備中松山城は山陽と山陰の間に連なる吉備高原の峰、臥牛山大松山(480m)に砦が築かれ、後に小松山(430m)に築城されてから750余年の歴史,その間に、秋庭、高橋、高、上野、庄、三村、毛利、江戸時代に入り小堀、池田、水谷、浅野、安藤、石川氏が代官、城主となり、最後の藩主板倉氏7代125年を経て幕末に至っている。
小堀遠州は備中松山城、御根小屋の修築を開始し、水谷三代の間に備中松山城の大改修が行われ、現存する天守、二重やぐら、門など近世城郭の全容が完成した。
またこの時代に玉島新田の開拓、高梁川の船運開発、玉島港改港工事などが行われた。備中松山城は中世の遺構を備えた近世城郭であり、日本の山城の典型とも言われ、天守閣が現存する唯一の山城で日本一高い所にある。
戦国時代の毛利・宇喜多連合軍と三村氏の戦いは「備中兵乱」として伝えられ、尼子氏の勇将山中鹿介の生涯を終えた地は市街地から近い。なお、元禄年間の浅野家家老大石内蔵助と水谷家家老鶴見内蔵助の備中松山城受取りの状況は二人内蔵助として世に知られている。また、幕末の備中松山藩主板倉勝静は老中首座として15代将軍徳川喜慶をよく補佐し、明治維新を迎えている。
城下町は、北方の備中松山城を中心に臥牛山麓の御根小屋周辺及び東方に武家屋敷、神社、寺院、西方に商人の町、職人の町が連なり、町割りに全体を一つの防御的性格を持たせている。武家屋敷(折井家)、商家資料館(池上邸)頼久寺及び小堀遠州作の庭園など時代が偲ばれる建築物が多い。明治になり現存する県内最古の高梁キリスト教会堂、国立第86銀行が設立され、それは現在中国銀行として発展している。これら伝統的建築物群の調査が終了し、現在町並み保存事業が進行し、古い蔵の保存活用のための整備も行われている。
幕末に藩主板倉勝静を補佐し、藩政改革を断行し成功させ、更に学問を普及した漢学者山田方谷、その薫陶を受けた新鶏渓の出身地であり、二松学舎大学を創設した三島中洲(現倉敷市出身)は備中松山藩士である。
ここは郭跡です。またここには上の太鼓の丸、中太鼓の丸、下の太鼓の丸と言って城から太鼓での合図を御根小屋へと送っていたそうです。 また、月に一度の登城中ここで休んだと言われています。景色もいいのできっと城下町を眺めて夢を巡らせていたのではないでしょうか? 奥に見える山の頂上には敵の侵入を合図する小屋があったそうです。
犬走りについて(武者走り)これは戦中に大手門を開けることなく裏門からはいって連絡を伝えるために一人がやっと通れるような斜面をに作ってある道のことです。 敵の兵が攻めて来たとき大手門の前で上にある櫓から狙い撃ちにしたそうです。
大手門を入ると城の防御のために枡形に九十度曲がっています。ここは三の丸から見ると敵の数が一目で何人入ってきたかが分かるようになっています。それから扇の勾配と呼ばれる美しい石の並びが見られます。石積みについてですが全体の積み方を算木積み、上方の角を雨落としと言い、忍者など人が容易に登れないようにしています。またこの城の特徴として自然の岩を利用した山城であるという点です。写真で見ると分かるように大きな岩の上に塀があります。
三の丸についてですが、ここはいざ戦いが始まると多くの兵が集まり城の守りを固めるために重要なポジションを占めていました。
二の丸について
本丸は現在修復中です。ですので修理が終わるまでは入城料はいりませんとのことでした。
ちなみに通常の入城料は小中学生が一人150円、大人〈高校生を含む〉では300円です。団体については、責任者が引率する30人以上100人未満は所定料金の一割引、また責任者が引率する100人以上からは所定料金の2割引です。