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| その夜。円山川のほとり、枯れ柳の下に店を出していた二八そば屋で、捨て吉は静馬に蕎麦を奢っていた。 夕方に束の間降った雪の残りが、柳の枝からぱらぱらと零れ落ちる。 「おねえさん、すいませんけど、お酒を二合つけてもらえますか」 捨て吉が注文すると、静馬が何か言いたそうに顔を上げる。 「今日のお八つは、僕が奢る約束でしょう」 捨て吉が笑うと、静馬は微妙な苦笑いを浮かべた。 捨て吉は、ちょっと粋をやったつもりでいたのだが、ひょっとすると、本物の甘い菓子の方がよかったのかも知れない。 ともかくも、その夜は何本かお銚子を追加して夜更けまで呑んだ。 翌朝。少し遅めに起き出した二人が朝食を摂っていると、 「静馬さま。いま灰買いが来てるんで、ついでに持っていってあげましょうか」 元気な声とともに、同じ長屋の娘さんが、目の細かいざるを持って入ってきた。 竈の灰は、貧乏人にとって貴重な現金収入源である。集められた灰は、金属の精製、染め物の固定、焼き物の灰釉など、どこでも重宝がられた。 娘さんは、静馬が礼を述べるより早く、竈に走り寄り、脇によけてあった灰をざるに盛っていく。捨て吉もそれを手伝った。静馬も手伝おうとして、土間に下りてきたようだが、全く間に合ってはいなかった。 そのうち娘が戻ってきて、数枚の四文銭を置いて行くまで、静馬はたたきでうろうろしていた。 座に戻って食事を続けようとした捨て吉は、竈の、先ほどとは反対の側に、さっき持っていったよりもまだ大きい様子の灰の山があるのを見つけた。静馬にその事を告げると、「それはまあ、いいんだ」と言って、棒きれでぎゅうぎゅうと、更に壁際へと押し込んでしまった。 察するに、もう一山あることを告げようとしたが間に合わず、更に今日明日のうちにまたあの娘が来て、きれいにしたはずの竈に大量の灰があるのを見られたり、またその事が言い出せなかったことがばれるのが嫌なのだろう。そしてあの灰の山は、次の機会にも必ずや取り残されるだろう事を捨て吉は確信した。…ていうか、見ただけでここまで浪人の心が読めるようになってしまった自分は、かなりマズいのではなかろうか。 食べ終わって、二人して井戸端で茶碗を洗っていると、通りの方からあわただしい足音が聞こえた。なんだろうと見ていると、胴着姿の若者が、息せき切って静馬の部屋に飛び込むところだった。立ち上がる静馬。相手も、すぐに部屋が無人であることに気付き、飛び出してきて静馬を見つけた。 「静馬さん。朝早くに申し訳ありません。仕事、なんですけど、お願いできますか?」 静馬は、膝に手をついて肩で息をしながら、彼を見上げる若者に、一つ頷くと、刀を掴んで出ていってしまった。 一大事らしい雰囲気に、捨て吉は部屋に戻って茶碗を上がり口に放り出し、すぐさま後を追う。 走ること四半刻ばかり。着いたところはどうやら町道場の裏口のようだった。母屋の脇を抜け、井戸の前を横切ると、道場らしき建物から、怒鳴り声のようなものが聞こえている。静馬もすでにこの中のようだ。 何とか中の様子を窺いたいと、辺りを見回すと、壁の少し高いところに、格子窓が開いていた。ただし、先客がある。 捨て吉は庭の隅で木箱を見つけて雪を払うと、格子窓の下、ちゃっかり踏み台に乗って中を覗いている女剣士の隣に、それを裏返しにして置いた。 「昨日はどうも。中、どうなってます?」 「今から始まるところ。道場破りだよ。相手は?。どう見ても昨日の珍集団の仲間、だよね。あれは」 踏み台に上がって、彼女の視線の先を追うと、なるほど昨日見たのと同じような、朱鞘の太刀を下げている。 「さっき突然入ってきて悪口雑言。その上誰も相手にしないと知ると、真剣振り回して暴れ出したんだよ。