秋のやわらかい木漏れ日が、色彩のない部屋を明るく照らしている。
ユタの死から、もうすぐ一年がたつ。
相変わらず、私は医学の勉強ばかりしていた。
心臓病とは関係なく起こった、ユタの症状を調べるために……。


1873年、フランス。
あれからウエンズデーは、水色の雪が降る病院の丘に ユタの小さな墓をたてた。
毎日通っては、摘んできた花を添えている。
丘の前にあるフリースト国立病院の院長、セルシア・ルシフルは ユタの症状を先月発表した。
病状が悪化して病への抵抗力もなくなっているのに、
絶対安静と警告していた病院の注意を無視し、雪の降る日に抜けだし、
外に出たのが原因の肺炎だということだった。
しかし、そうではないとウエンズデーは直感していた。


約一年前、死体留置所で見たユタの顔は、青ざめていたようだった。
おそるおそる、ユタを覆っていた白い布をめくったウエンズデーは、
血の色が抜けたユタの唇の淵に、赤黒く変色した血液がついているのに気がついた。
唇の周りは、泥遊びをした子供の様に、血を布で拭った後があった。


ユタは、死ぬ前に血を吐いたのだ。


ウエンズデーは、必死に過去の心臓病の症例を調べた。
しかし、血を吐いた症例はなかった。
肺炎で、血を吐くこともまずありえない…。
ウエンズデーは、先月発表されたユタの症状が事実ではないという事を確信した。



だんだんと寒さが増し、雪が降り始めた。
12月、ウエンズデーは六年制の大学を卒業し、
フリースト国立病院の医者になった。
最初の1週間は見ているだけの研修生だったのだが、
ウエンズデーはすぐに病院の手術チームに加えさせられた。
彼女にとって、この病院で医者として働くのは好都合だった。
ユタの死について、本当のことが調べられるかもしれなかった。


ある日、病院の面会時間も終わり静まり返った病院内の薄暗い個室の中で
ウエンズデーは父親が自ら過去のカルテを整理しているのが見えた。
彼女の父は、カルテを全てスペイン語で書いている。
内容が外部に漏れると、病院の信用問題に関わるのだそうだ。
この病院でスペイン語を読み書きできるのは、セルシア院長だけとなっている。
しかし、ウエンズデーはスペイン語を含む4ヶ国語を完璧に理解できた。


セルシア院長は、最後のカルテの束を机で整えて木箱にしまうと、立ち上がった。
ウエンズデーはとっさに、傍の給湯室に隠れた。
院長はドアを半分まで開け、あたりを見まわしてから廊下に出た。
そして鍵を閉め、スタスタと足早に立ち去った。


ウエンズデーは、ユタの症例を確かめたかった。
彼がカルテ室の鍵をナースセンターに戻し、立ち去るのを見てから、
ウエンズデーはさっきまで父親が握っていた鍵をとり、
もと来た廊下を音を立てずに歩いた。
ユタのカルテは、あの室内にある…。



ウエンズデーは部屋につくと、鍵を開け、そっとドアを開いた。
ふぅっと、インクの匂いがした。
病院創立以来の死者のカルテが、たくさん摘んであった。
この国立病院で死んだ患者は、最近減少している。
ユタのカルテは、一番上の引き出しの中にあるのだろう。



ウエンズデーは、そっと引き出しを開けた。
100枚ほどの中のカルテを取り出し、一枚一枚確かめた。


「ユタ・ディーフォリア」は、63枚目にあった。


ウエンズデーは、ぼぅっとカルテを眺めた。
ユタの顔写真が張られている。
この一年間、忘れることもなかった彼の顔。
ウエンズデーの頭のなかに、たくさんのユタの顔が浮かんだ。


「別にどうもしないよ。」
困ったような、優しい笑顔や、

「画家になりたいんだ。」
人見知りをするウエンズデーと違って、
夢を話してくれたときの警戒心のない眼。

「見て、ウエンズデー!」
水色の雪を見たときの、驚いた嬉しそうな笑顔や、

「いや、何でも……そろそろ、行こうか。」
唇を巻き、頬を染め、ウエンズデーから視線をそらしたどぎまぎした顔。

他にもたくさんある……。
どれも、ウエンズデーの脳裏に深く焼き付いている。



ウエンズデーははっと我に返り、ユタの病状に目を向けた。
しかし、もう一度、……今度は心臓が止まるような衝動にかられた。
病状のスペイン語を解読した時、彼女の目が見開き、身が凍りついた。
文字を理解するのに、初めて時間がかかった。
大きなビルの鉄骨で、頭を思いきり殴られたような思いだった。
スペイン語で走り書きされた文字は、こう書かれていた。



……………………「食事に、農薬を投与」



「……誰かいるのか!!?」
突然ドアが荒々しく開き、焦った様子のセルシア院長が入ってきた。
ウエンズデーは声に反応することもなく、
目を大きく見開いたままカルテを見つめていた。
「……ウエンズデー?ウエンズデーなんだな!?」
セルシア院長はバタバタと音を立て部屋に入り、
ウエンズデーの肩をぐっとつかみ自分の方に顔を向かせた。
ウエンズデーは、大きく目を見開いたままで彼を見つめた。
まるで、この世の者ではない人間を見つめているような目だった。

