○ 農政史家織田完之と若松県政
  ( 出典 ; 福島史学研究 復刊第27・28号<通巻第33・34号> 「近代地方史研究」特集号 昭和54年11月
   福島県史学会発行 著者 松尾正人 ―中央大学講師―、 国立国会図書館所蔵 )


                はじめに

 農政史家織田完之は、日本古来からの農業・農学を尊重したいわゆる尚古派農学の中心に位置し、『農政垂統記』『日本農功伝』『大日本農史』『大日本農政類編』等の編・著者として高名である。 明治四(一九七一)年一一月に大蔵省の記録寮に入り、同七年に内務省勧業寮に転じて松方正義の知遇を受け、さらに農商務省の設置とともに同省農務局に奉職した。 農政・経済・教育・勧業等の振興策を論じ、みずからも印旛沼開疏事業等に奔走している。
 だが、織田完之の農政思想の系譜や、農政・勧業等の多彩な活動と明治新政府の諸政策との関係は、なお研究も少く、考察の余地が残されている。 織田完之を取りあげた論稿も、管見の限りでは、織田雄次著『鷹洲織田完之翁小伝』(一九二九)、栗原東洋『織田完之伝―織田完之と印旛開削二十年の苦闘―』(印旛沼開発史刊行会・一九七二年)、三橋時雄「織田完之と横山由清」(『農業と経済』第六巻第五号)があるにすぎない。
 ちなみに、大蔵省任官以前の経歴をみると、天保一三(一八四二)に三河国額田郡南高須に生まれた織田完之は、隣郷上地村の早川文啓に医術を学び、また漢籍の素読を受け、名古屋に出てのちに天誅組を組織した松本奎道に師事していた。 幕末には、奎道の影響で尊王攘夷運動に奔走したが、幕府の第二次長州出兵直後の慶応三年五月、幕府方の間諜と誤認されて岩国藩に監禁されている。 そして、明治新政府の成立後に二年余の拘禁を解かれ、その後は、明治二(一八六九)年六月の弾正台任官を契機として、同年一〇月に若松県官員に任ぜられ、さらに四年一一月に大蔵省へ登用されていた。
 小稿では、右の織田完之が明治新政府に出仕した時期、特に従来取りあげられることのなかった若松県官員時代の行動を考察する。 具体的には、明治初年の若松県内の実態と新政府の施政を概括し、同時に、「若松県奉職中巡察日記」を素材として、兵災・凶作等の窮状調査や啓蒙・教化に尽力した織田の活動の詳細を明らかにする。 そして、織田完之の府県政に対する意見書・献策等を検討し、後年に農政へ傾倒したその思想的基礎について論及したい。(注-1;参照)

(注-1) 「若松県奉職中巡察日記」は、その写本が、流通経済大学の『祭魚洞文庫』と会津若松市立会津図書館に所蔵されている。 『鷹洲織田完之翁小伝』には、織田完之関係の古文書・書籍が、「渋沢子爵家の多大なる厚意により青淵文庫中」に収蔵され、「別に秘蔵の古文書及尺牘等を併せ寄贈」したと記されているが、渋沢敬三の諸資料や「青淵文庫」を集めた『祭魚洞文庫』(流通経済大学と国文学研究資料館・史料館が所蔵)のなかの織田完之関係文書には、特に「若松県奉職中巡察日記」の原文書を見い出すことができない。 『祭魚洞文庫』所蔵の「若松県奉職中巡察日記」は、織田完之が浄書したものであり、幕末維新期の各般の資料を集めた「五色石」(合本一〇一冊)のなかに収められている。 また、会津若松市立会津図書館所蔵のそれは、昭和四年に織田雄次が謄写して同図書館に贈呈したものである。
 小稿における「若松県奉職中巡察日記」の引用は、織田完之みずからが浄書した『祭魚洞文庫』所蔵文書を使用し、文末にはその全文を掲載した。 『祭魚洞文庫』の詳細は、「祭魚洞文庫について」(『流通経済論集』六〜二・一九七一年)を参照されたい。

               一 織田完之の若松県任官

 明治新政府の成立後に弾正台少巡察に登用された織田完之は、明治二(一八六九)年一〇月二七日、若松県の権少属に転任した。 同年一一月には監察局頭取に就任している。
 『鷹洲織田完之翁小伝』の記述によれば、この織田の若松県への転任は、知事兼城守四条隆平の推挙によるという。 四条隆平は、明治二年五月に岩代国巡察使に任ぜられ、さらに八月に若松県知事兼城守に任官にていたが、戊辰戦争の荒廃に加えて贋悪貨幣蔓延等の事態を生じ、その対策を重要な課題としていた。 それゆえ、弾正台官員を若松県監察局へ任用することは、四条隆平の県政安定を企図した方策の一環をなすものと考えられる。
 では、織田完之が弾正台より転任した同時期の若松県政は、明治新政府の直轄地として、いかなる事態に直面していたのであろうか。
 周知のごとく、明治二(一八六九)年五月の若松県の開設は、会津藩の降伏後、元年一二月に決定された旧庄内藩の会津転封が、容易に進展しないままに中断されたことによる。 戦火に荒廃した会津地方の安定が危惧され、同地に開設されていた若松民政局の官員から、旧庄内藩に代わる新政府の強力な直轄地支配の必要が上申されていたのである。
 越後府から派遣された権判事神保八左衛門は、民政局開設当時の若松を、「燼余屋梁街衢ニ横リ、腐屍溝洫ニ累リ収ルモノナク百般之醜態不忍見(中略)、官軍之分捕、金穀財宝ハ申迄モ無之、民家農具郷村駅逓之牛馬諸職人之雑具社寺之神仏迄モ残ルモノナク掠去リ、津川以東之民郷ニテ生業ヲ営ムニ手段無之候」と報じていた。 「土民等荘屋征伐と号シ、旗ヲ掲ケ螺ヲ吹キ数万人境内ヲ横行」という「世直し一揆」の蜂起に対し、新政府は、帰藩中の諸藩兵を急遽引き戻して鎮圧に奔走する事態にあったのである。
 そして、会津地方の支配は、若松県開設とそれにともなう岩代国巡察使の派遣後も、なお困難とされる諸事態が存続していた。 明治二年が極度の凶作となり、さらに同地方に蔓延した贋悪貨幣が近隣藩県にも波及する経済混乱を引き起こしていたことによる。
 明治二(一八六九)年の凶作は、新政府の布告に「諸道不実、奥羽諸国殆無ニ属シ、当節歳入総計ニテ百万石余之御不足ニ相成候」とある。 凶作の要因は、二年七月の天候不順が第一とされるが、特に若松県内では、兵災による田畑荒廃等が被害を著しくしていた。 岩代国巡察使は、直安米を払い下げるとともに、買い占めと隠匿を摘発し、さらに官員を越後に派遣して五〇〇石余の米穀を購入していたが、その極度な窮状は巡察使の施策をも破綻させるものであった。 民政局では元年一一月に「当年之儀ハ年貢半分下サレ候事」と達し、さらに若松県では、疲弊した農村に対して、凶作や水害の検見引きと雑税等の減租を余儀なくされている。 それは、河沼郡中新田村を一例とすれば、明治二年に本田免が五つ五分から五つに下げられ、従来からの領主貸付米とその利米が破棄され、足前銭や糠藁役等の改廃が実施されていた点に裏付けられる。
 また、贋悪貨幣の蔓延は、会津地方の流通・経済を極度に混乱させていた。

