戦国ホントの話
 
本当の辞世
「露と落ち露と消えぬる我が身かな浪華のことは夢のまた夢」これは、皆さん知ってのとおり秀吉の辞世である。しかし、これは実は11年前聚楽弟が完成した際に詠んだものらしい。それを、死の床で幸蔵主尼に命じ、取り出させて辞世にしたものだという。本当の辞世は、「露と散り雫と消ゆる世の中に何と残れる心なるらむ」という。11年も前の句を辞世にするとは、秀吉はこの句をよっぽど気に入っていたのであろう。
 
幸村は、嫡男だった。
信幸(之)と、幸村(本名信繁)は、共に山手殿が生母で、信幸の方が1つ年上だということになっている。しかし、実は幸村の方が早く生まれていたのだ。しかし、幸村の生母は、山手殿ではなく身分が卑しい女だった。そのため、1年後に山手殿が生んだ信幸を長男とし、幸村はその1年後に山手殿が生んだことにした。その証拠に、信幸の幼名は、源三郎、幸村の幼名は源次郎である。こういう例は、あまり珍しくなかったらしく、信長の三男信孝も実は、次男信雄より先に生まれているが、信孝の生母が卑しい身分のため、三男ということにされた。

※この説は、異論があり確定とまではいえません。

「滝川一益」の読み方。
「滝川一益」、信長の家臣で伊勢攻めや関東の平定に活躍した人物である。
ところで、皆さんは「一益」をどう読んでいるだろうか?
おそらく、「かずます」と読んでいる方の方が多いのではないだろうか?
しかし、これは間違いで本当は、「いちます」である。
他にも、漢字の読み方が間違っているのが多いのは、尼子(あまご)、雑賀(さいか)等であろうか。
また、宇喜多家重臣の「明石全登」とう武将がいるが、「全登」の部分の読み方が歴史家によってバラバラであるのがおもしろい。
簡単に、「ぜんとう」と読んだり、「たけのり」、「てるずみ」としていた本もあった。

生きていた豊久!?
関ヶ原の戦いは、三成らの敗走により東軍の勝利に終わった。
しかし、関ヶ原にはまだ西軍が残っていた。
薩摩島津軍団である。
義弘は、敵中突破を行い薩摩に戻っていった。
その時の話である。あの、兵法の家久と言われた島津家久の息子島津豊久は、義弘の代わりに影武者となることを決断した。
そして、本多勢によって討ち取られてしまった。

しかし、実は豊久はまだ生きていたのである。
そばにいた、手傷をうけて倒れていた兵達は豊久を運び集落へと行った。
兵士達は、七軒ある家を一つ一つ尋ねていったが、中に入れてくれる家はなかった。
結局、豊久は重傷を受けていたために死んだ。
その後、七軒の集落は栄えることもなく七軒のままで明治まであった。
これは、豊久や兵士の祟りだという。

忍者に「クノイチ」は、存在しない。

よく、時代小説などにでてくる、女の忍者「クノイチ」と呼ばれているが実は、忍者に女性はいなかったらしい。
ただ、敵方の女中を操って工作することを「クノイチの術」といったという。


秀吉には、近江時代に2人の実子がいた。

秀吉は、淀殿と以外は子供はいなかったという。
しかし、あまり知られていないが実は、近江時代に最初の子供が産まれている。
産んだ母の名は、南殿といい、子供の名前は秀勝という。
しかし、秀勝は早く死んでしまった。
その後、また南殿が子供を産む、女子であったというがこちらも、早く死んでしまった。
秀勝が、産まれたとき秀吉は大いに喜んだらしく、金銀を長浜の町民らに与えたという。
秀吉は、秀勝という名前がよほど気に入ったらしく、後に2人の養子に同じ秀勝という名前を与えている。
近日、どうやら秀勝の墓らしきものがみつかり、秀勝の存在が立証されたようである。


戦国物語に戻る