○ 真珠湾が教えるもの ( 出典 : 平成23年12月8日 朝日新聞 ―「インタビュー」― 東京大学教授 加藤陽子 )
外務省や国民にも米への強い不満 中国で今似た空気
思惑ずれた日米 対立を解くには豊かな歴史観必要
日本の運命を変えた1941年12月8日からちょうど70年。 あの戦争はなぜ起きたのか。 「 軍部の暴走 」がすべてだったのか。 避けることはできなかったのか。 開戦の経緯からして私たちは何を学ぶべきなのか。 歴史学者として「 日本人と戦争 」を問い続けてきた東京大学の加藤陽子さんに聞いた。
(注) 加藤陽子さん ; 60年生まれ。 専門は日本近代史。 著書に「 それでも、日本人は『戦争』を選んだ 」など。 朝日新聞「 ニッポン前へ委員会 」委員も務める。
――日米開戦の真相について、新しい見方は出てきていますか。
「 これまで戦争回避に努めた側に焦点が当てられてきたのですが、近年、軍部以外で開戦に積極的だった勢力の対米観が新資料から明らかになりました。 41年の日米交渉を担当した外務省の亜米利加(アメリカ)局の課長らがむしろ強硬で、『 交渉は屈服だ 』と考えた。 また、国際法を担当する条約局などは、開戦する場合、無通告開戦の選択肢も準備していました 」
「 国際合意として、自国を守るための自衛戦争であれば最後通牒(つうちょう)などによる開戦通告は不要とされていました。 仏領インドシナに日本が進駐したことで、米国は対日経済封鎖を断行した。 軍部や外務省内の強硬派などは、この措置を、戦争行為とみなし得ると考えるわけです。 」
――なぜそこまで米国を敵視していたのでしょうか。
「 37年から続く日中戦争への米国のスタンスが問題とされました。 普通の国民から国際法の専門家まで、『アメリカはずるい』との感情を抱いた。 米国は41年3月に武器貸与法を作りました。 合衆国防衛に必要だと認められる国、英国や中国やソ連に武器の貸与や無償譲渡を行う法律です。 自らは参戦せず中立と言いながら、一方に与(くみ)してよいのか。 という批判です。 」
――米国の意図はどこにあったのでしょう。
「 武器貸与法が成立した時、ジャクソン司法長官は、米国が中立のルールを無視してよい理由を次のような言葉で説明しています。 『日本やドイツが行っている侵略戦争は国際共同体に対する内乱である。 よってアメリカは中立に伴う義務を無視できる。』 犯罪だから、戦争に関するルールを守る必要も、必ずしも宣戦布告する必要もないという理屈です 」
「 これは、9・11後の対テロ戦争で、アルカイダに対する態度と同じです。 現に米国は、アフガニスタンにも、イラクにも宣戦布告していませんね。 41年に日本やドイツに対して示した姿勢が、その後の米国の行動様式お規定したように思います 」
――その姿勢が外務省を反米に向かわせたと。
「 米国は国際連盟に加わらないまま、欧州や極東に秩序を形成しようと図ります。 しかし世界恐慌となると、国内産業を守るためとして関税を一気に引き上げ、国際社会に打撃を与えました。 一方、日本も、武力で極東のルールを変更したのですから、日米は似ています 」
「 当時の軍部や外務省の感覚では『日中戦争が長引き、結果的に多くの犠牲者が出ているのはアメリカのせいだ』という意識がありました。 本来は早期に決着のつくはずの戦争が終わらないのは、米国と英国が中国を援助しているからだ、と見ている。 手前勝手な論理ですが、対米強硬派にとっては、経済封鎖から真珠湾攻撃までは地続きの一本道に見えていたかもしれません 」
* * *
――歴史修正主義者といわれる人たちは、米国が日本を挑発し、開戦に追い込んだと主張しています。
「 それは違います。 37年の日中戦争勃発当時、米国政府、特に財務省や国務省は『日本には戦争を続ける能力がない。 交渉で強く圧迫すれば日本は屈服するはずだ』と考えていました。 国務省の極東担当の顧問だったホーンベックは41年11月の時点で『日本は8割方屈服する。 日米開戦はない』と踏んでいました。 だから絶対妥協しようといなかった 」
「 一方で、東条英機内閣の外相だった東郷茂徳は、日米交渉が成功する可能性は1割しかないと考えていた。 東条首相はもう少し甘くて、交渉成功の見込みは3割とみていましたが。 戦争回避の可能性は1〜3割しかないという日本と、8割避けられると思っていた米国の見方が決定的にずれていました 」
――なぜずれたのですか。