  「若松県下方数十里間、一円贋金楮製造場ニテ其筋ニ関係セザル者殆ド稀也(中略)、大政御一新前ノ金ヲ徳川吹、御一新後ノ金ヲ太政官吹、土地ニテ偽造シタル金ヲ御城吹と唄フ、只其名異ナルノミニテ真贋差別ナク融通ス、斯レバ奸民争テカ手ヲ出サザルベキ、忽チ造意主謀ト成リ随従与党ト成リテ専ラ是ヲ贋造シ非常ノ大利ヲ盗ム」

 右のごとき贋悪貨幣横行の端緒は、旧会津藩が慶応年間に軍用金を鋳造し、さらに鳥羽伏見戦争後に若松城西出丸の製造所で二分金を贋造したことによる。 そして、若松県下の贋金は、「近隣藩県悉皆引合無キハ無之」と全国規模に拡大し、若松町人大須賀屋松太郎に至っては、旧会津藩士の大本新吾と結託し、東京築地の柳屋伊右衛門へ贋金一三〇〇両を移出していた。 贋金製造で捕縛された大沼郡東尾岐村の一農民の「口述書」からも、同地方に上州や越後の商人が入り込み、大量の贋金を割り引いて購入していることが明らかとなる。
 一方、かかる贋悪貨幣の横行に対し、若松県は、厳刑行使を企図した「刑事委任」願と旧会津藩の家名再興の必要を新政府に上申していた。 「贋貨製造の巣窟其根源」である旧会津藩士の安堵は、県内沈静のために不可欠とし、さらに斗南藩設置の決定以降は、その早急な移転遂行を嘆願したのである。 そして、県境の関門に諸藩兵を駐兵させ、監察・刑法局等の治安警察機構を整備し、官員の県内巡視による民生安定を企図したのであった。
 開設当初の若松県では、監察・聴訴・租税・会計・断獄・社寺・生産・営繕の八局が置かれていたが、二年一一月に捕亡局が新設され、三年正月の改革で監察局が監督局となり、断獄と捕亡の二局をあわせた刑法局は、さらに解部・逮部の分課が整備されていた。 特に監督局は、その主事・副主事の職掌が、「官員ノ勤惰及非違ヲ弾糾シ、金穀ノ出納ヲ監督シ、諸局主事処置ノ可否得失ヲ討論シ、管内関門開鎖ノ寛厳ヲ監シ、監督方ヲ指揮スル」とされ、監督方の職掌は「市在ヲ巡察シテ下民ノ疾苦ヲ問ヒ、其寛枉ナカラシメムコト」と明記されている。
 すなわち、織田完之が監察局へ任官した時期の若松県は、戦火と「世直し一揆」の混乱に加えて明治二年の凶作が極端な被害をもたらし、さらに贋悪貨幣蔓延による経済破綻の渦中にあったといえる。 そして、同県の対策は、諸藩兵の県境駐兵や「刑事委任」による厳刑処罰を行使する一方で、旧会津藩の家名再興と安堵の必要を新政府に上申し、さらに県職制の整備・改革を推進して、特に監督局に治安維持・民心掌握へ向けた中心的機能を付与したものと看取できる。

               二 織田完之の県内巡察

 前述のごとき戦火と「世直し一揆」に加えて、さらに凶作や贋悪貨幣蔓延の事態に直面した若松県では、官員の巡察を数次にわたって推進していた。 その中心的役割を、「非違弾糾及市郷巡察兼務之事」とされた監督局が担ったことは、すでに指摘した。
 監督局権少属織田完之もまた、石崎少属らとともに、明治三(一八七〇)年三月に二〇日間を費して若松県内を巡回している。 織田の「若松県奉職中巡察日記」によれば、若松出発後の日程・宿泊地は、三月五日赤井、六日三代、七日浜地、八日関脇、九日猪苗代、一〇日駿河野、一一日大寺、一二日熊倉、一三日慶徳、一四日大谷、一五日野尻、一六日野村、一七日津川、一八日野沢、一九日柳沢、二〇日大登、二一日五畳敷、二二日胃村、二三日高田とある。 巡回・宿泊地域は図[1;織田完之の若松県内巡察行程](杉浦注;良図なるも略す)に示したが、若松県内をほぼ一周していることが知られる。
 では、織田らの若松県官員による県内諸村の巡察の詳細は、どのようなものであったのか。 織田の日記によれば、巡察の主目的は、県内の実情把握と県政に則った啓蒙・教化、および若松県の諸政策を町村に浸透させることにあったといえる。
 まず、織田の一行は、各地で村役人等を集め、その啓蒙・教化として新政府の「御仁恤」の企図と県政の方針を諭していた。 巡察の目的は日記に左のごとく示されている。

 「天子様ハ御幼沖ニマシマスナレトモ、万民ノ難渋ヲ御救ヒアラセラレ玉ワントシテ、日々御膳府ノ御倹約ヲマデモ仰セ出サレタリ、ナント難有キコトナラズヤ、四条殿ノ仰セニ、此等ノ廉々ヲ其方共ニイトネモコロニ申シ伝ヘテ安心ヲサセ、一人モ其所ヲ得ズシテウヘコゴエスル者アレバ、余カ不行届ナリトテ御憂ヘ遊バサレテ我等ヲ遣ワサレタルナリ、斯迄思召ノアツキコトナレバ、其方共相互ニ戒シメテ善行ヲ致ス様、勧メテ忠邪可否ヲ弁別スルカ我等廻村ノ職分ナレ」

