○ 平將門故蹟考 ( 明治四十年 織田完之著【天覧】 千葉県立関宿城博物館藏 )

     明治四十年六月廿二日印刷
     明治四十年六月廿五日發行
     著 作 兼  碑文協會主幹
     發 行 者    織  田  完  之
               東京市牛込區拂方町九番地
     發 行 所    碑  文  協  會
              東京市牛込區拂方町九番地

( 下記の總論は、国立国会図書館藏復刻版より抜粋した。 )

       總    論

一 天慶三年二月  常陸大椽平貞盛朝威を假借して下野押領使藤原秀郷を誘ひ相馬御厨の下司平將門を下総國島郡石井の島廣山北林に襲殺し首級を京師に送る  平家の郎黨之を途中に奪返さんと謀りしも能はす  其の遺骸を武州豐島郡に舁き來り  潜に芝崎村日輪寺境内にめたり  後に首級を京師より得て持歸り此に併せ葬る  其の故蹟は々として證すへし  是此の書を著す所以なり

一 世に平将門は僞都を作り僣號を立て天位を覬覦したる如く傳ふるは全く稗史の誤傳なり  武藏介源經基か虚構の讒言中傷して遽かに征討の軍東下するに際し  貞盛秀郷等の爲に逆殺せられたるのみ  將門は功ありて將に賞せられんとしたるほとにして固より罪の問うへき事なき人なり  其の怨魂崇をなして鎭まらず奏して大明神と尊稱し千萬人の崇敬せる所となるも亦洵にゆえある哉

一 平将門は伯叔等の狡譎なるか爲に非常の厄難を受け  新婚の爲に途中の要撃に逢い  已むを得ず正當の防禦をなして敵人を殺し  爲に讒謗蜂の如くに起り  終に朝廷より嫌疑ありとの官符至れるを以て  直に京師に赴き 自身検非違使廳に就て辯明し  事理判明して無罪に歸し  大に文武の名譽を輝かせるは承平七年の冬なり  翌春年號改り天慶元年と云う  同年五月将門勅許を蒙りて下総の弊宅に歸れり  全く潔白の身となりたれは郷閭の歡迎盛んにして歸郷の途次七本櫻の手栽をものあるに至れり

一 世に天慶三年の役と云えるは廷議の大失錯にして 事頗る怱卒に出て全く人違ひの征伐なりとす  是よりさき武藏國造の子孫足立判官代武藏大椽武藏竹芝と武藏介源經基と不治の由を爭ふ  武藏權守興世も經基と善からす  終に干戈を動さんとするに當り 平將門は隣國の名門として傍觀に忍ひす  従類を率い來て守介椽を和解せしむ  一旦事平きて再ひ事破れ經基怒て京師に奔り  武藏竹芝と興世とを構陷せんとの奸計を運らし名望最も高き平將門が僣亂を企て 興世竹芝之が参謀たりと巧言して讒訴す  當時の太政大臣小野宮實頼大に駭き 遽に勅令を發して征東の將軍を下す  經基之か参謀たり  平貞盛は常陸にあり  此の機に投し下野押領使藤原秀郷を説き軍團の兵を發し  長驅して將門の不意を襲ひ之を謀殺して私憤を泄せり  將門の事は死者に口なく寃枉を蒙り終古解けさるに至れるものは他なし  天位を覬覦せる如く羅織せし爲なりと云う

一 經基秀郷貞盛等は詭計を運らし僥倖を以て高位高官に列し  征東將軍藤原忠文は其の功を録せられさるを憤り  太政大臣の酷薄を罵り其の家必滅ふへしと斷言し終に餓死すとも傳ふ  將門の死後天變地妖頻に起り之を禳ふか爲に國司より上奏して將門を明ひ祀るに至る事  安房洲宮官舊記 北條五代記及江戸咄補遺等に記する所事実なるべし

