向板捨吉苦難之旅路

六之章 〜絵師 其之弐〜

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 着いたところは、低く垂れ込めた霧が、足下を隠すほどの高地で、しかも断崖絶壁だった。

「ではでは早速。そこに立ってみて」

そう言って茜華が指さしたのは、なんと崖から水平に伸びた松の幹の、先端だった。

「無理です」

 捨て吉は間髪入れずに断った。あまりにも危険すぎる。
しかし茜華は聞いていなかった。

「えっと。あそこで傘をもって、こう、片足を上げてみて欲しいんだけれど」

 手真似、足真似を交えて言ってくるが。

「死にます」

 捨て吉ももちろん承知するわけにはいかない。

「えぇー」

 茜華が不服そうに口をとがらせるが、僕の親切もここまでと、捨て吉は無視し続けた。
と、和菜が捨て吉の周りをくるくると回って、彼の体に縄を巻き付けている。そしてもう一方の端を、崖の上の樹に回し終わると振り向いた。

「ほらっ。命綱もあるしっ」

 言われて捨て吉は青くなった。いつの間にか女主人の機嫌が直っている。

「茜華さまは有名な絵師でねぇ。ありのままを描きたいと仰有るのだけど、それもなくって、とってもお困りなのだよ。だから、是非是非協力して欲しいのです」

 和菜に頼まれて、結局捨て吉は、不承不承ながら頷いてしまった。もっとも、縄につながれた身で、選択の余地があったとすれば、の話ではあるが。
千尋の谷を踏んで立つ捨て吉を見て、絵師はふむふむと筆を走らせる。

「すごいすごい。さすがは和菜の見立てだねぇ」

「ですねー。でもちょっと動きが怪しいですよぉ」

 勝手なことを言われながら、着物を替えたり扇子を持ったりして立たされていると、

「にゃおにゃお。うにゃーん」

 和菜の焦ったような声がする。声の方を見てみると、解けかけた命綱の先を持ったまま和菜が引きずられていくところだった。
 この時ばかりは茜華も慌てて助けに入った。
 その後の捨て吉も散々であった。ともかくも命が無事に済んだのは、ひとえに丈夫な綱のお陰と言うほか無いだろう。
 こんな屋敷に泊まったのでは、命がいくつ有っても足りないと思ったが、あいにく生憎この山中に人家はこの一軒しかなく、すでに日は暮れてしまっていた。
翌朝起き出してみると、もうすでに和菜が朝食の準備を始めていた。釜の内からは、米の炊ける音がクツクツと聞こえている。
 捨て吉は、台所に下りて、手伝いを申し出た。

「えぇー。いいのぉ。ありがとぉ。

えへへ。茜華さまは、お菜好みをなさらないから、作り甲斐があるんだよぉ」

 それから二人で菜園へ適当な青菜を摘みに出て、台所でとんとんやっていると、お勝手から弟の菜緒が入ってきた。手には山女の入った魚篭と、平茸の籠を持っている。

「平茸は汁物にしたらどうかなあ」

 捨て吉は提案してみる。
清々しい空気が満ち、明るい朝日が射し込む台所は、懐かしい末尋屋の厨房に、少し似ていた。


 昼前になって、茜華はようやく起き出してきた。

「みんな注目ー!さて、今日はなんの日でしょう!」

 茜華は、起きてくるなり、かなりの元気さで活動を始める。

「八月十五日、ですね」

「中秋の名月、ですか」

「その通り!と言うわけで、観月の宴を開きましょう」

 姉弟は慣れているのか、全く動じずに相手をしている。しかも、自分もすでに、あまり驚いていない。

「ではでは、まずお団子の用意をしなくてはっ。ですねっ」

 和菜がうきうきと立ち上がる。

「いやいや。まずは明るいうちに薄を取りに行かないと」

 茜華もいそいそと支度に掛かろうとする。
そこへ菜緒が来て、朝食の膳を据えた。

「まずは、茜華さまの朝餉です。お昼までには片づけてしまってくださいね」

 それから茜華が長い朝食を終えるまでに、三人はあれこれと雑事をこなした。
少年が、石臼を持ち出してきて、団子粉を挽く準備をしていたので、捨て吉はそれを手伝うことにした。和菜と茜華はこれから薄取りである。

「あなたも一緒にお出かけになってはどうですか」

 菜緒に勧められて捨て吉は首を振った。

「君一人でしょう。手伝うよ」

「有り難いお申し出ですが、ここに二人居ても、大して変わりはありませんし。それよりも一緒に行って、日暮れまでにあのお二人を連れ帰っていただけると助かります。なにせあの人達はお二人でお出しすると、お戻りが何時になるやら分かりはしませんから」

 少年に頼まれて、捨て吉は二人の後を追った。薄を取りに来たはずの二人は、全く関係のない山の中で、全く関係のない草を取っていた。

「何をしてるんですか」

 捨て吉が聞いてみると、茜華は籠の底を傾けた。

「紫を見つけたのよ。明日はこれで手ぬぐいを染めてみよう」

「薄はどうなったんですか」

「帰りに取って帰るよ」

 二人は棒きれで丁寧に根を掘り返すと、もう一株の紫を籠に入れた。
早く帰ろうなどとは、露ほども考えていないらしい。捨て吉は少年の言葉を理解した。そして非常な同情の念を以て、少年の心中を思いやった。
 捨て吉は、折を見ては二人に団子のことなどを話し、少年の苦労について説き、今晩の宴など思い出させながら、漸くのことで、二人を日暮れ前に屋敷に連れ戻ることが出来た。
 その夜。山の端に月が懸かり、和菜と菜緒は部屋の御簾を巻き上げた。三方に団子を盛り、薄を飾る。
部屋の内より月を眺め、和菜の琴、菜緒の笛を聴きながら酒を飲み、耳香、双六など、道具を取り散らして遊んだ。
 紫檀に金蒔の萩、薄、菊、桔梗等が描かれた差札、黒檀の台盤、象牙の駒。初めて目にする道具の数々に、捨て吉は目を丸くする。

「なになに、これ。耳香ってなんですか?それに、双六も僕が知ってるのと、何かちょっと違う気がするんですけど」

「簡単だよぉ」

 和菜は、捨て吉から手元が見えないように後ろを向くと、小箱に小豆を五粒入れた。向きなおって捨て吉にその箱を差し出す。

「耳元で振ってみて。?はい。中の小豆は幾つでしょう?」

 捨て吉が小箱を振ると、かりかりと豆が木肌を転がる音がした。

「えっと。この札は何時使うんですか」

「今、答えるときにね。ちょっ、ちょっとそれ貸してみて。萩を出すときはね?」

 月は中天を過ぎて、秋の夜長に遊びは尽きることなく続くのだった。
 
   --- 涼風蕭々として薄を揺らし
              月影皓々として秋庭を照らす ---

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