戦国珍事件     
                                     
蛇に2回かまれた不運な男
ある時、山本又助という足軽が山道を歩いていると、ヤマカガシが足下にいたので驚き飛び退くと、そこに蛇がおりふくらはぎをかまれた。
かまれて、また飛び退くとさっきのヤマカガシにかまれてしまった。


髭がもとで殺し合い
天正ごろ、小田原城下で、北条家家臣の岩崎嘉左衛門と片井六郎兵という武将がいた。
その二人が、「貴殿は髭が生えておらんのう。」と笑ったことから二人は刺し違えるという事件が起こった。
髭が武将にとっていかに大事だったかがわかる。


17名で稲葉山城落ちる。       
1564年2月6日のこと、あらがじめ、斉藤家家臣竹中半兵衛重治は弟の久作に仮病をつかわせておいた。
そしてこの日、久作の見舞いと表して部下らを率いれ城内に侵入した。そして、奇襲をかけた。しかも、半兵衛の舅で、西美濃三人衆と表された一人安藤伊賀守守就まで、裏切った。
そして、ついにわずか17名で城は落ちた。
その後、信長に美濃半国を与えるから城を明け渡すよう要求するが、これを拒否した。
しかし、突如として斉藤龍興に城を返している。半兵衛が、城を乗っ取ったのはいじめられたから(小便をかけるなど)からとも龍興を改心するために起こしたともいう。


猫放し飼い令
1602年8月京都所司代、板倉勝重が猫放し飼い令をだした。
これは、猫を放し飼いにしなければ罰するというものである。
これは、京で鼠が多くおり害を及ぼしていたためにである。
実際、効果はあったらしい。


鳥集め作戦
1594年秀吉は、薩摩の大名島津義久と出羽の大名安東愛季に、領内の鳥を鉄砲で脅かすように命令した。
日本の、東西から鳥を脅かし真ん中の畿内にある秀吉の、狩り場に集合させるためである。
秀吉らしいすごい考えだが、もちろん失敗に終わっている。


お礼は鉛と火薬
1590年小田原攻めの時である。
秀吉の軍師黒田官兵衛(如水)は、籠城軍に降伏を勧めていた。
そして、酒や肴を贈っていた。これに感激した北条方は、「これでこの城を攻撃されよ。」と、鉛と火薬を贈っている。
他に贈るものがないからといって鉛と火薬を贈る度胸はすごい。


味方の具足を奪う!
1600年、関ヶ原の戦いの時、西軍についていた島津軍はわずか200人ほどしか兵が集まっていなかった。
島津義弘は、兄の義久に援軍を要請するが、先の朝鮮出兵や、伊集院忠真の荘内の乱等のため兵を送る事が出来なかった。
しかし、島津豊久などが義弘を助けるために無断で義弘のもとへむかっていた。
その時、中馬大蔵(重方)という武将は畑にいた。
大蔵も義弘のもとに行こうとするが具足をもってきていなかった。
しかし、畑は家から離れており具足を取りに行くひまがない。
すると大蔵は、走りぬいて行く味方の兵から具足を奪い義弘のもとへと行った。いくら具足がなかったとはいえ、味方から具足をとるとはすごい。
奪われた味方の兵はどうしたのであろうかと思うのは、私だけであろうか。
ちなみに、この中馬大蔵は私の祖先にあたる武将である。

この肉は俺達のものだ!
これもまた、関ヶ原の時の中馬大蔵(重方)の話である。大蔵は、義弘のもとへたどり着いていた。
義弘は、この戦いで敵中突破をするのだが、敵中を突破して退却しているときの話である。義弘は駕籠(かご)に、担がれていた。
その時、義弘を担いでいた一人が、大蔵である。
駕籠を担いでいた一人が、義弘に肉を与えていた。大蔵はそれを見て、「担がれている殿が肉を食べるのは間違ってい
る。むしろ、肉を食べるのは殿を担いでいる俺達の方だ。」と、怒ったという。
殿にむかって、ここまでいうとは・・・。
しかし義弘も、義弘でそういう大蔵を咎めもしなかった。


高楼より飛び降りる
長宗我部国親が、幼少だったときの話である。
そのころの、長宗我部家は三好氏らに攻められ領土を失っていた。

そのため、国親は一条房家にかくまわれていた。
ある時、房家は千雄丸(国親の幼名)に高楼から飛び降りれば長宗我部家を再興してやると言った。
今でいう、小学生になるか、ならないかの年である千雄丸はそれを真に受けて飛び降りてしまった。
どのくらいの高さかは、わからないが家の再興を約束しているのだから、怪我をせずには飛び降りれない高さということは推測できる。
房家は、驚いたが、約束どおり千雄丸が元服後岡豊(おこう)城を与えた。

経久の悪いクセ
尼子(あまご)経久は、中国地方に覇を唱え十一もの国を領土とした、大大名である。
この経久には、悪いクセがあった。
経久は、家臣などが自分の持ち物をほめると、それを「それほど、気に入ったならお前にやろう。」と書画だろうが太刀だろうがほめた人に
あげてしまうのである。
ある時は、松の樹まで与えている。
このため、家臣達は経久の前で物を誉めなくなったという。

とんだ災難、浅野長政
1599年、徳川家康は9月9日の重陽の節句に「賀意を秀頼に述べる」という名目で、大坂城にはいりこみそのまま居すわる、計画を立てた。
しかし、賀意を表するだけならあまり多数の兵を連れて行くことが出来ない。
少しの兵では、安心できない家康はある謀略を考えた。
それは、自分の暗殺を企てているという噂を流し、それを理由に多数の兵を連れて行くことである。
問題は、誰が企てたことにするかである。家康は、大野春長と土方雄久(ひじかたかつひさ)が企てていることにした。
しかし、噂というものは様々な形に変化していくものである。
奉行の増田長盛らが家康に、この噂を伝えるときには、なぜか親家康派である浅野長政の名がはいってあった。
親家康派の長政が何故はいったのかわからないが、家康はやむを得ず長政を軽い罪にかけた。
長政にとっては、とんだ災難であろう。


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