向板捨吉苦難之旅路

七之章 〜除夜〜

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 年の瀬を控えた大坂、末尋屋。御店の喧噪をよそに、離れでは店の主人が、縁側の柱に肩と頭をもたせかけて、うとうとと小さな寝息を立てていた。その膝の上で白地に薄茶の斑猫が、同じように規則正しい寝息を漏らしている。

 廊下の向こうからやってくる足音に、初めに気付いたのは猫の方だった。耳をぴくぴくと動かし、面倒そうに薄目を開く。首に巻かれた、緋縮緬(ひちりめん)の首輪から下がる金の鈴が、チリリンと澄んだ音色を響かせた。膝の上で猫が立ち上がる気配に、主人も遅れて目を覚ます。

「先ほどはお話の途中で、済みませんでした。ちょっと表にお客様がありましたもので」

 言いながらこちらにやってきたのは、この店の女将である。女将が表座敷に座るのを見て、主人は目の前の中庭に下りた。そこには、すでに三寸ほど雪が積もっていて、右端には更に人工的に雪を集めたような小山が出来ている。

「さっきちょっとやりかけとったんやけど、ここに築山(つきやま)を作ったらどやろ。おめでたい感じに造って、正月までそのまま置いとこうや」

「そうですねぇ。ではお正月まで溶けずに残っていたら、ここで雪見をしましょうか」

 女将が楽しそうに笑う。
 主人は羽織の袖をまくり、着物の裾を濡らしながら、しばらく雪山の形を直していたが、そのうちに満足のいく出来になったらしく、自ら築山の上に登ってみた。

「どや。なかなかこれはええ出来とちゃうかな。こっからやったら須磨の浦まで見渡せるやろ」

 自慢げに女将の方を見て、それから自分も縁側まで退いて見直してみる。

「やっぱり山の下に、橋も造った方がええかな。なぁ?」

 主人が女将に同意を求めようとしたとき、店側から女将を呼ぶ女中の声が割り込んできた。

「本当にごめんなさい。ちょっとだけ行ってきても良いかしら」

 女将は申し訳なさそうに謝ると立ち上がった。
 主人は構わんから行って来いと、いったんは手を振ったが、思い直して、手が空いたら厨房へ来てくれるようにと頼んだ。残された主人は、縁側に座り直してもう一度愛猫を呼び寄せた。しかし猫は、至極当然のこととして、主人の濡れた冷たい手よりも、暖かい陶製の火鉢の方を選んだのだった。

 女将は店に戻る途中、廊下で会った加代を呼びとめた。

「あ、加代ちゃん。忙しいところ悪いんだけど、お風呂の用意をお願いできるかしら」

「あ、はい。今すぐですか」

「ううん。もちろん手が空いてからで構わないのだけど。ただ、旦那様が風邪をひいてしまわない内に、入れるようにしておいてあげて欲しいのよ」

「ああ!はいはい、分かりました」

 得心がいったように頷いた加代は、行き過ぎようとして、思い出したように付け加えた。

「ところで、女将さんはこれからどちらへ?」

「私は、誰か呼んでたからちょっと表に顔を出して、それからお蔵の方を廻ってくるわ。あっ、と。お昼頃に木村さんがおせちを受け取りにいらっしゃることになってたんだけど、誰か聞いてくれてるかしら」

「はい。『梅』のおせちですよね」

「そう。お代は先に頂戴してあるから、お使いの方が来られたら、そのままお渡ししてね」

「はい」

 女将は加代の返事を聞くと、頼みましたよと念を押して、忙しそうに去っていった。
 料亭の年末は忙しい。普通の正月準備に加えて、年越しの仕出し、お料理の注文が立て込み、また、今年中の売掛金の回収に方々の家を廻らなくてはならないのだ。特に上得意の屋敷へは、挨拶も兼ねて女将自らが集金に出かけなければならず、余計に時間を食った。

 厨房では、おせちの調理にも一段落が付き、後は受け取りに来るのを待つばかりの、白木や塗りのお重が所狭しと並べられていた。
 料理人達が休憩に入っている間、厨房からすべての人間を追い出して、主人自らが鍋の前に立つ。
やがて用事を済ませた女将が戻ってくると、主人は待ちかまえていたように一つのお椀を女将の前に差し出した。