 撫育・救恤の施政を説き、家業勉励や父母への孝養等のいわゆる「五倫ノ道」を遵守すべきことを、訓話している。 そして、「長寿ノ者ハ目出度御扶持ヲ給ハリ、又孝行ノ者、貞節ノ女、家業出精ノ者、奇特ノ類ソレソレ御褒美モコレアリ」と、若松県の「仁政」を明示したのである。
 だが、右のごとき啓蒙・教化を主とした織田一行の巡察も、「願筋ノ通シ兼ネル事トモ心ニ苦シク思フ訳アラハ申出ツベシ」と指示するや、各地で村役人糾弾・新政批判の訴願に直面していた。 猪苗代湖岸の諸村からは、助郷負担にともなう窮状が訴えられている。 新政府直轄地に組み込まれた旧会津藩領地に、新規の助郷等が賦課された結果、「宿役人不相当ノ割付アリトテ村民不居合」という不穏な実情を生じていたのである。 次いで、慶徳村では郷頭より堕胎・間引の横行を聞かされ、高吉村では水損地の普請に関する嘆願を受けていた。 小荒井組では、「郷頭手代木助左衛門私欲著シキヲ組村挙テ憤リ囂々刺々申立」の事態に直面し、「組合会集モ不致役場諸費割付著不当」等の一一か条余の糾弾書を提示されていたのである。
 この訴願の背景に、明治二年の凶作による町村の窮状が存在したことはいうまでもない。 猪苗代湖岸山潟村に関する巡察日記の記事は、「近年の凶荒此辺尤著シク、御救助米ヲ受クル者猶調和の物ニ差支エ、タラ木ノ皮、ワラビノ根、葛ノ根ヲ専ラ食シテ文吉・高蔵外三人モ食傷シテ臥ス、飢食アルハ人々皆然り」とある。 壺下村では、凶作の被害を、「田畔ニ委棄スル稲藁五寸・六寸に過ギズ、満目蕭然タル光景ナリ」と書き留めていた。
 一方、以上のごとき県内諸村の窮迫や不穏な動向に対して、織田らの巡察が、それを極力慰撫し、「世直し一揆」の再発を回避する役割を持った点を見逃すことができない。 織田一行が、「世直し一揆」の多発した大沼郡滝谷・野尻両組や猪苗代湖周辺地域を、主に巡察していることがそれを裏付ける。 そして、前述のごとき新規助郷賦課や宿役人の不正への非難に対しては、「駅逓方ヨリ所置アルベシ」と「論解」し、小荒井組郷頭に向けられた一一か条の糾弾書には、「屹度御沙汰ノ義モ有之間謹テ相待申スベシ、雑衆(?)イタス様ニテハ相ナラス」と指示していたのである。 郷頭は、「旧会代官同様杯ト相唱、威権ヲ振ヒ民人ヲ軽シ組下ノ望ヲ失ヒ候者不尠」として、明治三年五月に廃され、新たに大肝煎制度が設置されるに至る。 県制批判や村役人糾弾の事態を慰撫する織田の巡察は、かかる若松県の制度改革を前にして、重要な意義を持ったものと理解してよい。
 では、この織田一行の巡察の結果は、同時期の若松県政にどのように反映されたのであろうか。
 若松県では、織田の巡察直後の三月二九日、「先達而廻村之上巨細窮民共取調置候処、猶亦御仁恤之御趣意ヲ以、農事中四月五月両月、社倉米ニテ鍬取之者一日一人五合、老幼三合宛ニテ御貸渡成候」と、社倉米の貸与を布告している。 この社倉米貸与に関しては、巡察日記の三月一〇日の項に、「堀切ヲ過ギ芳賀少属に逢フ、芳賀云ク、窮民二合ノ御救助受候テモ川東組ハ実ニ疲弊シテ力作ニタヘサルベシ、鍬取ノ者ハ四・五月、二月丈ケハ四合五勺ヲ御貸下ケニ相成ル様致度、尤湖水東岸中地・浜地・駿河野、奥薄地瘠田村々別格ニ御手当無之テハ餓死者アルモ難斗ト云、即余ガ検察スル所ト事実適遇ス、相為メニ啾然タリ」とある。 まさに、織田と同時に県内を巡回していた芳賀少属の見解が合致し、諸村の窮状が農業生産をも停滞させることへの危惧により、社倉米の貸与が実施されたのである。
 そして若松県では、社倉米を貸与する一方で、同県内において流通政策の安定と確立を推進した。 若松県では、織田らの巡察の予告通達と同時期に、賑恤米の公定価格を定め、諸村の米相場がそれに準拠することを指示していた。 それゆえ、織田は壺下村周辺で抜米の実情を聴収し、熊倉村にて「富有ニシテ余米を蓄積スルモノ多シ」という事態を指摘している。 それは、富裕者が若松県の払いさげた直安米を入手、蓄積すること、および「高直に売買」することを禁じ、また近隣藩県への「抜米」を厳禁する同県の布告となったのである。
 すなわち、監督局権少属織田完之らの若松県内巡察は、窮民の実情把握や啓蒙・教化に加えて、県内の不穏な諸動向を慰撫したものであり、かかる巡察の結果を背景として、社倉米の貸与、および米穀等の商品流通の安定を強く推進する同県施策がなされたものと評価できるのである

