今週の一言


平成15年4月13日〜4月19日

4月13日〔日〕巌流島の決闘(1612) 慶長17年(1612)4月13日、二刀流の使い手・宮本武蔵と燕返しの名手・佐々木 小次郎の決闘が、山口県の船島で行われました。 この船島は現在、小次郎の別名・巌流を採って「巌流島」とも呼ばれていま す。下関の先の造船所のある彦島の東側に浮かんでいます。昔はその名の通 り船の形をしていたそうですが、今は埋め立てによって全く形が変わってし まっています。 決闘は武蔵がわざと遅刻して、小次郎がそれに怒り冷静さを失っている所を つかれて、やられてしまったと言われます。小次郎が、さっさと行くぞ、と 言って刀の鞘を投げ捨てると、それを指して武蔵が「小次郎敗れたり」と言 い「勝負のあと刀を納めるべき鞘を捨ててしまったのは、もうそれに納めら れないということだ」と指摘して、更に小次郎の動揺を誘ったといいます。 腕にそう差がない場合、こういう心理戦の比重というのは大きいのかも知れ ません。 宮本武蔵は天正12年(1584)美作国宮本村の生まれ。幼名は弁之助といったと いいます。13歳の時以来、生涯60回以上の果たし合いを行い、一度も敗れま せんでした(まぁ敗れたらそれで死んでいるわけだが)。 特にこの小次郎との対決と、京都での吉岡一門との対決は有名です。 寛永17年(1640)肥後の細川忠利に召し抱えられ、寛永20年には「五輪書」を 著しました。 正保2年(1645)5月死去。
4月14日〔月〕タイタニック事故(1912) 今から87年前の1912年4月14日23:40、北大西洋を航海中の豪華客船タイタニッ ク号(46,000t)が巨大氷山と衝突、翌15日の2:20沈没しました。この時世界で 初めて「SOS」の電信符号が使用されたといわれます。 このタイタニック号は当時の技術の粋を集めて作られた絶対に沈まないはずの 船で、前年1911年の5月31日に進水、この事故はイギリスのサザンプトンから アメリカのニューヨークへ向かう処女航海中のできごとでした。乗客乗員は全 部で2208人。この内1513人が死亡します。 この事故の生存者の最後の生き残りとなったのはイギリスのイーディス・ヘー ズマンさんで1997年の1月20日に亡くなりました。100歳でした。 この事故はどんなに安全と思って作ったものでも設計時の予想を遙かに越える 自然の脅威にさらされれば無事ではない、という今更ながらの自然の摂理を再 確認させてくれるようです。 このタイタニック号についてひとつ怪しげなエピソードはこの船がエジプトの ミイラの棺を運んでいたという話です。これはイギリスの大英博物館からニュ ーヨークの博物館にこの船を利用して輸送される途中だったのですが、これだ け多数の死者を出したにも関わらずなぜかこの棺だけはきちんと回収され、ア メリカに届けられています。この棺は現在はまた大英博物館に戻されていると のことです。 さて、この船に一人だけ日本人が乗り込んでいました。鉄道院副参事の細野正 文氏(当時41歳)で、鉄道事業研究の為ロシアに留学してヨーロッパ経由で帰る 途中でした。事故当時遺書も書いたようでそれが現存しているようですがとに かくも九死に一生を得て同年6月に帰国、その後数年して子供の細野日出臣氏 が生まれます。 これが実はミュージッシャンの細野晴臣氏のお父さんで、もしこの事故で正文 氏が死亡していたらYMOはなかったことになります。 なお、細野正文氏について、以前彼が無理矢理割り込んで救命ボートに乗った のではないか、という噂が流れたことがありますが、その後、それは別の東洋 人であったことが証明され、細野氏の名誉は回復しています。
4月15日〔火〕よいこの日 語呂合わせ
4月16日〔水〕金閣寺棟上げ(1397) 金閣寺は「日本国王」を自認した室町幕府三代将軍・足利義満が造営したもの です。 足利尊氏が設立した室町幕府は天皇が京都と吉野に2人立つという前代未聞の 異常事態の中でスタートしました。しかし吉野の南朝は吉野一帯付近以外には 実質的支配地域を広げることができず、幕府の仲介によって合一することにな ります。かくして1392年(元中9年=明徳3年)閏10月5日、南朝の後亀山天皇が北 朝の後小松天皇に三種の神器を譲り、ここに南朝が正統な朝廷であったことに なり北朝の後小松天皇が後亀山天皇に続く第100代の天皇に就任することにな って南北朝時代が終了します。 やっと統一がなされたといっても朝廷の権威の零落は甚だしく、足利義満は何 かにつけて朝廷よりも幕府の方が上であると印象づけるような行動を朝廷に対 して強要し、外交文書には自らを日本国王と記していました。義満がもう少し 長生きしていたらやがて朝廷を廃止して自らがそれにとって代わっていたかも 知れません。 その義満がいわば絶頂期の象徴として自分の邸宅北山第を、贅を尽くして改築 したものがこの金閣寺です。応永4年(1397)4月16日に立柱上棟式が行われまし た。