「旦那様がお作りになったんですか」

 普段全く料理などしない主人が、一人で作ったと聞いて、女将は少なからず驚いた顔をした。 それに主人は、自信ありげに頷く。

「ご苦労さんやったな。まあまあ。ええから、食べてみてみ。わしの手料理なんか、どこのお姫(ひぃ)さんが食べたいゆうても、そうそう食べれるもんとちゃうからな」

「あら、まあ。大層なこと」

 戸惑う女将を強引に座らせて、箸を持たせる。主人の期待に満ちた視線を受けながら、女将が椀の蓋を取ると、温かな湯気が立ち上った。
 中身は、少し炙(あぶ)った白身魚のお吸い物で、見た目はなかなかのものである。

「いい香り」

 そういってお椀に口を付けた女将は、しかしすぐに眉を寄せて首を傾げた。

「えっと…。なんのお味もしないのですけれど、これはこういうものなのかしら」

「そんなあほな!」

 女将の思いもよらない感想に、主人は慌てて味見をしてみる。確かに、なんの味もしない。強いて挙げれば、苦みを感じる程度の、僅かな塩味がするぐらいか。さきほど、心配する料理人たちを無碍(むげ)に追い出してしまった手前、非常に癪なことであるが、困った主人は、結局花板の政治を呼んだ。
 政治は厨房に入ると、流しに捨ててあった出汁殻をつまみ上げる。

「旦那さん。鰹節をこんなに厚く削っちゃいけませんぜ。それにまだ、ずいぶん固いじゃありませんか。これじゃあほとんど出汁は取れていないですね」

 主人を悔しがらせながら厨房を見回して、出しっぱなしになっていた鰹節を見つける。

「あっ。新品の枯れ節を使いましたね!まだ使いさしのがあったのに」

 政治の言葉に、主人が反論しようとしたとき、またしても店の方から女将を呼ぶ声が聞こえた。

「まあ、何かしら。ちょっとすみません」

 女将は箸を置いて立ち上がった。

「あ、旦那様。これ、このまま残して置いてくださいね。後でちゃんと全部頂きますから」

 女将はお椀に手を添えて大事そうに蓋をすると、お店の方へ早足で歩き去ってしまった。

「…おまえなんか嫌いだ」

 主人が隣に立つ政治を横目で見て、ぼそっと呟く。

「私の所為(せい)ですか?!」

「もうお年玉もやるもんか」

「そんな殺生な」

 主人の理不尽な言いように、政治はとほほと肩を落とした。

 翌日。今日は大晦日とあって、朝から店中総出で、大掃除が行われていた。
 自分の部屋の掃除を終えてしまった主人が、猫を膝に炬燵にくるまっていると、外出用の身支度をした女将が、上掛けを取りに部屋に入ってきた。

「旦那様。お昼は何かお上がりになりました?」

「ああ、うん。さっき弥太郎が饂飩(うどん)を持ってきてくれたんで、それを」

「まあ、お饂飩だけでお夕飯まで保ちます?もう少し何かお持ちしましょうか」

 心配そうに聞いてくる女将に、主人は首を横に振る。

「これからどっか用事なんやろ。わしは腹減ったら餅もあるし、なんとでもなるから、気にせんとはよ早行ってき」

 そう言って忙しい女将を送り出してしまうと、主人は膝の上の猫を抱き上げた。

「捨て吉がおらんと、わしもお前も、誰も相手してくれる者がおらへんなあ」

 突然炬燵から出された猫は、寒がって暴れ、すぐに膝の上に戻ってしまう。
 主人は膝の上の猫を落とさないように気をつけながら、壁際まで移動し、其処に立てかけられた愛用の三味線を手に取った。先住権を主張する猫に邪険にされながら、流行の小唄など、二、三爪弾く。
 そうしていると、今度は廊下を女中の加代が通りかかった。