               三 織田完之と若松県政

 前節では、主に織田完之の若松県内巡察日記の分析を通じて、県内諸村の実態を把握し、巡察の意義を検討したが、同時期、織田は新政府や若松県政に関する「諤諤余言」「献議案」等の意見書を作成していた。
 若松県へ任官する直前の明治二年五月の意見書「諤諤余言」は、「民心ヲ得ルノ条」、「冗費ヲ弁駁シテ之ヲ省ブク条」「貿易ノ節度ヲ建ル条」、「教化ヲ弘メ風俗ヲ厚フシテ順序次第ヲ趁ふて邪説ノ害ヲ攘除スル条」、「復古ノ仁政ヲ求ルハ班田均民ノ術ヲ行フニ若クハナキ条」等の九か条より構成されている。 その「民心ヲ得ルノ条」には「方今王政維新の日、宜ク先ツ租額ヲ薄フシテ民ノ心ヲ安ズベシ」とある。 具体的には、「肥瘠ノ田ヲ差別シ、兼並ノ族ヲ平ラゲ、力ヲ溝洫ニ尽サズンバアルベカラズ」とし、「先ツ海内ノ租十分ノ内三分ヲ減スルノ令ヲ下シテ民ノ心ヲ納メ、遊民ノ帰スル路ヲ開ク時ハ、鰥寡孤独廃疾ノ者モ救助スル処アリ」と述べられていた。 総じて、「復古ノ仁政」による農村安定を企図し、質素倹約の励行と「五倫ノ道」の遵守を説くものといえる。
 また、「献議案」は、「仁政復古之議」等の五か条からなり、若松県在職中に作成されていた。 そこでは、「義倉ヲ設ケテ米穀ノ備荒蓄積ヲ計ルコト」とし、窮民救済策は、「村落ヲ点検セシメ、割合ヲ定メテ貯米ヲ差出サシメ、官ニ売買ノ権ヲ握リ、兵乱前ノ米価ニ平等シテ救済法ヲ構セハ諸物価モ亦随テ是ニ準的スベシ」とある。 そして、五人組の厳格な施行の急務を論じ、贋金処罰者に対して「威ヲ厳ニシ恩ヲ厚フスル」ことの必要を記していた。
 右の「献議案」は、意見書「諤諤余言」に対し、若松県での地方官としての体験を背景としたものであるが、両者の論旨からは、織田が郷村の安定を重視し、復古的な「仁政」による県政の遂行を企図していたことが看取できる。 県内の巡察に際した諸村での啓蒙・教化、および県政の安定を重視した民心慰撫・救恤策は、まさに織田の見解と合致する同県の施策であったと理解できるのである。
 一方、四条隆平知事のもとで、戦火の荒廃、および凶作・贋金蔓延等の事態からの復興を推進してきた若松県政は、明治三年三月の三陸磐城両羽按察使の判官渡辺清、さらに同年六月の民部租税権大佑黒田直方の来県により、大きく転換した。
 東北地方藩県の監督を管掌した三陸磐城両羽按察使の判官渡辺清は、民部・大蔵省の集権的な地方政策の企図を背景とし、若松県政の改革・刷新を強く促している。 按察判官渡辺清は、明治三年三月三〇日より四月九日まで若松に滞在し、その間に、郷頭の廃止や「断獄聴訴規則」制定に向けた諸指示を発していた。 「不正之取計多分有之」として検断が廃止され、郷頭にかわる同年五月の大肝煎の設置に際しては、その役料が民費負担とされ、「都テ郷頭之仕来ハ悉ク相廃」されている。 そして、「下 情更ニ不相分、不得止市在農商ヲ多人数相集メ御用掛エ申付、右等之事ニテ莫大之官員ト相成」った草創期の事態を一洗し、さらに従来の直安米払い下げ等も停止して、民政局以来の戦後救済の多くを廃したのである。
 また、民部省租税権大佑黒田直方・少令史下長良は、明治三年六月から三か月余を若松に滞在し、若松県下の税制の改革・指導に従事していた。 その結果は、明治四年に至って、民部省へあてた同県の「租税之儀ニ付地方検査伺書」となる。 そこでは、「兵災後民心狡黠ニ押移、耕地等押隠シ、或ハ荒地起返リ等ニ至ル迄不届出、其儘ニ打過其外引方多ニ相成、此儘打指置候ヘハ御不益之儀ニ有之」と、戊辰戦争後の貢租減少に対処せんとする若松県の租税政策が示されていた。 具体的には、略式の検地、および五か年の検見取りによる貢租確保策が掲げられている。 「検見ノ節ハ平均免ニ申付候」として、「御料並取調ニ付テハ追テ納物ノ内御免可相成品モ可有之候」としたが、「御料並」とは表[1](杉浦補注;略す)のごとく、旧会津藩時代の雑税分にも増した収奪となる。 さらに、従来把握の困難であった田畑・新開地等を、賦課の対象に組み込むことを明らかにしていたのである。
 地所検査は、戸籍調査とともに同県の全力をあげて遂行され、増税を恐れる農民の抗木抜取りなどの抵抗を排除して強行されている。 そして、明治四年七月に若松県が民部省にあてた報告書のなかには、地所検査の七・八分を終了した旨が記され、同年には、本免地五九町余・起直し地九〇八町余をはじめ、同県下の新規賦課・増税地が総計一五一八町余にのぼっていたのである。
 では、かかる民部・大蔵省の企図を背景とした、按察判官渡辺清や租税権大佑黒田直方らの指導による県政の改革・刷新は、一方で、県内巡察に携わった織田完之にとって、どのような意味をもったのであろうか
 前述のごとき織田の「仁政復古」の企図は、集権的な支配の確立と貢租確保を第一の急務としていた按察判官等の改革策にたいし、若干の隔りを持っていたことは明らかといえる。 織田は、県内諸村の安定を重視し、復古的な「仁政」を主体とした県政の遂行を企図していた。 知事四条隆平も、「御一新以来治民ノ道未立、政令煩苛ニ渉リ民皆不聊生、故ニ動スレハ暴動沸騰ノ機アリ」とし、「大蔵省ヲ廃シテ出納司ヲ政府に置キ」「税法を薄クス可シ」と、民生安定を重視する立場から、民部・大蔵省の集権的な施政と増税策への批判を太政官へ建言していたが、その四条隆平は四年七月に免官となっていた
 明治三(一八七〇)年七月、織田完之は、若松県官員を辞職している。 その理由は、『鷹洲織田完之翁小伝』に、「七月不幸にして病に罹り為に 職を辞して郷里に帰り静養する」とあるだけで、詳細は判然としない。 織田は県内巡察後に県学黌主事を兼職して「県学規」等の制定に尽力していたが(注-2;参照)、前述の若松県の改革・刷新の経緯からは、織田の企図する「復古仁政」の遂行が、十分な成果を期待しえなくなっていたことが容易に指摘できる
 かくして、明治三年七月に若松県官員を辞職して帰国した織田完之は、その後、四年一一月に大蔵省記録寮に任用され、以後内務省勧業寮や農商務省農務局に奉職する(注-3;参照)。 そして、日本古来の農業を尊重する立場から、佐藤信淵の農政学と二宮尊徳の道徳経済論を講究し、いわゆる尚古派農学者として農政・勧業の振興に尽力している。 「農政垂統記」「大日本農史」「大日本農政類編」「日本農功伝」等の農史編纂に携わったのである(注-4;参照)。

 (注-2) 織田完之は、明治三年七月の辞職に際し、「奉職中長々勉励殊ニ新建学黌之基礎ヲ定メ、其規則ヲ確立シ、志学之先徒追々繁殖之目的相見、尽力之段神妙之事ニ候也」と記した、「若松県褒状」を受けていた(『鷹洲織田完之翁小伝』九四・九六〜一〇五頁参照)。
 (注-3) 織田完之は、明治九年一〇月内務省勧業寮中属、同一〇年二月内務省勧農局五等属、同一八年三月農商務省農務局二等属の職にあった(『官員録』参照)。
 (注-4) 織田完之は、『大日本農史』等の編纂に際して、日本古来の農功事跡の調査や農政の分析に中心的な役割を果たしていた。 織田の思想は、「本邦の農ハ天祖以来農政ヲ以テ建国ノ基礎トシ、農政ノ為ニ農業ノ興起セルモノニシテ、忠孝ノ道大義名分ノ存スル所全ク此ニアリトス、外国ト其趣ヲ異ニスル所以ナリ」ト記され、いわゆる尚古派農学ノ農政史学者と位置づけることができる(「農書編纂意見」<「五色石」流通経済大学『祭魚洞文庫』所蔵>)。
 
 織田完之は、その農政への傾倒した転機について、後日談ではあるが、佐々木高行・山田顕義らを前にした明治二二年の皇典講究所講義会において、左のごとく述べている。

 「王政維新ノ二年、利根川ヲ渡リテ感アリ、任ニ若松県ニ赴ケリ、当時若松地方ハ凶荒ノ後、戦争ノ跡、塩川辺が暴漲シテ、民家ノ難渋一方ナラズ、此ノ時巡回ヲ致シ、大ニ感発スル所アリ、聊カ農政に心ヲ用イル気ニナリマシタ、ソレカラ少々ヅツ本朝ノ農書ヲ読掛マシタ、四年大蔵省ニ奉職シテ以為ク、矢張石屋ノ倅ハ石屋、医者ノ倅ハ医者ガ宜シ、私ノ如キハ百姓ノ倅デアルカラ、百姓ヲ治メテ、食ヲ足シ、兵ヲ足シ、民之ヲ信ズト云フ御世ニナラバヤト存ジ、尋テ勧業寮ニ出勤シ、勧農局トナリ、農務局トナリ、引続キ日本固有ノ農業ヲ鼓舞作興スルコトヲ心掛マシタ」

