京都から遠く離れた鎌倉につくられた(武士)もののふの都。
そこには、平氏の没落を前に、京の朝廷とは一線を画そうとする、頼朝の強い意志がうかがえます。
町のたたずまいも、緑におおわれた景色も、そんな力強さが感じられました。


鎌倉は、3方を山に、1方を海に囲まれた閉じられた空間にあります。
自然をたくみに利用し、守りやすく、攻められにくい場所に幕府をおいたわけです。
世界が大きく動く時代の流れの中で、鎌倉武士はどのような世の中をつくったのでしょうか。

 正面から見た鶴岡八幡宮の舞殿と本宮です。
 頼朝は、この八幡宮と、その前に続く若宮大路を中心にして、左右対称となる町づくりを進めました。
 八幡宮は、鎌倉武士の心の支えとなり、中心的な役割を果たしました。
 舞殿です。現在でも、鎌倉祭りや菖蒲祭りで舞が奉納されるそうです。
 その昔、静御前もここで舞を舞ったのでしょうか。
 本宮へと続く石段です。
 3代将軍源実朝は、この石段を13段登ったところで、左の大イチョウの陰にかくれていた公暁(くぎょう)によって暗殺され、源氏の血筋は途絶えました。以後、北条氏による執権政治が続くことになります。
 樹齢1000年をこえ、歴史を見つめてきた大イチョウに感銘を深めました。
 八幡宮の本宮です。
 よく見ると「八幡宮」の額の「八」の字を、鳩がかたどっています。鎌倉名物「鳩サブレ」の由来はここにあるのでしょうか。
 それはともかく、この日は結婚式?のようなものが行われていました。
 八幡宮の境内の中にある、流鏑馬(やぶさめ)道です。流鏑馬は、犬追物(いぬおうもの)や笠懸(かさがけ)とならんで、武芸をみがく大事なものでした。
 意外なことに、この裏は幼稚園になっていました。
 八幡宮の東側にある、幕府跡です。現在、この一帯には小学校や民家が建ち並び、その面影を残すものは何もありません。しかし、写真のような碑があちこちに建てられ、歴史をしのばせてくれます。
 幕府跡に建つ小学校の外柵には、小学生たちが調べた歴史資料が展示してありました。中には、外国人向けに、英語で書かれたものもありました。いずこの学校も工夫しているんだなあと思いました。
 幕府跡の裏手にたつ、源頼朝の墓です。
 少し小高くなったこの丘の上からは、幕府や鎌倉の町並みがよく見えたことと思います。
 武士として初めての時代を切り開いた人の墓としては、ずいぶん小さいかなとも思いましたが、やはりこれでいいのでしょう。私の感想が正しいかどうかはともかく、質実剛健を旨とした鎌倉武士らしいと思いました。
 源氏の嫡流が途絶えた後、執権として鎌倉幕府の実権を握った北条氏の屋敷跡です。現在は、宝戒寺という寺になっています。
 執権屋敷は幕府よりも八幡宮に近く、それだけ権勢を誇ったといわれています。現在放映中の「時宗」からもその様子がわかると思いますが…。
 その北条氏終焉の地、腹切りやぐらの跡です。
 1333年、新田義貞に攻められた北条高時は、執権屋敷の裏手にあるこの山に逃れ、一族郎党500人がここで自害したといわれています。これにより、鎌倉幕府は滅びるわけです。
 うっそうとした木立の中に残る石碑だけが、当時の様子を伝えているようでした。
 鎌倉時代は、新しい仏教が広まった時代でもあります。それまでの仏教が、貴族や身分の高い人たちのものだったのに対し、一般の民衆を救おうとたくさんの仏教が生まれました。
 写真は、小町大路にたつ、日蓮上人辻説法跡です。日蓮が本当に辻説法したかどうかはともかく、このあたりは当時の町の中心にあたります。現代でいえば、銀座(ちょっと古い?)にでもなるのでしょうか。
 鎌倉での移動といったら、やはり江ノ電でしょう。
 民家の庇(ひさし)と接するようにして小さい電車がゆっくり走っています。
 最近新型車両も増えてきたようですが、このグリーンの車両はなくせないでしょう。
 それにしても、車内の狭いこと…。
 鎌倉にも大仏はあります。が、よく見ると、奈良の大仏とはずいぶん違っています。まず、手の形、それから、露天にあるということ。
 しかし、鎌倉の大仏も、はじめは大仏殿があったそうです。その証拠に、四方に大仏殿の礎石(柱を立てるための石)が、そのまま露出しています。台風で破壊されたり、津波で流されたりして今のようになったのだそうです。
 稲村ヶ崎です。
 鎌倉を攻めた新田義貞(にったよしさだ)は、海を渡るのに名刀を投げ、潮が引くよう祈ったとされています。そして、鎌倉に攻め込み、北条氏を打ち倒したのでした。
 この日は、波が荒く、近くに立っていると塩が飛んでくるほどでした。しかし、『稲村ジェーン」の言葉通り、サーフィンをしている若者がたくさん見受けられました。
 鎌倉七切り通しの一つ、亀ヶ谷坂切り通しです。
 天然の要害・鎌倉は七つの切り通しに守られていました。細く狭い切り通しは、攻めるに堅く、守るに易いといわれています。しかし、時代の流れには逆らえず、鎌倉幕府は、1333年に幕を閉じます。それは、腹切りやぐらのところで見たとおりです。時代は、新しい流れに向かっていったのです。