代から南都留郡へ入り、大月から瀬戸をへて、佐野峠と鶴峠を越えて小菅にぬけた。 さらに丹波山から、武州多摩郡原村に出、氷川から沢井をへて、埼玉県の飯能に入った。 そこから熊谷、深谷、本庄、吉井、富岡、高崎とまわってふたたび熊谷にもどり、さらに行田、岩槻、浦和、大宮より川越に出、黒須から拝島、八王子、日野をへて横浜につき、長途の旅を終っている。
 完之は、県庁所在地では、県内の地図を見、掛官の説明を聞き、農産統計を写した。 そして行程の景況をこまかく観察し、これらを野帳に記したのであろう。 さらに土地の古老や指導者にあって、生産や生活の事情を聴取しつつ、振興策を語りあった。 これらをまとめて、大体、一日の記述の終りに、「評ニ曰ク」としてまとめを書いている。 農談にはとくに力を入れ、「農談時ヲ移ス」とか、「農談大ニ熟ス」「終日農談頗ブル熟ス」など日記にみえる。 大菩薩峠の東北、小菅村では、村吏と農談した。 夜に入ると、戸長が老若児童ら六十人ばかりを連れてやってきた。 完之は懇切に農事の重要性を語った。 皆よろこんで談をつくして帰った。 あと残った人たちと、粟稗をむした餅を食べ、海の魚を肴として酒をくみかわした。 彼は涙をとどめることができなかった。
 相州大山町のあとでは、吏員にたいして、貧家の情状をつぶさにのべ、村家がたがいに救助の法を設け、農夫の自立心をかきたて、永遠収益の草樹を培植すべきこと、水田の利はあるが、さらに備考の法を問うている。 尊徳の報恩講も貸付の金を借主がかえさぬことがあるという。 完之は村人の言として、村吏が自己の田園を多く所有しているため、救助講がたつと貧人が田地を多く受けもどすことを喜ばぬことを記している。
 完之の健脚ぶりは、一日の行程をみてもわかるが、農山漁村の振興に燃えた、当時三十三歳の彼はいささかの疲れも見せず、危険の個処をも恐れてはいない。 地券吏員と見誤まられた所であるが、「危桟ヲ渡リ峻阪ヲ越ヘ絶間ニ俯シ、辛苦シテ初鹿島ニ憩フ」とか、「此栃鹿島深山ニ入数里ナレドモ、其峻険危桟ヲ経テ、一歩ヲ誤ラハ性命ヲ損ス。 一線ノ命脈ヲ続テ岩壑湧雲ノ奥ニ幽居ス」と記している。
 本日誌の興味の一つは、明治に入って旧藩の制がすたれ、いまだ新政の下で転換が行われがたく、箱根宿が疲弊している様がえがかれていること。 一方、横浜周辺では、外人向けの果実や野菜が栽培されはじめ、麦ワラ細工がかれらの嗜好にあっていること、完之もまた外国への輸出をふくめてそれらをすすめている。 また甲府では、富岡製糸場につぐ、二〇〇人の女工がはたらく製糸場の操業など、維新草創期の動きもよく描かれている。


 武甲相州回歴日誌

      ― 本文、 略す ―



<トップページに戻る>    <資料のインデックスに戻る>