むろん当時は邸宅として使ったもので、義満は一応応永元年に将軍を退い ていましたので、名目上は隠居所でしたが政治の実権はしっかり握ったままで したので、実質的にはここが政務を取る場所を兼ねていました。 しかし義満は応永15年(1408)わずか51歳で亡くなってしまいます。鹿苑院天山 道義の法号が贈られ、それにちなんで北山第は鹿苑寺と名付けられ禅寺になり ます。ここで将軍になってから14年もたってやっと政治の実権を得た四代将軍 義持は軟弱に自らを天皇の忠実な臣下たらんとし、結果的に幕府の権威を失墜 させ、応仁の乱の種を撒くことになります。 なお、金閣と並び称される銀閣は延徳元年(1489)足利義政が建立したものです。 取り敢えず応仁の乱は一段落したもののあちこちで戦乱が起き世の中は乱れに 乱れていました。金閣は権威の象徴として造られたものですが銀閣は本来なら 先頭に立って世の中の安定を図るべき将軍が現実逃避のために造ったもののよ うに見えます。
4月17日〔木〕家康21回忌法要(1636) 寛永13年(1636)4月17日、日光東照宮で徳川家康の21回忌法要が3代将軍家光 により、盛大に執り行われました。 徳川幕府を開いたのは徳川家康ですが、徳川250年の基礎を作ったのは家光 です。家光は慶長9年(1604)に生まれました。家康は慶長8年に征夷大将軍に 任じられており、そのことから家光は将軍に就任した時「余は生まれながら の将軍である」と宣言しています。 つまり家康・秀忠の2代は天下を取るため苦労し、多くの家臣に助けてもら ったから、それを恩義に感じてみんなを一種の戦友として扱っていたかも知 れない。しかし自分は生まれた時から将軍だったのだから、お前たちは自分 の臣下である。従って自分を絶対的な君主として仕えるように、と宣言した のでした。 その徳川の絶対主権の拠り所として、家光は祖父・家康という存在をうまく 使いました。東照神君・東照大権現と呼んで、家康の遺臣である天海上人を うまく使って、家康の神格化を進めます。そしてその家康を祭る日光の東照 宮に、寛永11年からこの13年まで3年がかりで巨費を投じて現在に残るあの 華麗な神殿を築かせました。
4月18日〔金〕発明の日(4.18) 4月18日は「発明の日」です。これは明治18年のこの日に「専売特許条例」 が公布されて発明の権利の保護と発明の奨励が行われるようになったことを 記念して昭和29年に定められたものです。また、この日を含む一週間は 「科学技術週間」とされています。こちらは昭和35年に定められました。 かつての柳家金五郎氏や最近の中松義郎氏など発明好き・発明が趣味という 人は世の中に多数いて、特許庁には毎日多数の特許や実用新案の申請がなさ れています。以前特許審査事務をしている知人から聞いた話では年間の特許 申請数は50万件だそうです。1日平均にすると1400件の申請が全国から寄せ られていることになり、これがハイテク日本を下から支えている訳です。 特許や実用新案の目的は工業振興にあります。もの凄いことを思いついた人 には特許を与えて15年間その権利を独占させる代わりに、その内容を公開し てもらい、広く一般の人がその技術を有料で利用できるようにして、国全体 の技術のレベルアップを図る訳です。 ですから誰かが特許を持っているからといってそれを回避する必要はなく、 その権利者と交渉して特許使用料を払って良質な製品を作るとともに、それ よりももっと凄いものを考案して新たな特許を申請する、また権利者も法外 な使用料を要求せずに自分の技術の普及を図る、というのが日本の特許行政 の考え方にあった思考といえます。 ですから実際には特許をとっても、それが本当に有用な技術であれば15年間 の特許期限切れまでそれが有効であり続けるのは異常であり、誰かがもっと 凄い物を思いついて自分にとって替わられる前に、自分ももっと凄いものを 考案して、新たな特許を取るというのが、発明家の王道といえます。 なお、この特許申請の審査事務をする人の数が絶対的に不足しているそうで す。基本的には申請の様式に問題がないかということと過去の特許や論文の データベースを検索して類似のものがなかったかをチェックする作業なのだ そうですが、だいたい毎週土日をつぶして仕事をすればやっていける作業量 だそうですからその分野の専門知識さえあれば通常の勤務とも両立できると 思いますし、興味のある方は特許庁に問い合わせてみるとよいかと思います。
4月19日〔土〕瓜生岩(1829-1897) 明治30年(1897)4月19日、瓜生岩(うりゅういわ,岩子とも)さんが亡くなり ました。 瓜生岩(子)は文政12年(1829)陸奥国耶麻郡(現在の福島県喜多方市北町)に生 まれました。 旧会津藩校日新館を再興し、また窮民救済事業として福島救育所・福島育児 院や済世病院を創設して、日本のナイチンゲールと言われました。 彼女の生誕の地には現在記念碑が立てられています。