○ 埋もれた農政学者 織田完之翁
(出典:「渋沢史料館だより No.27 1985/4」 渋沢史料館蔵)
織田完之―――と記してもこの名を知る人は稀であろう。しかし、明治期における農政学者として、多くの著書があり、かつ、農政に関する建白書、序跋、紀行文、題賛、碑文、墓誌銘などは数えきれないほど多く、とくに品川弥二郎撰文と記せられた文章は殆どこの人の作だといわれていろ。その学識の深かったことは、八十八種、二百十六巻の著書と、百三十八種、五百四十一巻の編集校訂刊行書の目録によっても明らかであり、なぜこの人の名が、わが国のいわゆる正統農政史から抹殺されていまったのか。たまたま当史料館の未整理資料中に、写真(若松県辞令;杉浦略す)の辞令を発見したので、『鷹洲織田完之翁小伝』(昭和四年一月刊・私家版)を参考に、その人となりや、口伝の若干を書きとめ、後学の人びとの研究を期待するものである。
完之翁は天保十三年(一八四二)九月、三河国額田郡福岡町南高須(岡崎市福岡町)織田良右衛門(注;別掲の織田完之経歴を参照)の第五子として生まれ、幼名を策馬と称したが、幼くして父母に死別、遠戚の人に養われるという不遇にもかかわらず、近郷の学者に医学、漢籍等を学び、安政六年十八歳の年名古屋に赴き、松本奎堂に師事した。この人はのちに天誅組の領袖となった人である。完之翁はここで塾長をつとめたが、師奎堂は国事に尽力する都合から、家塾を閉じたので、心ならずも養家に戻って医業に従事した。しかし、幕府倒壊前夜の激動期のこと、安閑として片田舎に起居することを、青年の血は許さなかった。元治元年二十三歳の年ついに江戸に出て、多くの志士と交遊、もっぱら倒幕を画策した。そのために慶応三年岩国を経て長州路に入ったところで藩吏に捕えられた。獄に繋がれること二ヵ年、その間に、王政復古となった。
繋獄中に多くの詩文をつくり、また同志、知友に書簡を送り窮状と勤皇の微衷を訴えた。後年品川子爵、四条男爵等の知遇をうけるようになったのは、この当時の至情を認められたが故である。
明治二年若松県権少属に任官できたのも、四条隆平の推挙によるものであった。その在任中、監査局頭取となって、人心いまだおさまらない会津藩内を巡視して、官民の意思疎通につとめ、また孝子、節婦を表彰、窮民の救済、教育の普及などに尽力した。
一時健康を害し帰郷したが、一年後にふたたび上京して、同四年十一月大蔵省記録寮に出仕、同七年内務省勧業寮に転じ、松方正義の知遇を得て、わが国古来の農政研究に取組んだ。これが、完之翁の農政学者としての出発点であった。その最初の刊本は、『農政垂統記』四冊(織田完之・高畠千畝合著・明治七年勧業寮出版)である。
同十四年農商務省が設置されるとその農務局に転任し、同二十二年一時非職を命じられたが、翌年復職して、ついに『大日本農史』二十二巻(明治二十四年刊)、『大日本農政類編』十三巻(同二十五年刊)を完成、わが国古今を貫く一大農史を世に送った。
その他に、完之翁の著作編纂の中、刊行された主なる書籍は、
勧農殖産法
印旛沼開鑿沿革誌
印旛沼経緯記
安積疎水誌
農家永続救助講法
勧農雑話
農家矩
隄防溝洫録
漁村維持法
このような業績を遺したにもかかわらず、今では全くその名も埋もれてしまった。たとえば、最近農山漁村文化協会から出版された『石黒忠篤の農政思想』(大竹啓介氏著)を読んだが、織田完之の名はどこにも見出せなかった。
これは私塾育ちの完之など、象牙の塔出身の農政官僚は歯牙にもかけなかったのか、それとも口伝のとおり、奇行の多かった故か、または、日本史を書きかえるほどの爆弾宣言といわれた平将門雪冤の文書のためか。
没したのは大正十二年一月、八十二歳であった。
当史料館は、農政に関する資料には、深いかかわりはない。それなのに何故このひとにこだわるのか。
それはこの人の後妻となった大内くには、渋沢家と深い関係があったからで、渋沢家の忠実な家扶だった芝崎確次郎の明治二十年十二月六日の日記に、
大内女子結納先方持越しニ付宅ニテ受取申候
尤モ小生留守ニ付、尾高氏立会取扱致候事
とあり、その間の事情を察することが出来る。従って心情的にこの人の業績の顕彰されることを念じ、ここにとりあげたのである。
それにしても,生地の岡崎では、どのように遇しているか、岡崎市郷土館の柴田幹夫氏の談によれば、「昭和四年、翁の小伝の刊行されたころは記念館もあったらしいが、いまは生家の近くにある神明宮の境内に寿碑が遺っているだけで当館には、遺墨が数点あるだけである」という。
生地さえも遇すること薄く、畢生の大著も学会のいれるところとならず、泉下の翁はいま何を感じているであろう。
当史料館は、冒頭に記した小伝と『印旛沼経緯記』の二冊を所蔵しているが、農政に関心ある研究者は、翁の没後遺族より渋沢家に贈られた「如故織田文庫」の図書によられたい。それは渋沢敬三氏の配慮により、日本通運(株)を経て昭和四十一年流通経済大学に寄贈、現在同大学図書館の「祭魚洞文庫」の中に収められている。
なお、本稿執筆に当り、農文協の本谷氏の好意により斯学の権威東京農大須々田黎吉先生の教えを仰いだことを記して謝意を表するものである。