戦国エピソード集 

信長大蛇を探す。

信長が清洲城にいた頃の話。ある冬の日「あまが池」で顔は鹿に
似て目は光って舌が真っ赤な大蛇を見たという人がいた。
信長は、その噂を聞くと村人に池の水を水くみおけでかき出すように
命じた。池は、当然なくならず信長は自ら、池に飛び込んで
大蛇を探したが、結局見つからなかったという。
この話は、「信長公記」にかかれている。

光秀、大黒像を捨てる。

光秀が、朝倉義景に仕える少し前の話である。
越前の東江川で、流れてくる大黒像を見つけた光秀はそれをとりもって帰った。
信心深い光秀は、家に置き拝んでいたが、ある日その大黒が千人の長ということを知った。
すると光秀は、「たった、千人の長なら拝むほどのものではない」と大黒像を捨ててしまった。

黒田官兵衛は、子より野望が大事だった!?

ヶ原の戦いが終わって約2ヶ月後の話。
黒田長政は、中津に戻り父黒田官兵衛孝高(よしたか)又は、如水と対面した。
長政は、関ヶ原の戦いで小早川秀秋や吉川広家を内応させるなど大活躍を見せた。
長政は、官兵衛に家康が自分の手を取り、なんどもお礼を述べたことを告げた。
官兵衛は、喜ばずに「そのとき、内府(家康)はお前のどちらの手を取った?」と尋ねた。
すると、長政は「右手でした。」といった。官兵衛は、「その時、お前の左手はどうしていた?」
といった。これは、なぜ左手で家康を殺さなかった?という意味である。
そうすると、当然長政はその場にいた家康の家来に殺される。それほどまでに、官兵衛の野望は大きかった。


元親の初陣

戦国時代四国のほとんどを統一した長宗我部元親だが、幼少の時はとてもおとなしく「姫若子」とあだ名されていた。
18歳の時に初めて、「兵理」を教えてもらったという。
元親の初陣は、22歳の時である。信長の初陣は、14歳、遅い初陣である。
戦った相手は、本山梅応である。しかし、初陣というのは普通、簡単に勝てるような戦をさせるのがよいといわれている。
元親の場合は、味方5百あまりに対し、敵2千である。
4倍近い兵力差である。この場合、よっぽどの事がない限り勝てない。
さらに、元親は初陣である。どう考えても勝ち目はない。
しかし、元親はこの戦に勝ち、自らも2人を突き伏せる等の活躍を見せた。
この戦い後、「姫若子」のあだ名は「鬼若子」とかわり、恐れられたという。

元親秀吉にクジラを贈る。盛親、寺子屋で働く。

ある時、浦戸湾で巨大なクジラが捕れた。長宗我部元親は、それを秀吉に贈るように命じた。
このクジラは、船を何十隻も並べた上に乗せられて大坂まで運ばれていった。
秀吉も驚いただろうが、まるごとクジラを贈ろうと考えた元親には驚く。

盛親、寺子屋で働く。

長宗我部盛親は、関ヶ原で西軍についたため領土を没収され京に住んでいた。
盛親は大岩祐夢となのり寺子屋師匠をして、生計をたてていた。
寺子も師匠が、まさかかつて大名だったとは思わなかっただろう。
しかし、少し前まで大名だった盛親が大坂の陣まで14年もの間、寺子屋師匠を続け生計をたてられたというのはすごい。

信は、子供の頃から戦好きだった!?


謙信が、虎千代と名乗り林泉寺にいた時の話である。
謙信は、山城の模型をつくり、城をせめる人形と守る人形にわけて
お互いに戦わせる遊びが好きだったという。
どのように、戦わせるのかはよくわからないが、謙信はこの頃からすでに戦好きだったようである。
ちなみに、小学生の頃から歴史(主に戦国時代)が好きだった私も
謙信と似たような遊びをしていた記憶がある。

義弘と膝付栗毛

元亀三年(1572)、島津勢と伊東勢が戦った木崎原(きさきばる)の戦いの時のことである。
それより先、島津方の島津義弘はある夢を見た。
その夢というのは、自分の乗っていた馬が足を折ってしまったという夢だった。
義弘は、不思議に思って菊一という盲僧に占いをさせた。
すると、それは次の合戦に勝つというお告げであるという。
それは、馬が足を折ったなら当然馬から降りなければいけない。
馬を降りると言うことは、歩くことになり、歩くことは徒歩(かち)なので勝ちとなるという。
そして、木崎原の戦い。義弘は伊東家武将の柚木崎(ゆきさき)丹後の守が逃げようとするのを見つけた。
義弘は、丹後の守を呼び止め勝負を挑んだ。
しかし、丹後の守は馬から落ちてしまった。
義弘は、すかさずとどめを刺そうとするが馬に乗っているために届かない。
そのとき、義弘の乗っていた馬が前足の膝を折り曲げ地面についたのである。
そのおかげで、見事義弘は槍で丹後の守を討ち取ることができた。
その馬はその後、栗色の毛であったので膝付栗毛と名付けられ大切に育てられたという。
なお、この馬の墓は鹿児島県の帖佐(ちょうさ)という場所にあり
今でも参拝者が少なくないという。


謙信、家来を家康に贈る!?

