曾祖母の日記
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この家に嫁いで、一年余が過ぎたある日、つい数年前までは、お侍の身分であった舅様の、お若い頃の話を伺いました。舅様は藩のれっきとしたお侍のご三男。幼い頃より、気位だけ高くて窮屈な、ご実家の生活に嫌気がさし、ご自分で望んで、郷士の身分であった親類筋の、この家へ養子に入ったそうです。
郷士とは、普段は田舎で百姓をしているが、いざ鎌倉というときは、鎧兜に身を固め、一族郎党を引きつれ、馬に乗ってお城に駆けつける役目を持っていたお侍。要するに、太平の世となったその昔、殿様からいくばくかの土地と若干の特権を退職金代わりにリストラされ、身分だけは侍の特権を保証されていた百姓。
舅様の幼い頃は、村の悪童どもに溶け込んで近郷中を遊び歩き、またご城下に出ても、侍よりは町人との付き合いを好んでいたそうです。そのため、本来、小作や小農の若い息子たちで営まれる、若衆宿への特別参加も認められたとか。たぶん、強引に仲間入りしたのでしょうけれど。
若集宿への参加が認められることは、一人前の男として認められたことであり、集落の稼ぎ手としても認められたことになる。十三、四五歳から結婚し、書体を持つまでの間、若衆宿での共同生活をしたものだ。中には、一年通して、つまり10年前後も若者宿で過ごす者も、少なくなかった。彼らは、農繁期や人手を要するときの強力な助っ人として、重要な存在であり、その手間賃が彼らの生活を支えていた。 共同生活を通じて、親からの躾とは違う、共同体の一員としての ケジメ を先達から教えられる場であった。また、その共同生活のなかから、自然と仲間内の序列、派閥なども形成されていった。つまり、仕事のときの采配はだれだれ、遊びはだれだれ、交渉ごとのうまい奴、物資調達のうまい奴、情報通のものなど、互いに相手を知り合う機会でもあった。
若者宿の楽しみの一つに、夜這いがある。話を、夜這い だけに限ろう。夜這いは、確かに娯楽の少ない農村にあって、若者の憂さ晴らしの面もあったことは否定しないが、それは、どちらかというと、特殊な事例であった。 掟があるといったが、夜這いといっても、誰もが好き勝手に、女の家へ忍び込んだわけではない。通常、相手の娘が、承知してくれた場合のみ、あるいはその娘が、自分の誘いに応じてくれたときのみ、夜這いに行けたものである。相手の望まない夜這いは、無理に忍び込み、ことに及ぼうとするとき、娘に騒がれて、親に捕まった時など、村のさらし者にされる恐れがあった。 また、忍び込んだ娘の家で、あまり無茶をしないよう、夜這いの礼儀作法というものも教えられた。先達たちが、四方山話の一環として、面白おかしく話すこともあったが、実際は、ベテラン女性に、手取り足取り教えてもらったものである。 若者宿ではまず、新入りには忍び込みのテクニックを教える。そして筆下ろしのため、先輩が事前に了解を得て、ベテランの女性に、童貞の子への筆下ろしを頼んだものである。上農の場合には、元服の際、両親が相談し、親類縁者のなかから、これという女性を選びだして依頼し、文字通り手取り足取り、女性の体の 造り を教え、扱い方 の指導を任せたものである。 娘の場合も、赤飯を炊いて祝った夜、一族の年配者や、主家筋の、しかるべき長老の誰かに、水揚げというか、道を通してもらうのが慣わしであった。そうしておかないと、夜這いされたとき、戸惑うことになる。そして、母親や叔母さん、先に一人前になっていた近所の姉様たちが、具体的に心構えや、手練手管を伝授するなど、共同体の一員としての教育がなされてきたのである。 当時は、男女とも、性の悦びを味わうことは、タブーではなかった。もちろん、公然たる不倫は咎められ、相手かまわず交合する者も嫌われた。しかし、農民においては、性とは、心行くまで自由に楽しむべきものであり、過酷な労働に耐える農民の、活力源でもあった。男は十数歳で元服し、女も初潮を迎えれば、ともに一人前として、世間的にだけではなく、性の面でも大人の扱いを受けることになった。 大人の扱いを受けるということは、一人前の労働力として期待されることでもあったが、同時に、自由意志で性を楽しむことを、認められることを意味した。自由とは、規律を守ることにより、自由を保障される。その規律を教えるのが、若者宿であり、赤飯の祝いの夜の儀式であった。当時は男も女も、互いに相手が複数の異性と、交渉を持っていたことを当然として、結婚したものである。 結婚後も、一定の規範の元に、自由であった。不自由なのは、支配者階級である。なまじ、守り、引き継ぐべき、金や富を持っているため、子の血筋を重視するがために、女を家に閉じ込め、他の男との接触を不義として、禁じてきた。下これに倣うで、家臣も、町家の者も、女性の人権、自由度を制限し、現在に到っている。のではなかろうか。
