1.有機農業研究者の交流の場づくり:予備的な話し合い

  1997年3月末、神戸大学の保田茂教授から「有機農業研究者の交流の場づくり」の提案があった。「日本の有機農業研究者の多くは、これまで一匹狼的に研究を行ってきた。各人の問題関心に応じて個人的に連絡を取り合い、学習会を設けたりしているが、多くは単発的で継続性に欠ける。そろそろ定期的・継続的に交流し、相互研鑚、情報交換を行う場づくりを考える時期に来ているのではないか」という趣旨であった。

 当時、消費者団体や生産者団体はすでに相互連絡交流の場を設けたり、あるいは設ける準備を進めていたが、研究者にはそういう全国的・学際的な交流の場はなかった(注)

 (注)@主婦連合会、消費科学連合会、日本有機農業研究会の消費者会員は1993年4月に施行された「有機農

   産物等表示ガイドライン」をめぐり、施行に先立つ92年3月に連絡会を設けてガイドラインに内在する様々

       な問題点を議論。連名で農林水産大臣宛に改善要望書の提出、国会議員への陳情活動などを展開。A「生産者

       と消費者をあざむくJAS改正・有機農産物表示をやめさせる3/31全国実行委員会」(93年3月結成)

       が母体になり、94年2月DEVANDA協議会を結成。その後、B97年7月全国産直産地リーダー協議

       の結成(初期参加団体約80)、およびC DEVANDA協議会、全国産直産地リーダー協議会、日本有機農

       業研究会の生産者会員による三者連絡会の設置(97年11月)と続く。

 提案から約2ヶ月半後の1997年6月15日、「取り敢えず、どのような交流の仕方があるか、話し合ってみよう」ということで、当日、都合のつく有機農業研究者7名が農水省農業総合研究所に集まり、予備的な話し合いの場を持った。

 当初は「情報交換するための定期的な交流の場を設ける」程度の事柄を話し合う、言わば「軽い気持ち」の集まりだったが、議論が進むうち、「いっそのこと学会に、それも社会科学系研究者だけではなく、自然科学系研究者や有機農業運動実践者なども含む『学際的な学会(異業種交流的な学会)』にしてしまおう」ということになった。

 

 しかし、いきなり既存の学会のように「誰もが自由に参加できる学会」にするには、躊躇いがあった。議論が拡散し、収拾がつかなくなる恐れがあったからである。

 周知の如く、日本の有機農業は反公害の思潮を背景にして誕生し、過半は運動として展開されてきた。その間、70年代中葉の「複合汚染ショック」、80年代中葉の「チェルノブイリ・ショック」、90年代中葉の「平成の黒船ショック」など(注)有機農業を取り巻く社会状況は大きく変化した。それに付随して担い手の構成も変容し、初期の担い手が共有していた有機農業の基本思想がモノ次元、ビジネス次元に歪曲・矮小化されて主流となり、本質から大きく乖離しはじめている。それと同じことが、有機農業研究にも生じるのではないかという懸念があったからである。

 (注)@有吉佐和子氏のベストセラー小説『複合汚染』の警鐘を契機にして「有機農業」への関心が高まり、Aチ

       ェルノブイリ原発事故に起因する輸入食品の放射能汚染が社会問題となって「有機農産物」への関心が高まり、

       そしてB1995年6月に初来日したアメリカの官民一体の「オーガニック使節団(平成の黒船)」による、

       自称有機“口撃”などによって有機食品の「検査認証制度」への関心が高まった。

 したがって、当分の間は、参加の呼びかけ対象を「内外の有機農業について、一定の知見を有していると思われる人」に限定することにした。何をもって「一定の知見」と見做すか、その客観基準を設けるのは容易ではないが、意味するところは「日本の有機農業を語る上での基本用語(例えば、産消提携)に解説が要るような人では困る」という程度の事柄であった。呼びかけ対象をそのように限定したため、名称を「日本有機農業学会設立準備会」として、しばらくは「クローズドな研究集会」として運営することになった。