栄塾通信 第1信 「栄塾開塾にあたって」


   たちは今、少しも浄化されない社会のおおきなうねりに翻弄されながらも、ささやかな幸せを求めて忙しく必死に生きています。こうした社会に抗することができず、身近なところ(家庭・学校など)での人間関係も満たされることのない若者の一部が、暴力(ナイフ事件)と性(援助交際)に走ったと思われます。

   そして、目の前の生徒たちのおかれている今日の状況や心情を推し量っていくとき、誰もが「イラつく・ムカつく・キレる」に近い状態にあり、「普通の子」でも突然爆発する「地雷型」(踏んでみないと分からない)が多くなっているのも事実です。

   らは(生徒たちも)、みんな寂しいのです。日本の社会で、「聞く力」がどんどん失われつつある中で、みんな「聞いてもらいたい・分かってもらいたい」のです。愛され、幸せになりたいのです。そして、親も教師もまったく同じなのです。だからこそ、「親」とか「教師」という「役割」を全うしつつも、それ以上に一人の「生身の人間」として生徒と係わっていく事が、生徒と教師の双方から求められているように思います。そして、教師が自己変革し、人間として成長していこうとするときに、初めて生徒の成長を援助できるように思います。

   「教師」という「役割」を担ったとたんに、「使命感」から「あれも・これもしなければ」「生徒をこう指導しなければ」(もちろん、善意であり、教育効果ありと思ってやるのですが)の世界に入り込み、生徒も教師も窮屈になり、結局はは疲労と無力感だけが残るだけ、といった繰り返しが多かったように思います。それで最近は、「やればやっただけの効果はたしかにあるだろうがやらないことにも意義がある」ぐらいの開き直り(?)が必要だと思うことにしています。
「やらなければならない」ことよりも、「やりたいこと」を優先して、「生徒と係わりを持つこと」を大切にしたい、という思いです。


  「だかの学校は川の中、誰が生徒か先生か、みんなで仲良く遊ぶ・泳ぐ・お遊戯しているよ」

  「すずめの学校の先生は、ムチを振り振り・もう一度一緒に・まだまだいけないチイパッパ」

   私は、「めだかの学校」の先生でありたいです。川の流れに抗しながら、同じ方向に向かい、教師も生徒と同じ目線で同じことをやりながらも、時には前に出たり後ろにさがったりして、疲れたときは皆で川端でお休み−−−−

   子ども達を信じ、こんな関係を目指して、毎日の学校生活を送っていきたいと考えています。

2001(平成13).8.25


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