向板捨吉苦難之旅路

六之章 〜絵師 其之四〜

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 翌朝。捨て吉は、お昼を過ぎても起きてこない茜華の部屋に、食事を運ぶように頼まれた。しかし、行ってみると、部屋には誰もいなかったのである。台所に戻ってその事を告げると、姉弟は拍手喝采して捨て吉を迎えた。

「すごぉい」

「やりますね。一体どうやったんです」

 二人の喜びように、全くついていけない。

「えっ。なにが?どういうことなの」

「だからぁ。お部屋に誰も居なかったんでしょう?それって、茜華さまがお仕事を始められたって事なんだよねっ。あのお部屋も、実は見せかけだし」

 和菜が嬉しそうに話しながらお茶の用意を始める。

「つまり、本当の仕事場は、実はあの部屋の天井裏にあるんですよ。あそこに籠もられると、もう完成まで下りてこられないから。気長に待ちましょう。まあ、お膳はその辺に置いて、取り敢えず、お茶にしますか」

 台所への上がり口に捨て吉を座らせて、菜緒は戸棚から月餅を取り出した。床に盆を置いて姉弟も腰掛け、一息つく。

「御師さまは、仕事が進むにつれて衝立の数が増えていくんですよ。それでどんどん部屋を狭くなさるから、最後には部屋を区切りすぎて、壁際の一畳半まで追いつめられていらした事もあるんですよ」

 いつもより少しだけ饒舌に菜緒が話す。

「そういえばここって、絵師の家の割には、あまり絵とか飾ってないよねぇ」

 捨て吉のもっともな疑問に和菜は少し誇らしげに答えた。

「ここに住んでいる限り、ここから見える景色はみんな茜華さまのものだから。茜華さまが画をお描きになるのは、この景色を他の人にも分けて差し上げるためなんですって。ここにはもう本物があるから、画は必要ないんだよぉ」

 画にも勝る景色の中、束の間訪れた休息の時は、ゆったりと過ぎていった。


 それから三日後。おなかを空かせた茜華が上から降りてきた。

「出来たよ。葛西さまに連絡して。それから和菜ちゃん、ご飯お願い」

 言ってそのまま床に座り込む。
 そうして食事も一段落ついた頃、連絡を受けた注文主が画を受け取りにやってきた。
完成したばかりの絵を茜華が広げて、それは幽玄で、静謐な一幅の山水画であった。
それを見てしまった捨て吉は、激しい衝撃を受ける。その画は素晴らしいけれど、自分が断崖絶壁でやらされた曲芸や、滝流れは、一体どの辺に生かされていると言うのだろう。

「非道い」

 捨て吉はうなだれてガックリと手を付いた。
注文主は、非の打ち所のないその画に、惜しみない讃辞と二包みの小判を残していった。
その夜。茜華屋敷からは、十三夜のお月見に興じる住人の賑やかな声が、夜更けまで絶えることがなかったという。

   天空に飛雲流れ 麓の鐘声山上に至る 白水は西壁を巡り 青雲は東壁を遶る
          時に旅人の仙境に迷い 一炊の夢 
   山中の秘居 朱桟玉廉の内 古来より人の三友たる 琴・詩・酒 すべてあり
   香霧晴れて里の外 秋風が稲穂に漣をたて 雁渡りの影の過ぐるを見る
          秋興は 真実 尽くるを知らざるなり

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