 織田完之が農政の講究とその振興に傾倒した契機は、まさに前述のごとき若松県官員在職中の県内巡察の体験にあったといえる。 それは、織田が、若松県辞職直後の明治四年に佐藤信淵の『農政本論』を校訂・出版し、それ以降も多数の信淵関係の書籍を収集して、その校訂・出版を行っていたことが証左となる。 そして、若松県内巡察の日記における農作物の成育状態の記載や、猪苗代湖岸の関脇村で白蓮栽培を勧奨していた記事も、織田の農政への関心の萌芽が同時期にあったことを明らかにする。
 すなわち、織田完之の農政への傾倒は、農村の窮状を地方官の立場から直視した若松県時代を契機とし、以後、みずから佐藤信淵の農政学や二宮尊徳の道徳経済論を講究し、さらに内務省や農商務省において、農書編纂事業の中心的役割を担ったものと理解できるのである(注-5;参照)。

(注-5) 織田完之は、若松県官員在職中に、南会津郡伊南村の河原田盛美を知友とし、のちに「余若松県以来之知人也」として、「河原田盛美翁功徳碑銘」を撰書している。 明治四年に上京した河原田盛美は、内務省や農商務省に奉職して、農政・水産等に各種の建白・執筆を行っており、その任官等には織田の助力があったと思われる。 河原田盛美の実長子盛政は福島県会議長を勤め、盛雄の姉五十子の夫で盛美の養子であった河原田稼吉は、貴族院議員・衆議院議員を歴任し、昭和一二年に林鉄十郎内閣の内務大臣同一四年阿部信行内閣の文部大臣に任ぜられていた(鎌田永吉「河原田盛美・史料ノート ―大久保政権の「社会的支柱」に寄せて― 」<『史料館研究紀要』一九七一年・第四号>参照)。

                 むすびにかえて

 小稿では、若松県権少属織田完之の「若松県奉職中巡察日記」を素材として、明治初年の若松県の実態と県内巡察の経緯、および織田の農政史家への転機を検討した。
 明治初年の若松県政については、戦火や「世直し一揆」に加えた凶作と贋悪貨幣の被害が極度であり、その対策として、旧会津藩の家名再興と「刑律委任」による厳刑行使が企図され、県境への関門設置と県職制の整備が遂行されたことが明らかとなった。 監督局権少属織田完之の県内巡察も、若松県における県政安定・民心掌握の一環をなしたものと評価できる。 そして、織田らが実地に見分した農業生産をも停滞させる諸村の窮状への危惧は、社倉米の貸与・抜米禁止という若松県の布告となって実現していたのである。
 一方、織田完之については、兵災と凶作による町村の窮状をその巡察日記に克明にしるし、同県在任中に「献議案」を作成していたことを明らかにした。 それは、明治二年五月に記した意見書「諤諤余言」に対し、さらに若松県内の実地見分を背景とするものであり、農村の安定を重視し、「仁政復古」を地方政策の中心に掲げたものと理解できる。
 だが、明治三年三月の按察判官渡辺清の来県・指導を契機として、集権化と貢租確保を重視した若松県政の改革・刷新が推進され、織田はかかる改革の渦中に若松県官員を辞任していた。 その後、織田完之は、明治四年に大蔵省記録寮に任官し、さらに内務省、農商務省に奉職して、尚古派農学者の視点から『農政垂統記』『大日本農史』『大日本農政類編』『日本農功伝』等の編纂い中心的役割を果す。
 この日本古来の農業を尊重した織田完之の農政への関心は、若松県官員としての実地体験を背景としたものと看取できる。 織田完之は、若松県官員の辞職を転機として、佐藤信淵の農政学や二宮尊徳の道徳経済論を講究したのである。 その後日談話からは、織田みずからが、若松県での巡察が農政へ傾倒する転機となった旨を述べていることが明らかとなったのである。


[史 料]