越後に阿修羅といわれた猛将がいた。
その名は、山本帯刀(たてわき)である。
この武将は猛将中の猛将で、戦の時も自分が最後でなければ戻ってこず、討ち取った首をも捨てていた。(これは、討ち取った証拠にならないために恩賞がもらえない。)
この猛将、実はあの武田の名軍師、山本勘助(道鬼)の実弟である。
しかし、帯刀は甲斐の実兄勘助方の武田と戦うときでも、働きに変わりはなかった。
それを見た謙信は、それを哀れに思い帯刀を徳川元康(後の家康)に末永く大事にして欲しいと、元康に遣ってしまった。
謙信は、家康が家臣を大事にしていることを見ぬいていたのであろうか。
その後の、帯刀のことはよくわからない。


一番美味いものは塩!?

家康の側室の中に、お梶の方という女性がいた。
ある時、家康が本多忠勝らの家臣と話をしている途中、話題が「何が一番美味い食べ物で、何が一番まずい食べ物か」という話題になった。
いろいろな意見がでた後、その場にいたお梶の方に意見が求められた。
お梶の方は、一番美味いものは塩、一番まずいものも塩と答えた。
わけを聞くと、料理の味は塩の加減(この当時の調味料は、ほとんど塩のみであった。)によっていくらでも変わるからだという。
これを聞いた、家臣達はお梶の方が男なら、さぞ名将だったろうにと嘆いたという。


松永久秀125歳まで生きると宣言。


下克上の代表格の松永久秀。
実は、125歳まで生きると宣言したことがあった。
それは、久秀が鈴虫を飼っていたときのこと、ふつう鈴虫の寿命は1年とされているが、久秀が丹念に養ったため、3年間も生きることができた。
そこから、人間も養生すれば長生きはできるといい、俺も養生し125歳まで生きるといったという。
しかし、あんな生き方をしていながら、125歳まで生きると宣言するとは驚く。


山内一豊、口臭を気にする。

豊臣秀吉が、信長の命令により三木城を攻めていたときのこと。
一豊は、その包囲軍の将であった。
ある時、家来が焼いた大根を持ってき、一豊に差し出した。
当時、陣中での大根はごちそうであった。
しかし、一豊は家来にその大根を持って帰らせた。
その時、一豊はその家来に「これから、秀吉様のもとへいく予定がある。大根を食べ、秀吉様に口臭をかがせては失礼であろう」といったという。
口臭まで気遣う、秀吉に対する一豊の心配りがよくわかる。


大政所、顕如を拝む


ある時、秀吉の母大政所(なか)は、本願寺顕如(光佐)と対面した。
といっても、この時大政所と名乗っていることからわかるように、地位的には大政所が上である。
だが、大政所は顕如が出てくるやいなや、阿弥陀を拝むように手をあわせてありがたがった。
地位が高くなってからも、大政所は信仰心があつく、農民の時の気持ちであり続けていたのである。




小百合伝説


佐々成政の側室に、小百合という絶世の美女がいた。
彼女は呉服山の麓、呉服村の豪農、奥野与左衛門の娘で成政が領内巡視をしたときに見いだされた。といわれている。
あるとき、徳川家康を説得するため極寒の立山越え(さらさら越え)をしたおり、小姓の竹沢という男が病を称して一行に加わるのを拒んだ。
さらさら越えから帰った成政の耳に竹沢と小百合の密通の噂が入った。
じつはこれ、小百合が寵愛されるのをねたんだほかの側室達の仕業なのだがそれを知らない成政は激怒。
竹沢を庭に呼び出すと刺殺。
そして小百合を巻いて引っさげ、神通川の川沿いの榎にくくりつけ、惨殺した。
そのあとも一族18人の首を刎ねさせた。 その小百合の死ぬとき、こういったという。
「おのれ成政。この身はここに斬罪せらるるとも怨恨は悪鬼となり、数年ならずして、汝が子孫を殺しつくし、家名断絶せしむべし」 (参考文献 佐々成政〜悲運の知将〜の実像 遠藤和子著 サイマル出版会)
しかし今では、この伝説はうそだったことがわかっている。その第一人者が遠藤和子氏だ。

※この文は、越中中納言さんによるものです。越中中納言さん、投稿ありがとうございました。


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