「無常」とビジョン作家の塩野七生さんによると国家の隆盛にはパターンがある、とのこと。まず経済が発展し、その後、政治が発展し、最後に文化が発展する。しかしその全てを実現できずに滅亡する場合も多い。
「無常」は釈迦の教え。世の中は無常、すべては過ぎて往く。無常とは同じ状態はつづかないということ。人間にとってみれば生老病死は避けることのできない現実。
日本という国も、動乱の時代や安定の時代を何度か繰り返して現在に至るわけで、20世紀だけを見ても、大雑把にいえば最初の50年は軍事大国化を目指して敗戦。その後の50年は経済大国化を目指して、今、破綻。長い歴史を見れば、栄枯盛衰はあって当然のこと。たまたま我々はこの衰退期の当事者となってしまいました。
新年の理事長挨拶にありました、相田みつをさんの詩『自分の番を生きている』。自分たちの番のうちに、長いトンネルを脱せられるか、それとも真っ暗闇の中で自分たちの番を終えるか。できればトンネルを脱するところまで見てみたいと思っていますが、自分たちの力ではどうしようにもできないことがあるのも、また現実だと思ってます。
この原稿を書いている時点では、「ダイエーの再建」が大きなニュースとなっています。資産を売却しても借金が2兆3千億円も残るそうです。カリスマといわれた中内功氏も私財を放棄する用意があるとのこと。過去にどんな栄光があろうとも、今、どん底の状態で自分の番を終える。その心中はどんなものかと思います。(中内氏がこのまま終わるかどうか現時点ではわかりませんが)
世の中ははかなく、うつろいやすく、絶対的な幸福など訪れないというふうに捉えたほうが「気が楽」ではないかと思います。これはプラス思考なのかマイナス思考なのか、よくわかりません。苦労は報われない場合もあるだろうし、念じても花が開かないときもある。何と言っても人生は突然終わってしまうし、宗教もイデオロギーもテクノロジーも経済も、人間にとって絶対の幸福は約束してくれなかったですしね。今後もそうなんでしょうね。
すべての人がそのように達観している社会というのも、これまた変なものでしょう。多様なものが多様なままに存在するから社会は成り立つものだと思います。善もあれば悪もある。聖と俗、本物とニセモノ、右へ行きたい人、左へ行きたい人。ゴチャまぜです。そういう状態を「混沌」というのでしょうか。どこまで行っても混沌は混沌のまま、変わらないような気もしますね。
とまぁ、わかったようなふりをして書いてきましたが、実のところ、何だかよくわからりません。世は無常というのは「諦め」なのだろうか。だとしたらビジョンはいらないのか。イヤ、刹那的に生きるのはよくないように思う。村田理事長はこんな観念的なものは要求してないだろうしな。ただの遠回りかも知れない。例えでいえば、我々は好むと好まざるに関わらず船に乗っているようなもの。ゴールは特にありませんが、一ヶ所に留まることもできません。ある位置から別な位置へと移動を続けています。かといって、でたらめの方向に船を進めてよいわけでもなく、ある方向へ向うわけですな。
だいたいビジョンといいますと、明るい言葉で書かれていまして、陰陽でいえば陽。しかしプラス思考ばかりでは、どうにも説明のつかない現実があるわけで。例えばテロや空爆で家族を亡くされた方を前に「プラス思考で考えよ」とは言えないわけで。それで「無常」を取り上げた次第です。