      巡察日記


 三月五日、雨風、若松ヲ出テ滝沢峠ヲ過ギ赤井宿ニ至ル、雨愈甚シ、裳衣皆湿フ、終ニ宿ニ投ズ

 六日、晴、村役人ヲ呼出シ諭シテ云ク、 初テ対面ヲ致ス我等此度出役セシハ、四条殿ノ仰ヲウケテ 天朝御仁恤ノ御趣意難有キヲ細カニ申シ諭ス、皆謹テ承ケタマワネバナラヌナリ、 先ツ御制札ニモ掲ゲテアル人タル者ハ五倫ノ道ヲ相弁ヘネバナラヌ、夫レ子タル者ハ父母ヲ大事ニ孝養ヲ尽シ、親タル者ハ子ヲイタワリ育テ老後ノ資ケトナス、是父子有親ナリ、 又百姓ノ家モ耕作ノ為メ人ヲ雇ヒ遣ヘハ家来ノ様ナモノ、其身ハ主人常々心ヅケテイタワリ遣ヘバ、ソノ者モ亦カゲ日ナタナク精タシテ為筋ニナル、是君臣ノ義アルナリ、 又婦人ハ男子ノ後ヘ附ク者ナレバ、亭主ノ先ヘ立テ物言杯致セバ、人ヨリ見苦敷ミヘ、亭主モ人ニウトマルルニ至ル、メンドリノアシタヲ司ルハ家ノ不吉ナリト云コトモアレバ、夫婦ノ間馴々敷テハ示シモ行届カヌ者ユヘ、夫婦別アリト云、 又年ノタケタル人ハ其処ノフルキ事ヲモ弁ヘ居リ、艱難ヲ経タル者ナレバ、上座ニスヘテ、年ユカヌ者ハ其下ニスワルハ礼譲ト云フテ長幼ノ序アルナリ、 又、懇意に交ル人ハ、愈々親実ヲ以テ長ク相互ニ為筋ニナル様ニ致シ、少シモウソ偽リナキヲ朋友信アリト申ス、 是等ハ皆誰シモ存ジテ居ナガラオロソカナリヤスキ者ナレバ、心附ケネバナラヌコトナリ、 老テ妻ヲ失ヒ、老テ夫トニ後レタルヲ鰥寡ト云、 ミナシ子ヒトリモノ病身モノヨルベナキ難渋ノ者ハ、ソノ処ノ役人ガ能々ナサケヲ加ヘイタルベキ事デ、左様致セバ、其処ノ人心自然ト役人ニナツキテ、役人モソノ身ハ人ニウヤマワレ、子孫繁栄ヲ致ス事ハ申迄モナキコトデアル、 斯申ス迚モ役人共銘々分限アレバ、金穀ヲ出シテ毎度難渋ノ者ヲ救フコトハ勢ヒ六ケ敷モアラン、ナレトモ村々ニハ五人組モ立テアレバ、親類ナキ者ハ隣家組合ノヨシミヲ以テ、ウヘココヘセヌヨウニ成ル丈ケ世話ヲシテヤルノガ即チ人ノ人タル道ナラズヤ、 役人ハ是ソノ処ノオサ也、オサハオトナト云モ同シ事、小前ハ子供モ同様大勢ノ内ニハワガママヲ云者アリテモ、能ナダメテ不都合ノ生ゼザル様イタスノガ役人ノ行届クト云モノデアル、 又一人不埒ノ者デキレバ、役人ハ申ニ及バズソノ処ノ一同イタミニモナル、ソノモノトハト云ヘハ、多クハ貧ノ盗ミ隣家組合ノ意見イタサザル不実ニ生スル者ユヘ、能々小前ニ人ノ人タル道ヲシメシ聴カセ、安心シテ家業ニ励マセ、睦間敷相交候様イタスベシ、 四条殿ノ御召ハ、何卒ゾシテ当地ノ民ノ安心シテミナミナ家業ヲ励ミ、父母ヲ孝養シ、妻子ヲアワレミ、養ヒ人ノ人タル五倫ノ道ヲ相弁ヘル様遊バレ度御主意ニテ、 当春モ既ニ八十八歳以上長寿ノ者ハ目出度御扶持ヲ給ハリ、又孝行ノ者、貞節ノ女、家業出精ノ者、奇特ノ類ソレソレ御賞美モコレアリ、 御前ニテ賜ルハ 天子様ヨリ賜ル訳ニテ、天ノ福ヲ受ルト云者也、 又当地ハ近年凶荒違作打続キ、米穀ノ値ヒガ高クナリ、諸品ノ値モアガリ、下々一同ノ難儀ヲイトカワイソウニ思召サセラレ、他国ヨリ高値ノ米ヲ御買入レナサレテ、御救ヒノ為メ値安ニ御掃ヒ下ケニ相成、災難ニ逢ヒ家業ノ行立チカタキハ又ソレソレ御貸下ケノ御手当等遊バサレルハ、 皆当地ノ民ノ安心シテ親ニ孝行家業出精隣家組合村内ニ睦間敷ク子孫繁昌致ス様トノ御主意ナレバ、此処ヲ厚ク相心得申スベシ、 ソレ諸色高直ナレハ人々難渋ヲ致ス、ナカンヅク米穀ノ高直ナルヲ第一番ニ困マルモノデアル、今難有キ御思召ニテ、ソノ第一番ニ大切ナル米穀ヲ直安ニ御払ヒ下ゲニ相成ル上ヘハ、町人小商人ハ申スニ及バズ、日用陪売買ノ諸品、在々ヨリ城下ニ持出シテ売ル野菜等ニ到ルマテ、御上ノ御下知ナキトテモ直安ニ売レバ買人モ多ク、左スソバ売人モ利潤多分ニナルコトユヘ、高直ニウリテ買人ノ少ナキヨリモ、カズテモウケル方ガ宜シキ訳ニテアレバ、相互イニハナシ合セテ善行ヲ励ムガ其身ノ徳ト云フ者ニテ、徳ハ身ヲ潤ヲシ人ニウヤマイアガメラルルモノナレバ、底事ニ付テモ、身ヲ省ミテマツスグニ取斗ラワネバナラヌ事デアル、 又何ニカ存シ付キノ事デ申立度儀トカ、但シハ願筋ノ通シ兼ネタル事トモ心ニ苦シク思フ訳アラバ申出ヅベシ、 些細ノ事テ理義ノ分リ兼タルハ、直様聞分ケテ遣ワス事モ有リ、又其筋ヘ申シ出ヅベキ様差図ニ及ブベキ事有リ、忌憚リナク我等ヘ申聞ケテ然ルベシ、 此ニ又其方共ハ存ジテ居ルカハシラネトモ、畏レ多クモ今ノ 天子様ハ御幼冲ニマシマスナレトモ、万民ノ難渋ヲ御救ヒアラセラレ玉ワントテ、日々御膳府ノ御倹約ヲマデモ仰セ出サレタリ、ナント難有キコトナラズヤ、 四条殿ノ仰セニ、此等ノ廉々ヲ其方共ニイトネモ(ンか)コロニ申シ伝ヘテ安心ヲサセ、一人も其所ヲ得ズシテウヘコゴヘスル者アレハ、余カ不行届ナリトテ御憂ヘ遊バサレテ我等ヲ遣ワサレタルナリ、 斯迄御思召ノアツキコトナレバ、其方共相互戒シメテ善行ヲ致ス様、勧メテ忠邪可否ヲ弁別スルカ我等ノ職分ナレバ、休泊申付候テモ馳走饗応ケ間敷儀一切致ス間敷事、
 原駅ニ至ル、組村相集リ居ル、 前条申シ諭ス、皆悦服ス、 赤津ニテ又説諭ス、皆低頭シテ聴ク、感悟ノ色アリ、吾モ亦為メニ泣ヲ掩フ、 三代駅ニ泊ル、夜風雪、