「 米国財務省などは、日本の経済力を過小評価していました。 実際には、日本は対米戦に備え財政的にも準備を進めていた。 日中戦争以降、軍事費を特別会計とし、戦費の3割を中国に、7割を対英米、対ソ戦に向けて残しておいた。 米国も戦争の抑止に失敗したといえます 」
――戦費を準備していたということは、日本は最初から開戦する気だったのでは。
「 すでに23年の時点で、開戦の計画は日米双方にありました。 どちらも、中国の経済支配をめぐる日米対立が原因で戦争が起こり、その戦争は日本の奇襲で始まり、米国の対日侵略がそれに続く、という想定です。 ということは、逆に、中国問題以外での日米対立はなかったともいえるのです。 東郷外相は、中国問題を交渉項目から抜くことで軍部を説得し妥協案を作りました。 11月26日に中国と仏領インドシナからの即時撤兵を求めるハル国務長官の文書『ハル・ノート』に接し、東郷が『暗澹(あんたん)たる気持ちになった』と言ったのは大げさではないと思います。 」
――ハル・ノートで日米開戦は決定的になったといわれています。
「 実はハル・ノートの冒頭には、『一時的にして拘束力なし』との文言がありまいた。 必ずしも最後通牒とは言えません。 戦争は違法だという考え方が浸透した時代ですから、それは避けたいはずです。 ルーズベルト大統領も現地時間12月6日午後9時に、昭和天皇に平和的解決を呼びかける親書電報を出します。 日本側の交渉打ち切りの暗号電文の解読が大統領に届いたのはその30分後ですから、分かっていて親電を出したわけではありません」
「 しかし、英米側が極東基地の防備などに時間をかけられないうちに、また、石油備蓄が最多の時に開戦すべきだとする軍部は、ハル・ノートを『天佑(てんゆう)』ととらえます。 米国の強硬姿勢を口実に、開戦に持ち込めると踏んだからでした 」
* * *
――最終的に開戦の決定を主導したのは誰だったのでしょう。
「 形としては大本営政府連絡会議と閣議決定によって開戦が決定されたので、軍と内閣双方の一致がありました。 しかし、意思決定に至る状況判断において、軍と文官では情報に大きな非対称性があったと思います。 東郷外相でさえ、開戦が12月8日で攻撃地点は真珠湾とマレー半島だ、と12月1日まで知らせれていませんでした。 陸海軍はグルー米国大使がワシントンへ送った電報をはじめ、あらゆる暗号を解読していましたが、軍に不利になる情報は統帥事項として内閣に上げなかった。 この点、日清、日露といった過去の戦争が伊藤博文などの元老の指導下になされたのとは対照的です 」
――専門家が知識を独占していた点では、原発推進の過程と似ているような気がします。
「 どちらも専門家が無謬(むびゅう)性の神話にとらわれ、外部の批判を許さない点で共通しています。 軍部は、日露戦争の戦勝を神話化し、自国軍の能力を客観視する目や、欠陥を指摘する人々を排除していきました。 原発も安全神話ゆえに、最悪の場合の想定を行わなかったのでしょう 」
* * *
――多くの国民が開戦を明るく受け止めたことを指摘していますね。
「 目的の見えない中国との戦争と違い、開戦後3日間で英米の戦艦10隻を沈めた事実などが大きいでしょう。 日本人にとって戦争とは、勝利することで不平等条約状態から脱出を図れたという、力のリアリズムとしてプラスに理解されてきたはずです。 屈辱を強いられてきた日本が、武力によって国際環境を自国に有利に切り開く、このような自己イメージだったのではないでしょうか 」
「 30,40年代の日本の空気は、いまの中国に似ているように思います。 中国は、環境・資源・貿易・資本のルールを押し付けてくる米国にいらだっている。 自分たちのやり方ではなぜダメなのか、軍備を増強するとなぜ非難されるのか、と不満をもっているはずです 」
――戦争回避の失敗から、現在の日本は何を学ぶべきでしょうか。
「 日本は、背負ってきた近代そのもの、明治以来の歴史全体を否定されたと考えて対米戦争に踏み切りました。 原理的な対立が起きた時、どこまで退却しうるか、大正デモクラシー期に戻るか、など具体的な歴史イメージを豊かに持っておくことが大切でした。 そうしたイメージを持てない今の日本社会の状況が、昔のこの時代に似ていて心配です 」
取材を終えて
ネットには「 真珠湾攻撃は謀略だった 」という説があふれている。 真犯人は米国。 陰謀説はいつも単純明快だ。 だが歴史家の話は逆だ。 次々と人名が登場し、史料が引用され、細部に入り込む。 検証に検証を重ねて、やっと事実が浮かび上がる。 歴史に向き合うには、単純化の誘惑を退け、入り組んだ道を辛抱強くたどるしかないのだろう。 (尾沢智史)