三内丸山遺跡が発見されてから、これまでの縄文観は大きく変化したと言われています。
ここでは、実際に歩いてみた印象を綴っていきたいと思います。



三内丸山では、今から5500年前から4000年前の遺跡が見つかるそうです。
「縄文人」から得られるこれまでの印象は、えものや木の実を求めた、放浪生活でした。
しかし、一時に数千人もの人が生活する場もあったということです。
豊かな縄文の都市で、人々はどんな生活を送っていたのでしょうか。


 入り口付近から見た、掘建柱建物跡(ほったてばしらたてものあと)と大型竪穴住居跡(おおがたたてあなじゅうきょあと)です。
 広い敷地の中で、真っ先に目に入ってきました。とても雄大な感じです。
 やはり、三内丸山のシンボルは、この掘建柱建物跡(ほったてばしらたてものあと)でしょう。
 現在はこのように復元されていますが、昔もこのようだったかは、まだわかっていないようです。
 それにしても、機械もない時代にこんな大型の建築物ができるなんて驚かされます。
 古代の人たちは、どんな思いでこの柱を見上げたのでしょうか。
 子供の墓の跡です。
 子供の遺体は、わざと一部を壊した土器の中に入れて、住居の近くに埋められたそうです。土器からは、こぶし大の石も見つかるそうです。
 古代の親も、そのように悲しんでいたのでしょうか。
 遺跡の周辺には、谷がありゴミ捨て場として使われていました。また、この谷は、海へと続く水路の役目も果たしていたようです。
 向こうに見える建物は、青森県の運転免許センターです。
 高床の倉庫跡です。
 三内丸山遺跡では、栗の木などの栽培が行われ、食料がたくわえられていたと考えられています。それらを保存するために、地面に穴を掘り、柱を立てて屋根をつけた建物を造りました。
 現在、3棟が復元されています。
 倉庫を正面から見たところです。
 人の頭ほどの高さで、かなりしっかりした作りになっています。ここに、どれだけのものが保存されていたのでしょうか。
 一般の人たちが住んだ、竪穴式住居です。
 ただし、時代により何種類もの住居跡が見つかっています。ただ、萱(かや)を寄せ集めたものから、写真のような細かい作りをしたものまで、様々です。
 このような住居が、最盛期で600棟もあったと言われています。
 大型竪穴住居跡(おおがたたてあなじゅうきょあと)です。
 長さが10m以上の住居跡は、10数棟調査されましたが、最大のもので、長さが32mもあります。実に、教室にして4教室分です。
 中は2層になっていて、2階でも作業ができる作りになっています。驚くべき建築技術を持っていたことがわかります。
 資料館の中で、ミニチュアを見つけました。
 当時の様子を空から見たら、こんなふうになっていたのかもしれません。