西南戦争の巻

「武士の時代」の終わり。
明治10年に起きた西南戦争は、まさにそれを象徴するものでした。
伝統的な武士道を貫こうとした「武士」たちが、農村から徴兵された政府軍の近代的兵器に負けた。
維新回天のうねりも、ここに一つの区切りを迎えたのでした。


明治維新の原動力となった薩摩(鹿児島)の人材たち。
それは、わずか数十年の激動の時代を、全速力でかけぬけていった歴史の群像です。

今回の旅の始まりは、めずらしく空港からです。
鹿児島空港は地方空港と思いきや、南西諸島へと向かう便のターミナルとなり、多くの飛行機が発着していました。
アメリカの同時多発テロの直後だっただけに、ちょっと緊張しました。
JR西鹿児島駅前にたつ「若き薩摩の群像」です。
イギリスとの薩英戦争に負けた薩摩は、欧米の力の大きさに驚き、多くの留学生をヨーロッパに送り、その力を取り入れようとしました。
それを担ったのが、まだ若き薩摩の青年たちでした。
それぞれが凛々しい顔をしていました。
鹿児島の中心を流れる、甲突川(こうつきがわ)にかかる高見橋のたもとにたつ大久保利通の像です。
西郷隆盛と手を携えて明治維新を進め、日本の近代化を進めるとともに、最後には西郷と戦わざるを得なかった厳しい表情が現れていました。
加治屋町にある、西郷隆盛が生まれた場所を示す碑です。
加治屋町は、実に多くの偉人を輩出しました。郷中教育と呼ばれる、年長者が年少者を教え導く環境の中で、お互いが鍛えあって成長していったのでしょう。
この町では、他に村田新八、東郷平八郎など優れた人材が生まれています。
城山のふもとにたつ、西郷隆盛の銅像です。
西郷(せご)どん、と呼ばれた西郷は、情熱家で情け深く、多くの人に敬愛されています。
明治維新を成し遂げた彼は、歴史の上での使命をすでに終え、しかしその存在の大きさから、西南戦争の大将に担がれてしまいました。
どことなく運命を悟った顔にも見えました。
薩摩藩の太守島津氏の居城、鶴丸城の跡です。
島津氏は、「薩摩は人をもって城となす」として、天守閣を造りませんでした。
大久保らとの征韓論に敗れた西郷は、鹿児島に帰り、この鶴丸城の一角に青年を教育するための私学校を造りました。
その私学校に集まった青年の暴走が西南戦争を招きます。
写真ではよくわかりませんが、多くの弾痕が残っていました。
熊本の田原坂では、銃弾同士がぶつかって固まりとなったものも残っているそうです。
激しい戦闘の様子がうかがえます。
九州を転戦し、敗れた西郷が鹿児島に戻り、隠れていた洞窟の跡です。
西郷はここに5日間滞在し、最後の本営としたといわれています。
現在は柵で囲まれていますが、うっそうとした茂みの中に、ひっそりとしていました。
1877年9月24日、政府軍最後の総攻撃を受け、洞窟を出た西郷は、岩崎谷を下る途中で、腰と股に銃弾を受け、別府晋助の介錯で自刃します。
「もうこのへんでよか」というのが最後の言葉とされています。
今はその場所に、碑が残されています。
西郷と薩摩軍の戦士たちが眠る南洲(西郷の号)墓地です。向こうに見えるのが、鹿児島のシンボル桜島です。
薩摩の志士たちが、最後は桜島の見える城山に戻り、生涯を終えようとした気持ちが、何となくわかるような気がしました。
南洲墓地の傍らに、西郷の盟友勝海舟の歌碑が建っていました。
「ぬれぎぬを干そうともせず子供らがなすがまにまに果てし君かな」。
幕末から維新期を走り抜いた西郷の生き様を描いているような気がしました。
翌朝、思いがけずホテルの窓から見た桜島です。
今まさに、日が昇ろうとする桜島。
西郷をはじめ、幕末の志士たちが日々目にしていたのも、このような景色だったのでしょうか。

 鹿児島は、フランシスコ・ザビエルが日本に上陸した土地であり、琉球との交易が盛んな土地であり、多くのテーマがあるのですが、今回は、西南戦争に絞ってまとめてみました。
 また、次の機会にもぜひ訪れてみたいと思っています。