戦国珍事件     

島津家の危険な宴会
この宴会はおそらく戦国時代から始まったと思うが、こういう宴会はたびたび行われていたらしい。
島津の武士達の宴会では、円を描くように座りその中心の、天井には弾丸が入った火縄銃がつるされている。
何に使うかというと、宴会の途中に火縄に火をつけるのである。
火がついた、火縄銃は推力の働きで回り始める。
そして、火縄が燃え尽きると弾は発射する。
下手すると、怪我どころか死に至ることさえある。
しかし、島津家は戦場でおびえることのないように、このような宴会をしていたという。
さすがに、義久や義弘など大名が参加することはないだろうが、危ない宴会である。

清康の無念
清康とは、徳川家康の祖父で天下をとるとまで言われた名将、松平清康のことである。
天文四年(1535)12月。清康は7千ほどの兵を率いて尾張の織田信秀と戦うために、三河と尾張の国境あたりまできていた。
その時、阿部大蔵という家臣が内通しているとの噂が流れていた。
しかし、忠義深いことで有名な三河武士である。
阿部大蔵も、内通などしていなかった。
これは、おそらく信秀が流したのであろう。
阿部大蔵は、息子の弥七郎を呼び起請文を渡し、もし大蔵が死んだならばこれを清康に渡し疑いを晴らして欲しいと頼んだ。
そして、それでも疑うならば自害せよと命じた。
しかし、こんな時に不運にも本陣あたりで一頭の馬が暴れ出して、騒ぎとなった。
これを、遠くから見た弥七郎は父が殺されたと勘違いし、起請文を出すどころか、大いに怒り清康を殺してしまった。
天下をとるとまで言われた清康のあっけない最後であった。
まだ25歳という若さであった。
信秀にしてみれば、阿部大蔵を殺させるのがねらいであったのにそれが原因で、清康が死んだのだから大いに喜んだであろう。


秀吉の失敗
秀吉は、降伏した兵を多数死亡させてしまったことがあった。
それは、1581年の鳥取城攻めの時である。
秀吉は、鳥取城を兵糧攻めにし、ついに城主吉川経家は自らの死を条件に降伏を申し入れた。
しかし、降伏した兵のなかに飯を食べた後、多数の死亡者がでた。
なぜ、死亡者が出たのか。
それは、降伏した兵のほとんどは飢えに苦しんでいた。
兵の、胃はかなり弱っていた。
普通は、おかゆ等から食べ
ていき、徐々にならしていくのだが、秀吉はいきなりふつうの飯を食べさせたために、多数の死亡者が出た。
秀吉が、故意にやったとは思えないが、何故誰も気づかなかったのであろうか。

家康、平将門で江戸を守る!?
秀吉死後、家康は秀吉の怨霊をひどく恐れたらしく、いくつかの神社を鎮座させている。
その神社の一つに、神田明神があるのだが、この神田明神は、平将門を祭っている神社である。
なぜ、この神社を鎮座させたかというと、平将門は強い怨霊として有名で、当時日本では、祟りを起こす霊を祭れば、祭った者を守る働きをするという、考えがあったからである。
だから、家康は強い怨霊の平将門を祭り、秀吉の怨霊から江戸を守ろうとしたという。
しかし、家康は源氏を名乗っておりながら、平氏を祭るという奇妙な組み合わせがおもしろい。


「掃除が役目!?」の武将  
武田信玄の家来に、岩間という者がいた。
この岩間、武士のくせに、戦が大嫌いで、戦場に行くたびに、「死にたくない」と叫んでいた。
これを、見た周りの武士は信玄に、この武士を血祭りにあげるように進言するが、信玄はこんなやつでも、いつかは役に立つであろうと、進言をとりさげた。
そして、次の合戦。
信玄は、岩間に留守居役を命じた。
合戦から帰ってくると、館がきれいに掃除されていた。
普段は、留守番はだらけているはずなのだが、留守番の者にわけを聞くと、岩間が、とても厳しく指導していたためだという。
信玄の、人使いの巧さがよくわかる。

92歳の武将が出陣!?
龍造寺家兼は、あの九州の雄、龍造寺隆信の曾祖父にあたる人物である。
この、家兼なんと92歳で出陣したことがある。
それは、馬場頼周(よりちか)を倒し、失地を回復しようとしたときのことだった。
その時、家兼の子、さらには孫まで戦死をとげていた。
しょうがなく、92歳の家兼が出陣することになった。
しかし、この92歳の家兼、頼周をやぶり見事失地を回復した。
その翌年、家兼は、病死するのだが、竜造寺家は曾孫の隆信がつぎ、後に、九州3大勢力の一つにまでのしあげていく。


福島正則、敵に後ろをみて逃走!?
賤ヶ岳七本槍の1人として、猛将という言葉が、まさにピッタシである、福島正則。
しかし、この正則でも後ろをみて逃走までさせる者がいた。
その人物とは、正則の妻である。
正則が、他の女と仲良くしていたらしく、正則が家に帰ってくると、いきなり正則の妻が、長刀をもって斬りつけた。
しかし、そこは歴戦の勇士、なんとかかわすと、一目散に逃げていった。
正則は、後に「俺は、初めて敵に後ろを向けてしまった。しかし、女の嫉妬は本当に恐い。」といったという。


松永久秀、”初めての恐怖”
久秀が、多聞山城城主の時の話。
そのころ、多聞山城に果心居士(かしんこじ)という幻術師がいた。
ある時、久秀が「俺は、生まれてから1度も、恐怖を体験したことがない、お前の幻術で俺に恐怖というものを、教えてくれ。」といった。
すると、部屋を薄暗くし、外も月は曇り、雨がふりだした。
そして、1人の髪の長い女が久秀の正面に座った。
久秀は「お前は誰だ。」と聞くと、その女は、それには答えず「お話でもいたしませんか。」といってきた。
その声を聞いた、久秀は驚いた。
その女が、何年か前に死んだ妻であったことがわかったからである。
久秀は恐怖し、果心に「もうやめよ。」といった。
その後、しばらく久秀は震え続けていたという。

半兵衛激怒!なぜ、小便をもらさなかった。
ある軍議中のときの話である。
あるものが、小便に行きたくなって席を立った。
もどってくると、半兵衛は「どこにいっていたのだ?」と言った。
その者は、小便にいったことを伝えると、半兵衛は怒り「なぜ、その場で垂れ流さなかった、戦場でいちいち小便にいっていては、戦ができぬであろう!」
と怒鳴りつけたという。

妖怪を食べ損ねた!?
家康が、将軍職を秀忠に譲り、駿府に移り住んだころの話。
ある武士が、手があるのに、指はなく、天を指さす子供を発見した。
その武士は、気味が悪くなりその子供を、追いだしてしまった。
その子供は小山に、逃げ帰ってしまった。
その話を聞いた、ある人はそれは封(読みは「ほう」で、肉人ともいわれる)という妖怪で、その妖怪を食べると、武勇に優れることを、武士に教え、なぜ家康様に食べさせなかったのか、あるいはなぜ家康様を守る、お前達が食べなかったのか、と大変残念がったという。
妖怪が人間を食べるという話は、よく聞くが
、人間が妖怪を食べるとは驚きである。

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