 七日、 猛風捲雪、三代ヲ発シテ東ニ入リ、中地・舟津関ヲ過グ、 他異ナシ、 当県管内他領ノ界経ヲ問フニ、中地東一里二十四丁陬訪峠一名追分峠ト云フ、絶頂界標アリ、向フハ石岡藩支配ナリト、 舟津ノ奥一里半斗リニシテ三森峠ト云、頂上頗ル艱険ノ処中分ナリ境標ナシト云、 館村・横沢ヲ経テ浜地ニ宿ス、浜地ノ奥一里半御霊櫃峠ト阻絶ノ頂上中分標木ナシト ○此地険阻ノ下湖水ノ上家数僅ニ三十軒、人数八十余、薄田百二十石、租税軽カラズ、豊年ト雖トモ食ニ充ルニ足ラズ、況ヤ近年ノ凶荒、御救助米ニ合ツツヲ受ケ、調和シテ食スルニ物ナク飢ニ困シム者少ナカラズ、実ニ此等ハ直安米ヲ月々御払ヒ下ケ、役人ヘ」月初メニ御貸渡シニ相成リ、月末ニ金ヲ納ムルノ方ニ致セバ、山稼ノモノ、日雇ノモノ、一分二分ツツ買取リテ喰続キ家業ニアリツクベシ、実ニ此際山樹木長セス、里人多ク二本松領ヘ出稼キ致スト云、憫然ノ事ナリ
○中地・舟津・舘村・横沢・浜地・浜坪・馬入新田杯ハ元ト二本松ノ領、旧会藩預リ地ノ由ニテ、足役等総テ相宛テズ過ギ来ルヲ、去年民政局以来村々ヘ相達シ赤津・三代両宿ヘ助郷申付ケラレ、困リハスレトモ最寄ノ事足役出シ候ハ当前ノ事故相勤ムル様ニ相成ル処、宿役人不相当ノ割付アリトテ村民不居合、相止ミ旧臘月又県ノ駅逓ヨリ達シニ相成、今以テ村巷偶語スル者多シ、 聞糺シ候処、三代宿ノ儀ハ常備人足百六ナリ、常備払尽シテ其不足ノ分ナラバ受持ツベシ、常備ノ人足迄一同割ニカケラレテハ迚モ欠米ノ地難渋セリト、是又尤ノ儀也、 嚮ニ三代泊リノ時、役人申立ニ常備人足ノ不足ヲ当テ候ニ少シモ出シ不申、其継場差支ヘ候旨懇々申スヲ考量シテ諭解ヲナスニ、憤恕スル者ノ云ク、回状ニ一同割ノ証アリ不相当ノハカラヒニ候ト、余ガ云ク、宿役人ノ不方アラバ駅逓方ヨリ所置アルベシ、汝等 天朝御仁恤ニ感スル程ナラバ、天朝ノ吏人通行差支ヘ候ワヌ様致サネバナラヌト申諭して去ル、 関門無事北ニ出テ険山ヲ度ル一里余ニシテ軽井沢二軒茶屋立寄ル、老女二人炉ニ当テ焼火ス、路案内ノ老夫婦仁恤ヲ懇談ス、我輩ヲ亦諭ス、感喜成涕、此地高山深谷幅員狭窄薄田僅ニ五段、居人猟樵ヲナシテ糊口ス、更ニ世間ノ事ヲキカス、屋舎淳朴人口十二人憂フル所ハ只米ノミ、 山潟ニ至ル、此村家数六十三軒、此地米平年ハ随分トレルヨシ、近年ノ凶荒此辺尤甚シク、御救助米ヲ受クル者猶調和ノ物ニ差支ヘ、タラノ木ノ皮、ワラビノ根、葛ノ根ヲ専食シテ文吉・高蔵外三人モ食傷シテ臥ス、飢色アルハ人々皆然リ、東北三十町揚枝村其地田地少ク牛馬ヲ牧育シテ糊口ヲナス、殆米乏ク窮迫ス、牛馬買入元手拝借願叶ワズトテ嘩嗟ノ声アリト聞ク、其地ニハ到ラズ、此揚枝村東六町阪上界標アリシヲ戦争ノ時取除ク云 ○山潟ノ東ニ小蹊アリ、旧会藩他国ヘ米ヲ輸出セシ為メニ開キシト、今抜米ハ無之ヤト問フ、此村民相心掛不通ト云 ○新田ヲ過キ壺下ノ境ニ入ル、左右皆水田、先導ノ者指シテ云フ、去年ノ凶荒如此ト、田畔ニ委棄スル稲藁五寸六寸ニ過キズ、満目蕭然タル光景ナリ ○壺下関ヲ過グ、無事関脇村ニ投宿ス、寂寥タル破駅ニシテ民ニ飢ル色アリ、此地東面山ニ迫リ西ハ地低フテ水田湖水ニ接ス、泥沙遷変地力稲ニ可ナラサル処ヘ白蓮ヲ種ルナラバ里人ノ補ヒナラヤト謂ヘバ、里正稍久シテ謂ウ、必スヨカラン謹テ教ヲ奉セン ○壺下東福島領中山・竹ノ内ハ堺ニ近キ場所ニテ、米価一分ニ一升三盃、当管内ハ三升半盃ノ御仁恵ナレバ、彼等ハ猪苗代ヲ超テ西北ニ出デ買取テ干葉ニコトヨセ通関候モ間々有之容子、第一ニ村北越路ノ間道ヲ過テ行者アリ、タマサカニハ見付候者コレアリ候テモ、面ヲ知ル者ハ責ル職ニアラザレバ見逃ガス情アリ、又浜辺ノ間道ヲ通ル風聞モコレアリ候、旧会ノ頃ハ間道守一人下番二人順回シテ抜米ヲ不致様手当有之候、 故ニ別ニ其職ヲ御立ニ相成リ候得バ取締モ行届申可シト云フ、余云ク追テ御沙汰有之迄ハ村内ノ者申合セ厳重心掛ケ可申ト相達ス

 九日、 晴、金曲蔵組都沢・関脇・金曲・松橋・中目・夷田・坪下・新屋敷蔵組幸野・曲淵・東館・白津・明内野(明戸・内野か)ノ村々肝煎・地首ヲ集メテ説諭シテ発ス、 都沢・幸野・曲淵・東館・西館・猪苗代ニ泊ス、 村々集ル所長坂・渋谷・見称・北久野・中村・本町・新町・町堤崎・町島田・新田、川西組本町・今和泉・東谷地・南土田・嘉堂観・谷地・百目貫・堤崎・島(田欠か)・西館・入江・相名目・回谷地・北高野相尋テ到ル、 一々説得シテ寝夜四更

 十日、 快晴、ニケ村ノ役人来ル、申諭ス、東発シテ堀切ヲ過ギ芳賀少属ニ逢フ、 芳賀云ク、窮民ニ合ノ御救助受候テモ川東組ハ実ニ疲弊シテ力作ニタヘサルベシ、鍬取ノ者ハ四・五月、二月丈ケハ四合五勺ヲ御貸下ケニ相成ル様致シ度、尤湖水東岸中地・浜池・酸河野、奥薄地痩田村々別格ニ御手当無之テハ餓死者アルモ難斗ト云、即余ガ検察スル所ト事実適遇ス、相為メニ啾然タリ、 別シテ東ス、小田ヲ経テ酸河野ニ泊ス、 下館・萩野・堀切・白木城・水沢・小田村・木地小屋・大原・達沢小屋・高森小屋ノ役人ヲ集メテ説諭ス ○木地小屋・達沢小屋ノ辺田地ノ少キ処殊ニ困弊スルト見ヘタリ、白木城ハ石田ニテ去年ノ藁六・七寸腐朽シテ薪ニモ充タス、皆委廃シテアルヲミテ一モ心ヲ傷マシメザルナシ ○酸河東三里将軍ニ堺アリ、標ナシト云