大須本將門記(脚注参照)の写巻は初の程失せて文の名をたに知れす  天明二年名古屋の藩士稻葉通邦模寫して傳ふ  寛政十二年植松有信木刻して世に弘めたり  世の學者輩は只管今昔物語、大鏡、扶桑略記等の傳説先入主となり大須本將門記(脚注参照)を看るも特に異説となして之を採らす  是他なし舊聞に溺れ故見に狃れて醒覚する所なきのみ

一 回顧すれは九百六十七年來の疑獄を解決するは吾か國寳將門記傳と此の故蹟考あるのみ  其の他は眇にして能く視ると云うも至明の見ありとするにたらす  跛にして能く履むと云ふも共に行くに足らさるものなり

一 寛永三年十二月初旬に烏丸大納言光廣卿勅使として再度江戸へ下向あり  平將門の勅勘をされて田明の開帳あり  貴賤老弱群集して勅祭を拜觀す  爾來勅祭例となり勅額をも下し賜はり  武藏の總と稱し江戸府の大祭として洲崎天王の氏子を併せ二百餘町三萬餘戸の多きあり  人心の信仰厚きも亦其の謂れあるや久しゐ哉

田大明は將門を主とし洲崎天王を以て第二の祭とす神社縁起なるものに大國主を持出して一の宮と稱し將門を二の宮と稱したるは寳永以後の事にして享和四年頃の作なるへし  全く攝の大國主を假借附會して主の如く記するは世人の將門を朝敵と謂える物議を避る爲め斯く捏造したるのみ

一 明治の昭代今日に於て將門の故蹟を表章し史の虚妄を訂正し満天下の學童をして將門の事實を知らしめ  海外萬國をして日本國は開闢以來未嘗て一の叛臣なく 寳祚無疆なる事を知らしむるは  皇威を宇内萬國に宣揚するの要項なるへし  是予か此の編纂に力を盡す所以なり

一 御城日記、相馬系圖、千葉氏世紀、武藏千葉氏世紀、千葉大系圖、千葉六黨普譜、千葉史稿、千葉傳考記、成就院文書、田木村掌記録、江戸名所圖繪、利根川圖誌、成田名所圖會、本朝考、上總國志、江戸圖説集見、香取郡志、守谷志信田系圖、長祿年間江戸古圖、府内備考續篇、更科日記、相馬日記、佐倉風土記、二千年袖鑒、下總舊事考、常陸國志、杉山私記、本朝世紀、貞信公記、鳳抄、尊卑分脈其の他参考する所少なからすと雖も大須本將門記(脚注参照)を以て根拠據となす  今昔物語、大鏡、扶桑略記、皇正統記、大日本史、日本外史等は對照せしのみ

    明治四十年四月                        鷹 洲  史 識



    [ 説明書き ]
 織田は全国の將門関係の史跡や伝説を詳細に紹介、解説した『 平將門故蹟考 』をまとめる。 緻密な調査に基づくこの伝説研究書は画期的なものであった。 この中で、織田は將門の根拠地岩井での講演会のことを述べている。 明治三十九年四月三日午前十時、織田が会場に着くと花火があがり、聴衆は猿島郡全体から数百人が集まっていた。 午後三時半まで続いた講演が終わると満場喝采の嵐であったという。 地元の英雄が朝敵、逆賊とされていたこの時期に行われた織田の講演は、岩井猿島の人々が新しい天皇制国家に感じていた負い目を払拭するものであった。


( 杉浦補註 )
1、「總論」中、下線を附した文字は、パソコン(word)で印字不能の文字で、原文と同じ意の文字を使用した。
2、上記「 説明書き 」は、平成15年度千葉県立大利根博物館・同関宿城博物館共同企画展図録 ( 平成十五年五月三十一日 (財)千葉県社会教育施設管理財団発行 )から引用した。
3、大須本は、「真福寺本」或いは「寶生院本」と呼ばれている。 本寺の寺号は、「 北野山真福寺寶生院 」 ( 通称 「 大須観音 」 : 名古屋市中区大須 ) である。





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