「旦那さん。弥太郎から饂飩受け取られました?」

「ああ。ちゃんと貰うたで」

「ならいいんです。そう言えば昨日、女将さんにお吸い物を作って差し上げたんですってね」

 付け足しのような言葉に、主人は身を乗り出す。

「ちょっ、ちょお自分。なんでそんなこと知っとんねん」

 主人の過剰な反応に、加代は少し後退る。

「なんでって、女将さんがご自分でそうおっしゃってたんですよ。お姫さんでもよう口にしてないものを頂きましたって」

「えっ、えっ。ほんまに?ほんで、他には何かゆうてなかったか」

「いえ、別に、特には何も。ただ、おいしゅうございましたって、それだけですけど。それがどうかしたんですか?」

 不審そうに訊いてくる加代を手で制して、主人はただうんうんと頷いた。

「いやいや。ええんや。そうかそうか」

 そのうちに、店の者が部屋の前で、縁側に障子を立てかけて紙を貼り替えだしたので、主人はそれを手伝った。

「旦那さん、障子張り替えるの上手いですねえ。手つきからして違いますよ」

「そうか?まあ、昔からこういうのは得意な方やったけどな。よし。次はどこや。残りも全部わしがやったるわ」

 褒められて気をよくした主人は、残り全部を張り替えていった。

「お参りゆうて、いつ何時ぐらいに出るつもりや」

 夕方、部屋で女将のい煎れてくれたお茶を飲みながら、主人は訊ねた。彼らは毎年初詣には、子の刻ちょうどに住吉大社にお参りするのを習わしとしているのだ。
女将はあごに手を添えて、しばらく思案している様子だったが、やがて口を開いた。

「少し早めですけれど、亥の刻過ぎに出ましょうか。今年は住吉さんの他に、もう一つ参らねばならないところがありますし」

「なんや、水天宮か?」

「違いますよ。お稲荷さまに、捨て吉の道中の無事をお願いに上がるんじゃありませんか」

「ああ、そっちの話しかいな。まあええわ。ほな、行くようになったら呼びに来てや」

 亥の刻までにはまだ大分間がある。女将は刻限までにもう一仕事片づけてしまおうと立ち上がった。

「ここにお着物、お出ししておきますから。あとお願いしますね」

 しばらくして部屋に戻った女将は、主人が羽二重の羽織に白の襟巻きを巻いて、裸足で箪笥の抽斗(ひきだし)を覗いているのを見て驚いた。

「何をなさってるんです?何か足りないものでもございましたかしら」

「いや。ちょっと足袋がな。こんなペラいのやのうて、もうちょっと厚手のがあったやろ。そっち出して呉れへんか」

「今出したのが一番厚手のものですよ」

 女将は、主人が捜し物のために放り出した抽斗の中身を拾い集める。

「いや、去年確か、履いとったと思うねんけど」

 主人はまた次の抽斗を開ける。

「私は知りませんよ。それに、少なくとも去年はこれを気に入って履いておいででした」

 女将は自分で出しておいた方の足袋をもう一度主人の前に揃えた。

「そうやったかなあ。いや、これともう一つ別のがあった気ぃするんやけど」

 それを見ながら、まだしき頻りに首をひねる主人に、女将はため息を付きつつ、裾を払って立ち上がった。

「そんなに仰有るんでしたら、奥の押入も見てきましょうか?」

「うん…いや。まぁええわ、これで」

 女将の機嫌がそろそろ傾きそうな気配に、主人は仕方なくこの話題を終わらせた。

 夜になって、店の料理人達は、連れだって床屋に出かけた。店の厨房は掃き清められ、表には軒提灯がかけられる。
 二人は、予定通り亥の刻過ぎに家を出た。裏木戸をくぐった女将は、主人の差しかける傘に入る。雪が音もなく降り積もり、それが周りの音までも吸い取っていくようだった。
 真っ暗な闇の中で、主人の持つ下げ提灯の明かりだけが、導(しるべ)となる。途中、あたりの寺からそれぞれに、近く、遠く、除夜の鐘が響き始めた。
 住吉大社で商売繁盛を祈念し、お札を貰って少し離れた稲荷社へ廻る。お揚げを納めて捨て吉の旅の安全をお願いし、長い石段を下りる。

「随分長いこと、お願いしよったな。御店のことより長かったんやないか」

 半歩先を歩く主人が後ろの女将を目の端に映す。

「そんなことありませんよ」

 女将は否定したが、

「ふーん。まっ、ええんやけどな」

 主人は笑って天を仰ぎ、その言葉は冷たく冴えた冬の空気に、優しくし沁み透っていった。

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