 十一日、 晴、三城潟ニ到リ、新在家・西真行・大在家・釜井・烏帽子小屋・東真行・南真行・行津・桜川・西窪・蟹津村々相集ルヲ諭ス、大寺ニ宿ス

 十二日、 曇、一ノ沢・大寺村下・上、布藤・本寺・源橋役人ヲ諭ス、 発シテ上西蓮村ニテ最寄数村ヲ諭ス、 金川村肝煎ヘ立寄ル、隣村役人共幸ニ多ク集リ居ヲ諭ス、感悦フ、 至塩川テ下遠田・上江・別府・下窪村々集ル、熊倉ニ泊ス、此処探索スルニ奸民多ク敬上ノ心少ク富有ニシテ余米ヲ蓄積スルモノ多シ、然ルニ御救助米ヲ他所同様受ケ、ソノ上アリガタ迷惑ノ私語ヲナス、可憎 ○是辺余蓄枚挙ニ遑アラズ、中ノ目・小沼・高柳・館・三城目・中里・下熊ヲ諭ス

 十三日、 晴、湊村・谷地・布流・宮ノ目・七本(木か)目・辻村・猪沢・金森・金沢ヲ諭ス、 小田付ニ到ル、新井田・一堰・稲村其十七八村諭ス、 五目ニ到リ根岸其十二村諭ス、慶徳ニ投ス  ○郷頭武藤彦五郎嘆シテ云フ、此地堕落流産ノミナラス現在貧窮ノ者ハ産子ヲ潜ニ殺ス少ナカラズ、旧会ノ頃嘆願救助手当コレアリ、大ニ幣ヲ除クノ形ニ赴キ掛リ今ハ又頻リニ殺コト流行、痛慟ニタヘザル事ナリ、 旧会ノ扶助例ハ、拾歳以下子供三人持つ但シ初子十歳ヨリ三歳迄右ハ一人扶持、拾歳ヨリ三歳以下二人持右ハ一扶持ニ衣服料三分、六歳以下子供三人持右ハ二人扶持ニ衣服料三分 ○松野崎ソノ他四村同夜諭ス

 十四日、 晴、小荒井ソノ他十七村諭ス、 ○小荒井組ノ内高吉村田付川橋アリ、旧会ノ頃ハ領主普請ニテアリシガ近年水損甚シ、貧村ニシテ家数四十五軒、一同難渋至極ノ段申立者ハ悦太郎父治郎也、是ハ願書ヲ以テ県ヘ願出ツベシト諭ス、 ○小荒井郷頭手代木助左衛門私欲甚シキヲ組村挙テ憤リ囂々刺々申立、 第一組合会集モ不致役場諸費割付甚不当、 第二役場新建雑用皆済候ヲ追割掛此金七拾ニ両、 第三旧冬中越穀運賃取立重複アリ、 第四金沢山村ヨリ沼上立川普請坑木運送賃不相済、 第五越穀並割ノ事、 第六小荒井御蔵資難之米足入ノ節、蔵番ノ言口ヲ以テ割当エ組合会集評議一切コレナシ、 第七同前御蔵ヨリ瀬村熊倉両御蔵ヘ越穀ノ銭相渡サズ、 第八降伏人草鞋代御下金コレアルヲ相渡サズ、 第九辰年戦争前人馬若松・原・福良迄モ大賀詰下リ銭、諸組ハ受取済ニ相成ルヲ当組斗リ相渡サズ、 第十去年五月夫喰代民政局ヨリ金札ニテ御渡ニ相成ルヲ、戸前ニ渡スニハ増金コレナクトテ不通用金強テ相渡サレ候間、然ラバ納メノ時ハ御取下サル様頼ミ置候ヲ、納メノ時一両ヲ二分ヅツニ受取候事、 第十一地下諸費割取立相成リ小賄食札ノ分ハ今ニ渡サズ願テモ答ナシ、 肝煎升取諸給金去年ノ分今ニ渡シニ相ナラズ、定数金高拾石ニ付二拾四匁ツツ取立テ候、 小割米取立ノ事、 鼠切欠復米取立不当ノコト、 三役金取立不当ノコト、 一石ノ納場ヘ米六升ツツ取立ノコト、 百三両余郷頭町登入用ノコト、 兵隊ノ入用ト唱ヘ諸組ニコレナキヲ当組斗リ取立ノコト、 御扶助米去年ノ分取立ノ時不当ノコト、 役場諸費割定数金年中受払帳銘々ヘ見セヌ事、 辰年御扶助米受残リノ帳願候テモ一切見セヌ事、 去年七月中小田付村ヘ四条様御出ノ節御宿賃四拾一両余ノ事、 役場普請カヤ代ノ事、惣合不容易ナリト云、 尤ノ件モミユルニ付諭シテ云、 前ニ聞カス通リ御上ニテハ下民ノ艱苦ハ渾テ御救遊サル御趣意ナレバ、屹度御沙汰ノ義モ有之間謹テ相待申スベシ、雑衆(?)イタス様ニテハ相ナラスト申付ク、 皆服ス、 発シテ木曾村ニ休ス、ソノ組十二村ヲ諭ス、 大谷村ニ泊ス、九村諭ス

 十五日、 曇、四村ヲ諭シ、平明村ニイタリ三村ヲ説キ示ス、此宿ノ茂七祖父太郎左衛門歳八十三歳、□□トシテ散行ス、余ソノ淳朴長寿ノ形体ニ感シテ金一方ヲ与ヘテ聊養老ノ志ヲ[扌+慮=ノ]フ、 野尻ニ宿ス、数村ヲ諭ス

 十六日、 雨、福取ニテ諭シ 野村ニ泊ス、四村諭ス

 十七日、 晴、津川ニ至ル、鹿瀬組ヲ呼出シテ諭ス、 星野ヲ訪、ソノ他ノ人イヅレモ勉強シテ民心モ亦安シ

 十八日、 曇、津川ヲ発シ宝川ニテ休、 野沢ニ泊シ七村ヲ諭ス

 十九日、 雨、十四村諭ス、 発シテ気多ノ宮ニ至リ村民ヲ諭シテ柳津ニ泊ス

 二十日、 晴、柳津村人十数人ヲ集メテ説ク、 滝谷村ニテ又村人ヲ諭ス、 大登村ニ泊ス、大谷組ヲ呼寄セテ諭ス

 二十一日、 晴、五畳敷ニ宿シテ隣村ヲ諭ス

 二十二日、 荒湯ヲ発シ明リ屋村ニテ九村諭シ、 胃村ニ宿ス、二十村諭ス

 二十三日、 晴、東尾岐ニ至リ諭ス、数村集ル、 高田村ニ宿シテ組村々ヲ諭ス ○此地上田ナルガ故ニ租税頗高ク里人苧ヲ作テソノ不足ヲ補フ、是ヲ以テ旧会ノ頃モ肥代ハ貸下ケ候由、故ニ去年モ願出御聞届相成リ、今年モ願出候所叶ハストノ事トテ難渋ノ容子

 二十四日、 晴、八・九村ヲ諭シテ本郷ニテ又諭シ、上荒井・中荒井ニテ諭シテ帰ル


(注) 本史料は、「若松県奉職中巡察日記」という表題が付され、流通経済大学『祭魚洞文庫』の「五色石」(合本一〇一冊)のなかに収録されている。   





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