この典太の錆になりたい奴は誰だーっとか言って」 「あの典太は偽物じゃ」 突然後ろからした声に振り向くと、二人の足下に小さいお爺さんが立っていた。 「ご隠居さま!」 叫んで女剣士が台から飛び降りたので、捨て吉も降りようとしたところ、その老人にまあまあと止められた。 「嬢もそのままで。試合が始まりましょう」 言われて中を覗くと、双方が木刀を構えたところだった。相手の大上段に対して、静馬は正眼で受けている。 「わざわざ呼びに来たって事は、静馬さまが、この道場で一番強いって事ですよね」 捨て吉は、中の様子をチラチラと横目で窺いながら、踏み台に腰掛けたお爺さんに尋ねた。 「いや。静馬さまはうちの門下ではありませんよ。」 「やっぱり。私この道場には時々出稽古に来てるけれど、まだ一度も見かけたことがないもの」 「では、どうしてこの道場の門下でもない静馬さまが、道場破りの相手何かして居るんです?」 「当流派では、他流試合を禁じております故。静馬さまには、こうして時々、我が道場の師範代役を演じていただいているのですよ。しかし、仮に立ち会ったとしても、うちの者では勝てますまい。所詮田舎剣法。お国元できっちりと学ばれた静馬さまには、勝てぬ道理でありますよ」 「静馬さまのお国って?」 「確か、元の高山藩士のご子息とお伺いしましたが。高山藩亡き後、こちらに移られたのでしょう」 確証は持てぬが、と爺さんは首を傾げた。 道場の内には、相手の大きな振りと派手な動作と、胴間声が響いている。対する静馬は、ほとんどその場から動いていないのでは無いかと思われるほど静かであった。それで捨て吉には、相手の方が怖くて強そうに思われた。 相手の振り下ろす長めの木刀は、常に静馬の体のギリギリのところを掠めて過ぎ、次こそは当たるのではと、ハラハラさせられた。 それは実際には、ギリギリのところを見切って、最小の動きで躱しているということなのだけれど。 なんにしろ場の空気は、左右ではっきり分けられていた。まるでそこに見えない壁でも立てられたように、相手側は猥雑で騒がしい空気が、静馬側には静謐(せいひつ)で凛とした空気が満ちているのだ。 「ねえ、静馬さまって、相手がおかしすぎる所為もあるんだろうけど、なんか非常に姿勢が良くない?」 「だよねぇ。僕もあの人が剣を握ったところは初めてみるんだけど、なんか、すごい美人さんなんだよねえ」 「あ、分かる、それ。私、静馬さま贔屓の女の子達って、ちょっと馬鹿にしてたんだけど、意外と見る目があったて事よね」 「でも、その娘さん達は、多分剣を持った静馬さまを見てないと思うんだけど」 「世の中って、分からないものね」 そんな風にウダウダやりながら覗いていたとき、ダンッという重い踏み込みの音が響いた。静馬の木刀が相手の刀身を滑って小手を打ち、勝負有りの声が掛かる。 「お疲れ様です。今日は朝からご足労頂きまして」 縁側に腰掛けて汗を拭いていた静馬に、後ろから道場の主が声を掛ける。 「そろそろ昼です。蕎麦でも取りますから、静馬さまも食べていってください」 勧められて静馬は、首を沈ませるように会釈した。 (ああ、昨日の夜も蕎麦だったのに) 捨て吉はやきもきしながらその様子を見守る。 些少ながらと金子を包まれ、これにも静馬は、同じ軌道で首を前後させる。 「非常に気になるところだな」 捨て吉の隣で、女剣士がにやりと笑った。 「何がどのように?」 「静馬さまの日常生活。あの人って、普段家でどんな感じ?」 「さあ。僕も二三日泊めて貰っただけだから」 「ふーん。じゃあさ、あの静馬さまの追っかけの女の子の中に、本命っていると思う?」 「どうかなあ。多分違うと思うんだけど」 「よし!尾けよう」 「えぇー!?」 「じゃ、明日の朝、長屋の門前地蔵に集合ということで!」 「えぇー!?」 |