戦国異説
通説のみが正しいとは限りません。
ここでは、通説とは違う戦国の異説について紹介します。


異説@秀吉は中国大返しの時、船をつかった?
1582年(天正10年)本能寺の変により、信長は自害し、秀吉は信長の仇を討つため毛利と和睦し中国路を驚くべき速さで返した。
これを、中国大返しというが、実は、これに秀吉は船を使ったという説がある。
秀吉は、1日で約40キロを走りぬけたうえ休む間もなく光秀と戦っている。
しかし、1日で40キロを走りぬけるのは至難な技であり、さらに鎧や兵糧などの荷物もあるなかでの行動は不可能ではないかと考えられたのである。
そこで、浮かび上がった説が、その時に秀吉は海路を使ったという説である。
確かに、これならこの速さも納得がいく。
その時船をどこから調達したのかが問題だが、地元の海人族(あまぞく)とよばれる者達の協力を得たらしい。
記録的にも秀吉軍の移動したのは湾岸沿いであり、秀吉の活躍をたたえるために陸路を驚くべき速さで返したことにした、というのである。
しかし湾岸沿いを移動したのは最短ルートであるし、その時は織田信孝・丹羽長秀らが四国へ攻め入りを延期するほどの暴風雨であり、海は荒れていたものと推測される。
そこに、何万もの兵を移動させるのは不可能ではないだろか。
ただし、秀吉やその重臣、又は食料の手配などをするための一部の兵に対して船をつかったことは十分に考えられることである。


異説A石川数正は、家康のスパイだった?
秀吉は、家康の勢力をそぐべく、家康の家臣らに、ダメもとで内応工作を進めていた。
そんな時、秀吉に内応した大物武将がいた。
徳川家重臣、石川数正である。
これは、今までに様々な史家から疑問視されていた。
なぜなら、石川数正は当時、酒井忠次と並ぶ重要な存在であり、三河武士は忠義者で知られているからだ。
そんななかで浮上してきた説が、実は数正は家康が送り込んだスパイであったという説である。
しかし、これはおかしい。
家康がスパイに送ったとしたなら、何故わざわざ重臣である数正を送ったのであろうか。
むしろ、重臣なら秀吉に疑われかねない。
実際、秀吉は数正にそこまでの高禄を与えずに警戒していた。
また、家康は数正が去った後あわてて戦法を全面的に旧武田式にしている。
数正が、スパイなら秀吉にはあやまった家康の戦法や戦力を伝えるはずであり、部分的にとりいれるならまだしも、全面的に旧武田式に変える必要はない。
数正が家康のスパイだったという説は、家康は名君で裏切られるような人物ではない、と思いたい気持ちが生んだ説であろう。

異説B信康を殺させたのは服部半蔵の謀略!?
1579年、武田方に内通したとして織田信長は、徳川家康の長男・信康を切腹においやった。
しかし、これには多数の疑問点がある。

@信憑性高い「信長公記」に、このことが一切かかれていないこと
A信長の問いただしをうけた、徳川家重臣・酒井忠次がほとんど弁明しなかったこと
B1579年は、武田家が滅びる3年前であり信康が内応するなどありえないこと
C徳川家だけには気をはらった信長が、家康にこのようなことを命じたこと
などである。
では、なぜ服部半蔵が信康を殺す必要があったのか。
これには、複雑な血縁関係が関わってくる。
実は、秀忠の母は服部一族の女であった。
家康は次男の秀康を早くから嫌悪しており、信康さえ死ねば秀忠が家督をとるとみていた。
しかし、半蔵にも言い分はある。信康は、かねてから家臣達に対し冷たい態度をとっていた。
実は、これが上のAの理由でもある。忠次も信康を嫌っていたのである。
おそらく、信康は半蔵に対しよっぽど酷い仕打ちをしてしまったのであろう。
信康は結局切腹することになるが、その時服部半蔵が介錯人として来ている。
この時、信康が腹を切った後に半蔵は涙を流し「拙者には、若の首を斬ることなどできぬ・・」といって介錯をためらったという。
信康の方はたまったものではない。死にきれずに、もがき苦しんだ。
そこで、副使として来ていた天方道綱がかわりに介錯したという。
この話が浜松城内にも広がり、「半蔵は冷血な男とばかり思っておったが、やはり主君の首は斬れぬか・・」と同情的な意見が多かったというから、この説が正しいなら皮肉もいいところである。
ちなみに@の理由を説明するために、実は家康自ら信康を死に追い込んだ、との説もある。




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