ユタのカルテが、ぱさっと音をたてて床をすべった。



セルシア院長は、そのカルテと彼女の目でウエンズデーが知ってしまったことを察し、
肩を揺すりながら、彼女の目を見て必死に説得を始めた。
「彼は、死ぬ予定だったんだ。どっちにしろ、長くなかったんだ。わかるか?
苦しくないように、安楽死させたんだ。
彼は、最後まで幸せだったんだよ、ウエンズデー。」



ウエンズデーは、何も聞こえていないように見えた。
いや、何も聞こえていなかった。



彼女の意識は、ユタといたころの過去に滑り込んでいた。
優しいような、あたたかな微笑み、
困ったような笑顔、警戒心のない目、
驚いた嬉しそうな、頬を染め――……。


ユタは、死ぬときどんな顔をしたのだろう。
何度も吐血を繰り返し、苦しかったのだ。


少なくとも、笑ってはいなかった……。


ウエンズデーの頬を、ぼろぼろと大粒の涙が伝った。
それを見たセルシア院長は、叫んだ。
「ウエンズデー!!!!」
ウエンズデーは、はっと我に返った。
いつもは機械のように回転の速いウエンズデーの脳は、
もう何も考えられないようになっていた。




ただ、頭の霧が少しずつ晴れてゆく中…
………ゆっくり考えて、一つだけ浮かんだ。




ユタを苦しめたのは、
目の前にいる、父親――……。




それだけ思うと、ウエンズデーはキッと目つきを変え、
セルシア院長を強く睨んだ。言葉は、出なかった。
……睨み殺してやるつもりだった。
そして、思った。
この男を、一番苦しめて悲しませてやれることは何だろう。
そう思った瞬間に、ウエンズデーはセルシア院長の手を振り解き、
ドアを荒々しく開き、給湯室に走った。
そして溜め置きしてあったストーブ用の灯油を手に握ると、
すべて自分の頭からかぶった。
少し、口の中に入った。気味の悪い味がした。
追いかけてきた院長がそれを見て、目を見開き、叫んだ。
「やめろウエンズデーーー!!!!」
唇を噛み締め、ウエンズデーは傍にあったストーブの金属部品で
自分の足元の床を強く叩いた。
床から火花が散り、ぼぅっと、青い火が上がった。
ウエンズデーはすっと立ちあがり、炎の中で彼を睨みつけた。
そして目をつぶり、顔を上げた。
炎が体を舐めた。白衣と黒いロングスカートが、ぶわっと燃えあがった。



ウエンズデーが考えた、セルシア院長を一番苦しめ、悲しませる方法…。
それは、大金をつんで買った病院の後次……。
つまり、自分自身の死だった。
私の成長を、何より心待ちにしていた院長にとって…一番苦しいのは……。
熱い青い炎は、ウエンズデーを包んだまま燃えあがった。
ふとウエンズデーは、ユタを思った。
…大好きだったユタ。自分の父親に、殺されてしまったユタ。
初めて私を好きだと言ってくれた…。
……………また逢えるかな……。
ウエンズデーは目を強くつぶった。
いくつか涙が頬をつたい、火のなかで蒸発した。



炎は、彼女を優しく包みこんでいるようにも見えた。
ウエンズデーは、
まるで、青の羽衣をまとった天使のようだった。
ウエンズデーの青い目と似た色をした青の炎は、
ただ強く………強く、燃えつづけた。
美しい黒の髪の毛は燃え続け、前髪も燻った。
そのとき、ウエンズデーは、薄れてゆく意識のなかで、


…懐かしいような、とても大切な……
耳の奥にずっとしまってあった、優しい声を聞いた。




―――……ウエンズデー。



雪が、降っていた。



はっとして、ウエンズデーは目を開けた。
炎はもう、自分をつつんではいなかった。
代わりに、水色の雪が降るあの丘に寝ていた…。
雪をはらって立ちあがると、
目の前で、ユタが笑って立っていた。




「ユタ……」
ウエンズデーは、唇を噛み締め、溢れてきた涙を溜めてユタを見た。
ユタは、ふっと微笑み、ウエンズデーをそっと抱きしめた。
ユタの腕の隙間から、ウエンズデーの頬にはらはらと水色の雪が降り注いできた。
ウエンズデーはユタの腕のなかで
自分の頬に、暖かい涙がこぼれるのがわかった。



安心したのか、ウエンズデーは声をあげて泣きつづけた。
こんな風に泣いた事は、今までの一度もなかった。
ユタは優しく微笑み、そっとウエンズデーの髪を撫で、
いつまでも彼女を抱きしめていた。



水色の丘に降る雪は、
去年と同じように幻想的な美しい光を放ち、
ふわふわと降りてきては丘につもった。
光に照らされて、宝石のように光る雪は




まるで優しい天使の光のように、
ずっと、二人を照らしつづけた。




ユタとウエンズデーが出会えたことを、 心から祝福するかのように…。