○ 平将門 祭神から追われた英雄
( 出典 : 平成22年5月22日(土) 朝日新聞(夕刊) はみ出し 歴史ファイル )
1874( 明治7 )年秋、東京市民に衝撃が走った。 山王( さんのう )権現と並び江戸っ子の氏神として崇( あが )められていた神田明神( かんだみょうじん )の祭神から平将門( たいらのまさかど )の霊が除かれたのだ。 天皇が板橋の練兵場から宮城( きゅうじょう )への還幸途中に神田明神へ参詣( さんけい )することが決まったのが事の発端だった。
平将門は10世紀前半、関東で蜂起して新皇( しんのう )と称し、朝廷として討たれた人物だ。 逆賊とされた将門が東国の英雄として江戸っ子の同情と尊敬の念を得るようになったのは、徳川幕府の開設によるもので朝廷も将門の罪を免じた。 神田明神は幕府の保護を得て江戸の総鎮守とされ、江戸の北東部の市民は神田明神の、南西部は日枝山王神社の氏子という形になっていった。
こういうとき、明治天皇が神田明神に参詣するとなれば天皇が逆賊に頭を下げることになる。 教部省はあわてて将門の霊を本殿から外し、摂社の将門神社を設けることにした。 これが氏子たちの強い反発を呼ぶことになった。
明治政府は神田明神の本殿には旧来の大己貴神( おおなむちのかみ )( 大国主神 )に加えて国土開発の協力者少彦名神( すくなひこなのかみ )を祀( まつ )ることにし、将門受難の時代が始まった。 政府は歴史教育においても将門逆賊史観を広め、大正〜昭和期の「 尋常小学国史 」からはついに将門の名が消えた。
将門の神霊が再び本殿へ戻ったのは大正末期の関東大震災で神社が罹災( りさい )したときである。 総朱塗りの新しい本殿が完成したのは1934( 昭和9 )年で、東京大空襲にも耐え抜いた。 神田明神の祭神が一の宮大己貴、二の宮彦名、三の宮将門と定まったのは、1984年( 昭和59 )年である。( 歴史研究家・野呂肖生 )
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