○ 織田完之による農書の発見 ( 出典 ; 筑波常治著 「 日本の農書 農業はなぜ近代に発展したか 」
昭和62年9月25日 中央公論社 発行 農林水産省図書館所蔵 )
ところで農書の歴史をたどりながら、重要な話題をひとつ、ふれ残したままできた。 それはこれまでにあげた多くの農書が、現在なぜ知られており、研究の対象になり得ているかという問題だ。 江戸時代までそれぞれの地元だけで伝わってきたものが、明治以降に一般の教育水準があがって、それとともにおのずとよその土地でも研究されることになったという単純なできごとではないのである。 欧化思想が全盛をきわめた一時期は、むしろこれらの農書にとっては危機であった。 古くさい過去の遺物として、ひとからげに捨てられる可能性が高かったのである。 もとより欧化思想の側にたつ人が、すべて農書を無視したわけではなかった。 津田仙の学農社では、日本の農書の購読を授業科目にいれていたといわれる。 しかし当時の全般の状況が、農書に不利だったことはあきらかで、いまは知られていないさらに多数の農書が、じっさいに捨て去られ消失してしまった可能性を否定できない。
それでも少なからぬ農書が残り得た。 これは農書を積極的に見つけだし、保存と普及をはかろうという計画が、実行された結果にほかならない。 しかも政府の事業の一部としておこなわれたため、有効な成果をあげたのだ。 そしてこれを実質的に主導したのは、織田完之という人物だった。
織田完之は天保十三年(一八四二)、三河藩の武士の子に生まれた。 完之という名前をどう読むのか、はっきりしない。 「ひろゆき」と仮名をふった例もあるが、確実ではない。 ふつうはやむなく「かんし」と音読みのままにしている。 鷹洲と号した。 幼児期に両親と死別して、苦労の多い少年期をすごし、また青年期は明治維新直前の激動のさなかで、波乱の生活を送ったということだ。 そして明治以降、はじめは内務省勧業寮、のちには農商務省農務局の吏員となり、農業関係の職務を担当した。
当時は欧化思想が一世をふうびし、西洋から新しい作物や家畜や農機具などがぞくぞくとはいってきた。 ところが完之は農村を視察したとき、それらがいっこうに役たたず、かえって混乱をおこしている現実を知った。 そして日本の伝統的な農法こそ、再評価すべきだという信念に到達した。
完之の主張も影響して、農商務省は農業史の編集を企画したのである。 完之は中心的な役わりを果し、明治二十四年(一八九一)に『大日本農史』全二〇巻が公刊された。 いわゆる神代から明治初年までの農業史上のできごとを、天皇の歴代を時代区分にとって、多数の文献から克明にあつめた内容である。
この事業をすすめる過程で、各地に埋もれていた農書の類が見つけだされ、またその著者たちをふくむ農業の功労者の存在が掘りおこされた。 そしてそれぞれの調査結果が、『農事参考書解題』全五巻および『大日本農功伝』全四巻にまとめられた。 前者は明治二十二年(一八八九)、後者は明治二十五年に出版された。 こうしてまず農書の保存が実現したのだった。
忘れられた最大の功労者
いわば欧化思想に反発するうごきから、これらの事業がおこったともいえよう。 そして完之自身これに先立ち、同様の考えをのべた本を単独でも書いている。 まず明治九年(一八七六)にだした『勧農雑話』で、農家の生活を向上させる必要を指摘し、それには伝統をふまえたうえでの進歩のくふうが肝要であると主張した。 さらに明治十三年(一八八〇)、『農家矩』全三巻を出版した。 これは栽培技術の解説書で、つまりせまい意味での農書にふくまれ得る。 冒頭の凡例で、
近代農書多しといえども、論理おおむね細密に過ぎて実用に疎く、農家の作業に適するもの、けだし少なし。
と泰正農書を批判した。 そのうえで、
予また耕芸を学ばず、ただ先輩術作の農書を繙閲するの間、其の感格する所を輯録せし者なれば、届かざる
事もまた多からん。
と謙遜しながら、それでもこの本は農家の実用をめざしてまとめたとの自信をしめした。
また、明治十年代から二十年代にかけて、「勧農叢書」という農業部門の双書が出版されている。 版元は東京の京橋にあった、有隣堂という書店だった。 これには明治以前の農書の復刻と、新しい農法の解説書とがまじっていて、新旧両立の観をあたえる。 全部でいったい何巻あったのか、個々の各巻に番号がなく、総目録も発見されていないため、いまとなってはわからない。 ともかくこの双書にはいったことで、世間にはじめて知られた農書が少なくなかった。 『百姓伝記』も『耕稼春秋』も、さらに大蔵永常のいくつかの著書も、それに該当する。 そしてこの双書の企画に、織田完之が参加していたと伝えられる。
完之の事績としてはほかに、農商務省の事業として、利根川の水害防止とからめて、印旛沼の大規模な開削を計画したことがあげられる。 明治二十六年(一八九三)に、一連の経過を『印旛沼経緯記』全二〇巻として出版した。
完之はまたはば広い教養人でもあり、農業以外の著作も数多く書きのこした。 とくに平将門(たいらのまさかど)の生涯を調査して、『国宝将門記伝』(一九〇五年刊)や『平将門故蹟考』(一九〇七年刊)などを公刊して、将門を逆賊とする古来の伝承を否定した。
織田完之は大正十二年(一九二三)に没した。 そしてその名前は現在、ほとんど忘れられている。 宮崎安貞や大蔵永常にくらべても、知名度にとぼしい。 だが完之こそ、農書の歴史における最大の功労者ではあるまいか。 安貞も永常も、完之のおかげで世間に知られたという面があるのだ。
そして完之がもっとも評価した明治以前の農書は、じつは佐藤信淵の諸著であった。 それらの復刻に、かれは渾身の努力をかたむけた。 生前は埋もれていた信淵が、こうして世にでたのである。 『農家矩』にも、
すべて耕農の奥旨は、草木六部耕種法、培養秘録、土性弁などを熟読玩味し、老農
老圃の実業を参考
すれば、思い半ばに過ぎん。
と書かれている。 信淵の著作に感動したのが契機で、完之は明治以前の農書への興味を高めたという説もあるくらいだ。
現代の農書の研究者は概して、信淵にたいする評価が低い。 だが信淵に触発された完之によって、現代の研究者たちの高く評価する多くの農書が発掘されたのだとすれば、歴史のめぐりあわせは皮肉である。
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