江戸城の門の巻

36の見附(みつけ:城門)と、大小さまざまな堀に守られた日本有数の城。
徳川300年の歴史は、江戸城の歴史と密接につながっています。
周囲約5Kmの江戸城を歩いてみました。


江戸城を造ったのは、室町時代の関東管領(かんれい)上杉氏の家宰だった太田道灌(どうかん)です。
でも、太田道灌は、何もなかったところに江戸城を造ったわけではありません。
平安時代に江戸重継(えどしげつぐ)という武将が屋敷を造ったのが始まりだそうです。
それを道灌が受け継ぎ、徳川氏が代々手入れし、関東一の名城に育っていったわけです。

今回も、始まりは駅から。
日本の表玄関、東京駅です。
八重洲口と、こちら丸の内口とではずいぶん雰囲気が違います。
赤煉瓦の駅舎は、やはり風格があります。
東京駅から日比谷通りを南に下ると馬場先門がありますが、標柱が残るばかりで、門らしき様子はありません。
この後ろに、大きな皇居前広場が広がっています。
この門の内側に、将軍家の親戚や老中の屋敷がおかれていたのだそうです。
現皇居の正門と、二重橋です。
年輩の方には、特に思い入れが強いようです。
この日は、日本人より外国人を多く見かけました。
何語だかわからない早口言葉が飛び交っていました。
警視庁の正面にある外桜田門です。
幕末、大老井伊直弼(いいなおすけ)が水戸・薩摩の浪士に暗殺されたのは、この近くです。
その結果、日本は新しい時代に向かって大きく動いていくことになるのですが…。
それにしても井伊家の屋敷は、この門から300mほどしかありませんでした(国会の手前:同じ場所から撮影)。
あわせて、大名の行列は、あんなにしずしずと進むものではなくいつも走っていたといいます(普段から走っていれば、急場を悟られないため)。さぞ、無念だったことでしょう。
三宅坂を上がると半蔵門です。
この門の前に、忍者の服部半蔵の屋敷があったとも、江戸に象がきたとき、体が半分しか入らなかったから半象門とも聞きます。
いずれにしても、この辺りは堀からかなり高くなります。
現在は感じませんが、江戸城は海に向かった台地の上に造られたことがよくわかります。
すごい人混みでいい場所で撮れませんでしたが、北の丸の田安門です。
徳川御三家に対抗して、八代将軍吉宗は、自分の子供を御三卿として優遇しました。その一人宗武(むねたけ)がここに屋敷を与えられ、田安殿となりました。
ところで、この人混みは…。
武道館を会場に、ちょうど24時間テレビの日だったんですね。
それにしても、すごい人波でした。
この中に、モー娘。がいてがんばっていたんでしょう。
ご苦労様です。
同じく北の丸にある清水門です。
田安門と同様、御三卿の一人清水氏がここに屋敷を与えられていました。
江戸城の門は、一般的に二重になっていますが、これは内側の門です。
人混みをさけて、北詰橋門にやってきました。ここを入ると、すぐに江戸城本丸になります。
入り口で守衛さん(皇宮警察の方?)がプラスチック製の整理券を配っていました。
現在は、皇居東御苑として見ることができます。
江戸城の天守閣跡です。
「火事とけんかは江戸の花」。
江戸の町は実によく火事で焼けました。江戸城も例外ではなく、その度に修復しましたが、天守は「無用の長物」として再建されませんでした。
それにしても、巨大な石垣でした。現在、上は展望台になっています。
平川門です。この前には竹橋の毎日新聞社があります。
ここは通用門として、大奥女中や御三卿などに使われました。
また、裏門に当たることから、罪を犯した大名や死人などを出す「不浄門」としても使われたそうです。忠臣蔵の浅野内匠頭も、ここから運ばれていったそうです。
江戸城本丸の正門、大手門です。内側には「大番所」「百人番所」などがあり、三百諸侯が登城する時に使われました。
門の外は、権勢を誇った酒井雅楽頭(さかいうたのかみ)や一橋殿の屋敷があったそうです。
辰巳櫓(たつみやぐら)と奥に見えるのが桔梗門です。
瓦に太田道灌の家紋である桔梗がついていることからこう呼ばれているのだそうです。
この辺り、内堀通りでは毎日曜日、パレスサイクリングといって無料の自転車貸し出しをやっています。私も借りて乗ってきました。
しめくくりは、坂下門です。
右奥に見えるのが宮内庁で、現在宮内庁の通用門として使われています。ちなみに、この背後に皇居新宮殿があります。
坂下門でも、幕末老中安藤信正が水戸浪士におそわれた坂下門外の変が起きています。
安藤氏の屋敷は、この門の前だったのに…です。