向板捨吉苦難之旅路

三之章 〜宵の口〜

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往くほどに、重春村と謂うところに行き着いた。織物が盛んらしく、あちらこちらの小屋から、調子のよい機おとが響いている。軒に掛けられた糸束からは、ほのかに先染めの鑞の匂いがしている。それらの、めづらしい景色に目を奪われていたためか、またもや宿も決まらぬうちに、はや日も暮れなんとしていた。

宵に入り、なんとか旅籠の並ぶ界隈に差しかかったと見るや。

ガタン。ガタバタンッ。

激しい音と共に、傍らの木戸が荒々しく開き、中から下帯一枚という格好で、男が一人転がり出てきた。あまりのことに、捨て吉は思わず足を止めた。

「うちは五分テラの優良店なんだよ!今度うだうだぬかしやがったら、てめぇの口に戸を立て掛けるぞ」

 声は、目の前で腰を抜かさんばかりに震えている男に向けて発せられたようである。
 捨て吉は、何となく想像が付きつつも、ゆっくりと視線を戸口の方へと移動させてみた。案の定、そこには、いかにもな人相の男が二人、今はさらに怒りの表情を浮かべてこちらを見ている。戸口の奥に腕をかけて、顔だけでこちらを窺っている男と、もう一人、こちらは完全に通りの側に出てきている。

事情は分からなかったが、今の時点で、はっきりしていることが一つだけあった。

この場の誰とも目を合わせてはいけない。

捨て吉はこわもてのお兄さんの、四つもある視線を、苦労して避け、速やかにこの場を離れようとした。が、機はすでに、わずかの差で遅きに失していた。

悪人面のお兄さん達の視線をすべてかわし、喜んだのもつかの間、今度は道にへたり込んでいる男の方と、目が合ってしまったのだ。
 
 その体勢のままにじり寄られ、がっちりと手足を掴まれる。

「助けてください!」

 賭場は、宿屋の一階にあった。初夏でも閉め切られたままの室内は、人々の熱気が渦巻いて、まるで外とは隔絶された世界を作っている。

その中で壺を振っていた桔梗は、ちょっと珍しい光景を目にして、表情には出さずに驚いた。ついさっき、文無しになってつまみ出された男が、見慣れない旅の若者の、後ろに隠れるようにして戻ってきたのである。

目の前の場は、新たな打ち手の参加によって、賭け直しになっている。

桔梗は鉄火場全体を目だけでざっと見渡してみる。壺振りと同じ側にいるのが「半」に張った者、対面に移動したのが、「丁」に張った客である。

香具師の秀さんは、ここ三回ほど負け続きだから、そろそろ勝たせてあげた方がいいかもしれない。飾り職人の洋さんは、最近大きな注文を取り付けたそうだから、今日くらい負けても、きっとまた来てくれるだろう。大工の泉吉さんは?。今日負けたら、ちょっと厳しいかもしれない。そこまで考えたところで、「駒が揃いました」のかけ声が掛かった。

泉吉をまず勝たせて後半のツキを秀さんに回し、勝負所でちょくちょく洋さんに負けてもらおう。例の旅人は、最初の数回だけ勝たせて、後は順次負けて貰うのがいいだろう。

桔梗は、いつものように、ざっと勝負の流れをまとめあげた。

「勝負」の声と共に、壺ざるが開かれた。

ござの上のの目は二と四。「丁」である。

対面では、先ほどの旅の若者が配当の札を手に、満面の笑顔を浮かべている。その若者は、以降、勝とうが負けようがお構いなしで、勝負の度に、きっちり一枚ずつ、札を賭け続けた。
 旅人の、妙に挑戦的な目が気になる。丁半博打に「親」など存在しないのだが、勝負の度にこちらを窺って、自分の勝利を誇ったり、悔しげに床を叩いたり。まるで桔梗自身と勝負をしているようなのだ。

なんだろう。

そして、何度目かの勝負の後、桔梗がふと目を上げると、それまで旅人の後ろに隠れるようにしていた下帯の男が、その勝ち札を持って、そっと自分の荷物を請け出しに行くのが見えた。その男と、行きずりの旅人との間に、どんな約束が交わされたのかは分からない。しかしあの男は、もう二度とここには戻らないだろう。そう考えると、目の前の旅人は、少し気の毒に思える。