夜這いの心構えを教えられてから、新人は先輩の先導で、目的の家へ行く。家への忍び込み方の実地指導を受けながら、そっと、実際には、先ほどから待ち構えている女性の臥所へと忍び寄る。何しろ、いい加減な女に頼んで、童貞君がショックを受けることは、避けなければならない。筆下ろしを頼まれるほどの女性は、技巧にしろ人柄にしろ、ある水準を越えている女人が選ばれた。 だから、まずはその先達が、待ちかねている後家さんを抱いたものであった。当時は漆黒の闇である。明かりは全く無い。何も見えない中で、先達と後家さんのあげる密かなヨガリ声を聞きながら、自分の順番が来るのを、ただひたすら待つ。それまで夜な夜な聞かせられたその時の事を思い出しながら、今どんなことが行われているか、想像をふくらませ、早く自分もと、待ち焦がれる。 手早く終わった先達に促され、先達と交代して、床に入る。待ち構えていた後家さんが、文字通り手取り足取り、女性の体の 造り を教え、扱い方 を教え込む。すでに先達との交合で、女性の身体は十分に濡れている。初めての、童貞君でもスルリと呑み込まれ、滑らかな膣壁から受ける快感を、十分堪能できることになる。もちろん一晩で全てが教えられ、覚えるわけではない。多くの場合、明日の晩もお出でと、囁かれてから、送り出してもらえる。 さっき導かれてきたのと、逆に這い、外に出る。他の家人に悟られぬよう、できるだけ静かにせねばならない。後家さんといっても、親がいれば子もいるわけだ。時に、待っていた先達がもう一度忍び込む。何しろ相手はベテラン。先輩にとっても、めったに楽しめる相手ではない。ある程度年長の女性の家には、そう夜這いする機会があるわけでもなかった。 若者宿に帰れば、その夜の体験、感想を発表させられ、冷やかされることで、楽しさが倍になる。多くは明日の晩はこうしろよと、貴重な助言が得られる。貴重な助言は、女性の品定めの際にも得られる。品定めといっても、決して、性の善し悪しだけではない。その人柄や性情までもが話し合われ、嫁にするなら、だれそれが、となる。そうして若者は、女性を、さらには人を見る目を養われ、人の持つ裏表まで、経験をつんでいく。 中には、夜這いに使う忍び戸の前に、いつも何人かが、並んで待っている家もあった。来る者を拒まず、やさしく受け入れてくれる女性もいたのだ。一度行っては見たが、何人も子を産んだ後でもあり、膣の締まりはあまり夢中になれるものではなかった。しかし、こちらを迎え入れてくれる仕草が、なんとも優しく労りがあり、夜這いする相手に恵まれない者にとっては、大きな慰めになったであろう。 かといって、女に飢えて来たのであろう男に対し、投げやりな態度で応じるのではなく、適度に自身も善がりをみせ、おっとりしたものではあったが、密かな喘ぎ声を上げるなど、夜這う男を満足もさせてくれていた。穏やかな善がりのためか、続けて夜這いに来る何人かを相手をしても、あまり疲れることも無かったのであろう。その家のものには、村の男共はみな自然と、何かと親切にしてやっていたのも、人情であろう。そのような女人は、ほとんどが長寿に恵まれ、いまも達者だそうだ。
昼に顔を合わせたとしても、昨夜のことは二人だけの秘密であり、他人にそれをあからさまに示すことは、若者宿以外では許されない掟の一つである。しかし、どのように楽しませてもらったか、などということは、重要な情報交換であった。もっとも若者宿のメンバーは、昼は重労働に駆り出され、昨夜の感傷に浸る暇など無い。集落の共同作業に当たっては、率先してそれらをこなすことが義務付けられているし、空いた時間には、自家の手伝いが待っている。 時に隣の集落へ、泊りがけの作業に出かけるのは、いわば隣村との集団見合いであり、互いに働きぶりをみられ、昼餉の接待の心遣い、気配りなどを見比べ、後日の夜這いの相手を得ることが、楽しみであり、目的の一つでもあった。それは、近親婚に陥りがちな、集落内での相手探しではなく、新鮮な血筋の導入にも、互いに必要なことであった。 離れたところで作業しながらでも、あるいはすれ違ったとき、今夜の了解を、お互いに取る。