上越の偉人 2001上越JC/心の教育委員会

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2002年3月13日更新

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赤井 景韶 あかい かげあき 1859〜1885

明治41年、頚城自民党の組織とともに参加、活躍。「大臣暗殺計画」で検挙。

荒井 賢太郎 あらい けんたろう 1863〜1938

新潟県出身者による最初の大臣。数々の要職を歴任。

植木 千次郎 うえき せんじろう 1894〜1967

23歳で、織物製造業を創業。事業家のほか、政治家としても活躍。広域高田市づくり作りを提唱、中心的役割を果たす。第2代上越市長、植木公の父。

大杉 九郎右衛門 おおすぎ くろうえもん

栗と麦より水飴を製造。

岡田 保 おかだ たもつ 1833〜1883

明治維新には勤王の志士として守界隊(農兵隊)を組織、リーダーとして活躍。その後、製粉会社を起こし成功。新潟県農業協同組合の元祖を作る。直江津の荒川に橋を架けることと、港を貿易港にすることを提唱、実践。

小川 未明 おがわ みめい 1882〜1961

小説家・童話作家。早稲田大学英文科卒業後、坪内沿逍遥の指導を受ける。昭和28年、児童文学の多年の業績が認められ芸術院会員となる。日本のアンデルセンと呼ばれる。

小栗 美作 おぐり みまさか 1625〜1687

高田藩主、松平光長の上席家老。積極的な政策をとり数々の業績を残す。

小田 嶽夫 おだ たけお 1900〜1979

昭和11年、「城外」により第3回芥川賞を受賞。


笠松 宗謙 かさまつ そうけん 1838〜1872

1861年、帰郷し家塾を開く。1868年、戊辰戦争が起こると越後に帰り、長岡・会津に転戦。軍功を上げる。明治4年(1871年)、川浦郷学校を設立し、自ら教師となる。

樫野 直一 かしの なおいち 1889〜1983

農学教育の教師となり、農業の後継者の育成に努める。又、戦後、地方農業行政に功があった。

金子 大栄 かねこ だいえい 1881〜1976

大正5年、東洋大学教授、真宗大谷大学教授となる。80歳のとき、東本願寺より教学特別功労者の表彰を受ける。

川合 直次 かわい なおじ

明治31年、直江津の大火のおり羅災者の救済、町の復興のため懇親的に尽力。翌年、政界に乗り出し39歳のとき、衆議院議員となる。大正13年、高田市長となり昭和11年まで在任。

川上 善兵衛 かわかみ ぜんべえ

明治23年、岩の原の丘陵地を開墾しぶどうを植える。同26年、ワインの醸造に成功。明治39年、東宮殿下の視察を賜る。 現在、農林水産省指定の優良品種の5品種は、川上善兵衛が作り出した。昭和9年、寿屋(サントリー)と共同出資による「株式会社 岩の原葡萄園」となる。

川上 直本 かわかみ なおもと 1831〜1889

明治維新に高田藩の動向決定に中心となって活躍した藩士。版籍奉還後、高田藩の執政、第一三九銀行頭取、初代東頚城郡長を歴任。

国友 末蔵 くにとも すえぞう 1881〜1960

明治39年、上越電気会社の技師長として着任。上越地方の電力事業に生涯を尽くす。昭和28年、高田市の名誉市民(第一号)の称号が与えられる。

倉石 典太 くらいし てんた 1815〜1876

経学を学び、高田に私塾「文武済美堂」を開く。門人は、1000人に及ぶ。前島密、室幸次郎等、明治を拓いた人材を送り出す。

倉石 知蔵

上越自動車会社創設。上越におけるバス会社の最初のもの。

小林 古径 こばやし こけい 1883〜1957

日本画家。大正元年、「極楽井」を出品。褒状。大正3年、日本美術院同人に推挙。昭和25年、画業に対し、文化勲章を授与。

小林 百哺 こばやし ひゃっぽ 1804〜1887

幕末明治の和算家。京都に三度出て、天文・算学等を学び土御門家から奥義秘伝免除をもらい、越後陰陽目代に補される。1844年、海岸警備の大筒台場や番所の測量・設計にあたり大事上を成し遂げる。


榊原 政令 さかきばら まさのり 1776〜1861

質素倹約を旨とし、人材登用・殖産興業・文武奨励に努める。領民の生活向上・藩の増収に努める。

坂口 謹一郎 さかぐち きんいちろう 1897〜1994

「お酒の博士」として親しまれる。微生物学研究では世界的権威者。昭和42年、文化勲章を受ける。

杉本 キクイ

高田瞽女の長老。三味線を携え季節を定めて農村・山村の各戸へ門付けしながら歴訪した盲目の女遊芸人。

瀬尾 玄弘 せお げんこう 1838〜1929

明治戊辰戦争に従軍、助手として傷病者の治療を行う。近代西洋医学の普及に尽力。明治28年、私立知命堂病院を創設。

関野 貞 せきの ただし 1867〜1935

古社寺の建築の研究につく。「法隆寺非再建論」を発表。業績は、世界の学会の貢献。     弥彦神社の本堂は、彼の設計。国際的な研究書がある。


高橋 孫左衛門 たかはし まござえもん

1790年、糯米より淡黄色透明の水飴の製造に成功。「栗飴」の名で全国に広まる。十返舎十九や夏目漱石の小説にも登場。


竹村 良貞 たけむら よしさだ 1861〜 ?