一刻ほどして、勝負は休憩に入り、桔梗が帳場の奥へ引き上げる途中、裏口を見遣ると、旅の若者が、ちょうど一刻前と同じようにして、くぐり戸からつまみ出されているところだった。

「うちの連中って、ほんま文無しに容赦ないよなぁ」

桔梗は声に出さずに呟くと、そのまま帳場へと足を向けた。
帳場では、町人風の男が、証文に判を押して、いくらかの金子を受け取っていた。

桔梗は、男が腰を低くして立ち去るのを待って、ここ、芝浦屋を取り仕切る親分に声を掛けた。

「ちょっと。さっきのって魚屋の源さんやろ。証文に二分って見えたけど、あの貧乏長屋に、二分も借りれるような形代が、よう有ったなあ」

 桔梗の意外そうな声に、親分さんは黙って紺布の包みを開いて見せた。出てきたのは、房と花飾りの美しい、銀かんざしである。

「うわっ。嫌な感じやなあ。源さんって、確か祝言挙げたばっかりのはずやろ。それって絶対奥さんの嫁入り道具やで」

「ははぁ。おまえに嫌われちゃあ源造も終わりだな」

 親分さんは気の毒げに顔を歪ませながら、包みを箱に戻した。
 帳場の格子に凭れて、桔梗は紅い巾着の口を開く。中身は両手にいっぱいほどの銭で、ところどころ豆板銀や二朱銀が混ざっていた。

「何度数えたって変わりゃしねーぜ」

 一家の親分が、煙草盆から煙管に火を移しながら声を掛ける。

「イヤイヤ。昨日のうちにどっと増えとるかもしれへん。」

 桔梗は膝の上に、巾着の中身をそっと広げた。

「花火が八日やから?今日も入れてあと三回は賭場が開くやろ。入りが一回に500文として?。なんや。残り四朱やったら、ぜんぜん余裕やん」

「今で一分と十二朱ほどか?よせよせ。花火なんかに使っちまうのは。それだけありゃあ、おめぇ夏中あんみつとところてんがお八つにつくぜ」

後ろからちょっと覗いて、親分はからかうように言った。
しかし桔梗は気にする様子も見せない。チャラチャラと音をさせながら、着物の上の銭を巾着に戻し始める。

「それは聞かれへんな。これは花火のためにこつこつ貯めてきたんやもん。ええ船借りて、白玉でも買うて、杉原川の上で花火見るんや。最高やで。親分さんも一緒する?」

「冗談じゃねぇ。あんなもの、岸から見たらタダじゃねぇか。どうせ当日はそっちに客を取られて、商売にゃならねぇんだ。俺はここで呑みながら音でも聞いてるさ」

 親分は、大して興味もなさそうに答えると、紫煙をふぅーっと吐き出した。
 桔梗は巾着の紐を丁寧に結び終えると、聞き捨てならないとばかりに親分に向きなおる。

「ちっちっち、やで。分かってへんなあ。花火は真下で見るから円いんや。音かって、肌にぴりぴりっとくるのんが、ええんやんか。そんなん、ここから聞いとったかて、なんもおもろいことあらへん」

「そんなもんかね」

「そうや。それに、事前情報によると、最後に上がる尺玉は、播磨屋の旦那さんが、文吉親方んとこに、注文したった新作らしいんや。曲付きも上がるゆうし、ほんま楽しみやわー」

 そのとき、奥の広間から、ひときわ大きな歓声と、落胆のため息が起きた。

「そら。伊佐治の場がそろそろ終わるぞ。花火に行きたきゃ、さくさく働け」

 ちょっと首を傾けて奥の間を見た親分に急かされて、桔梗は仕方なさそうに立ち上がった。
 喧噪と熱気に包まれた奥の間から、大勢の人が吐き出されてくる。換金を求める帰り客と、もう一勝負掛けようと形代を差し出す者とで、帳場はたちまち活気づく。

 途中桔梗は、戸口へと向かう人波に、知った顔を見つけて声を掛けた。

「あれ。長さんもう仕舞いなん?負けたまんま帰ったんじゃぁ、男がすたるってもんやで。次はあたしが振るし、よかったらもう一勝負掛けて帰らへん?」

「すまねえ桔梗ねぇさん。そうしたいのは山々なんだが、軍資金切れだ。今日はこのまま帰らせて貰うよ。」

「なんや残念。懐暖ったら、また顔見せてや」足を止めずに、苦笑いで後ろ手を振る男の背中に声を掛けつつ、桔梗は仕事場に向かった。