いやなとき、都合の悪いときはもちろん断る。断られたときは無理をしない。無理をして押しかけたりすると、村の掟で、厳しく罰せられ、若者宿を追い出されるときもある。だから、夜這いは、無秩序な乱交のように思われている面もあるが、実際には、お互いが納得づくのものであった。 互いに相手を選ぶことが出来たわけだから、何人かの娘に夜這ううちには、相性のいいもの同士、好きあった同士に、承知する相手が限られてくる。結婚を考えるようになれば、若者宿での語り合いで、他の者にもそれが判る。そうなった場合、仲間の皆が納得すれば、その娘のところへ夜這うのは、もちろんその男に限られてくる。娘のほうも同じ気持ちなら、他の男からの誘いに応じなくなるので、自然と判るものだ。 互いに承知し、通う相手が一人に絞られてくると、家どうしが許せば、やがて二人は結婚する。単に好きあった者同士が結婚するのではない。家と家との労働力の交換であり、グループ化である。本人同士より、家の都合が優先するのは、やむをえなかった。長く付き合った者とは、別の者と結婚させられる場合も当然あった。その前に、子供の出来ることもあるが、それはその父親と目された一族の誰かの子として、わけ隔てなく育っていくのは、共同体の常識でもあった。 望む相手との進展が無いときは、他の相手を求める必要が出てくる。気に入らないからと、いつも邪険に断ると、そのような時にしっぺ返しが来る。時には集団で襲われることもある。しかし真っ暗闇では、何をされたかは判るが、誰にされたかは、わかりゃしない。泣き寝入りとなる。そのため、特別な理由がない限り、女から誘おうと、男から誘おうと、互いに何回かに一回は、相手を受け入れることも必要なことであった。婚姻前の、複数の相手との関係は、男女ともお互い、当たり前のことでもあった。
もちろん、結婚してしまえば、夫婦二人の関係が優先される。愛情より、夫婦二人がともに力をあわせなければ、貧農の生活は成り立たなかった。互いに他の相手と付き合う暇などない。しかも、結婚した女性は、たいてい亭主の側で寝ており、忍び込みは出来ても、いたすのは容易ではない。亭主に気づかれたら大事になる。また男のほうも、一家を構えてからまで夜這いに行くことは、若者宿の連中に嫌われ、共同作業を必要とするときなど、十分な援助を受けられなくなる。 結婚後は、むしろ昼に楽しむ機会があった。共同作業をする夫婦同士が、仕事の合間に、互いに貸し借りを楽しんだのである。そこにも、若者宿時代の関係が、非公然とではあるが、結婚後も続く余地があった。他の女を娶った男と、もう一度交歓したいときは、その男の女房に、口実を設け、共同作業を申し込めばよい。 それはお前の連れ合いと、交歓したいとの意思表示である。ヤキモチだけで断ることは許されない。これは、労働力としての役割が大きい分だけ、女性の権限も強かったことによる。夫が、他人の女房と懇ろになるのを、じっと耐えているのではない。夫が願うように、女房のほうも、たまには違う相手に喜ばせてもらいたがるのは、当然のことであった。 もっとも、妊娠する危険性もある。そうなってもいいように、多くは、夫同士が兄弟か、女房同士が姉妹である夫婦間に、そのようなことが多かった。扶養義務はお互い様である。したがって、幾組かの夫婦が共同作業で山に入るとき、その組み合わせは、たいてい固定されたものになる。共同作業のその場で、三々五々、互いに交換した相手と、憩いの時を過ごすことも、当然あったのである。 縁戚関係ががない場合でも、若者宿の同期生同士というようなことが多い。これは、あの男なら、信用できるから、という連帯感があったせいであろう。事実、若者宿で好意的に迎えられなかった男とは、その後の付き合いも、疎遠になるのが普通であった。このように、男女の営みは、比較的自由で互いにそれを許しあっていたものの、決して奔放なものではなかった。夫婦互いの意思や立場が、尊重されていたのである。 そのように既婚者は、昼にことを済ませることが多い。夜は夜で、暗くなれば何も出来ない。昼間、望みの男と楽しんで、うきうきしている女房を、自分も楽しんで寝るしかない。女房も、真っ暗闇の中で抱かれている。抱いているのが昼間の男と想像して、もう一度楽しむことになる。種々の労働の疲れで、後はぐっすり眠るだけである。それで夜は、若者にチャンスが来る。若者が、娘のところへ、ヘタすると女房のところへ夜這いしてきても、気付かずに眠り込んだままのことが多いわけだ。 (続) |