明治14年、帰郷し改進党系の高田新聞を創立。大正6年衆議院議員の当選。


塚田 五郎右衛門 つかだ ごろうえもん 1768〜1827

農業開発に努力。「稲荷中江用水」開削に着手。


天室 光育 てんしつ こういく  ?〜1562

謙信幼児の師。林泉寺の住持。きわめて謹厳にして透徹した理性の人といわれる。


富永 孝太郎 とみなが こうたろう 1866〜1945

代議士、農業開発者。新潟県信用組合初代会長、上越病院開設の功労者。大正末年ごろ、代議士となるが政治より郷村の農地開拓、土地改良、穀物品種改良の努める。


長野 宇平治 ながの うへいじ 1867〜1937

大正6年、日本建築士会を創設し初代会長となる。近代建築の基礎を築く上に重要な役割を果たす。郷土の建築として、菅原神社社殿、菅原小学校。


中村 進午 なかむら しんご 1870〜1939

明治28年、学習院大学教授となる。日露開戦を主張した七博士の一人。


南摩 羽峯 なんま うほう 1823〜1909

戊辰戦争で会津城が落ち、高田に護送された。上越の代表的な文人や学者が、羽峯のもとを訪れた。上越の著述出版界に大きな足跡を残す。


福永 十三郎 ふくなが じゅうざぶろう 1718〜1774

高田榊原藩の御用達として名字帯刀を許される。藩の、財政再建に才覚金を集める一方、直江津の商業権を守るため努力した。

藤縄 英一 ふじなわ えいいち 1895〜1921

大正5年、東京で藤縄電機商会を開く。大正10年、商会内に飛行機研究所を作り、飛行機の安全性と航空事業の宣伝に努める。

藤林 玄仙(ふじばやし げんせん

旧高田藩医。明治8年、私邸を「回春病院」として仮設開業。その後、半官半民の病院として、「中頚城郡高田病院」と名を改める。診療とともに医学生31名の教育をはじめる。昭和20年、県立中央病院と名称を変更。

古川 長四郎 ふるかわ ちょうしろう

佐渡汽船初代社長。越佐汽船・佐渡商船・新潟汽船の三社のトラブルや無益な競争を解決し、島民の生活航路とするため発足した半官半民の海運会社。第二次大戦による経済・社会の変動や新潟地震などの苦難を克服し成長発展を遂げる。

堀 秀治 ほり ひではる 1576〜1606

春日山城45万石の城主。上杉景勝の移民による一揆を鎮圧、越後支配を確立する。

保坂 潤治 ほさか じゅんじ 1875〜1963

県内有数の地主。東京専門学校卒業後、地主経営の傍ら直江津商工銀行頭取を務める。晩年は、東京・鎌倉にて生活。潤司の父貞吉は、廃藩置県の際高田城の外堀に蓮根を植え、現在の名所となる。

堀内 文次郎 ほりうち ぶんじろう  ?〜1942

レルヒ少佐につき、スキー術を学ぶ。全日本スキー連盟結成に努力し長く役員として活躍。


前島 密 まえじま ひそか 1835〜1919

幕末動乱の江戸へ出て医学・英語・航海学を学ぶ。大久保利通の大阪遷都論に反対。明治4年、欧米の郵便制度を視察。帰国後、日本の郵便制度確立に尽くす。郵便以外にも北越鉄道株式会社を設立し、直江津〜新潟間の開通に尽力。他、現日本通運の設立、現早稲田大学の校長など幅広い業績を残す。

松平 忠輝 まつだいら ただてる 1592〜1683

徳川家康の6男。1614年、高田城を築城し入城。1615年、大阪夏の陣において怠戦と旗本殺害事件のため、伊勢に流される。

室 孝次郎 むろ こうじろう 1839〜1903

慶応3年、上京し正木小七郎と変名し勤王運動の入る。明治元年戊辰の役に官軍の語要約を努める。明治の世は民政に尽くし、地租改正事業・修道館助教授・高田病院の設立・弥彦神社宮司になる。明治22年、第一期の衆議院議員に当選、明治30年、愛知県知事となる。


柳沢 謙 やなぎさわ けん 1907〜1982

結核予防の研究と実践にあたる。昭和16年戸野目小学校においてツベルクリン検査・BCG注射を実施。

山本 惣治 やまもと そうじ 1888〜1963

昭和8年、日産自動車の創設に常務取締役となり、寝食を忘れ自動車生産の軌道に乗せるため努力する。その後、日平産業・東京ガス電気工業・大日本機械工業の社長を歴任。

芳沢 謙吉 よしざわ けんきち 1874〜1965

外務省に入省し、中国外交に大きな功績。昭和6年、外務大臣。昭和35年、高田市名誉市民の称号が与えられる。