
東武東上線鶴ヶ島駅を出て川越駅で降り、JR川越線の八王子行きに乗り換えた。川越線は高麗川まででそこからは八高線ということになるがこのまま拝島駅まで行く。そこで再び乗り換え、青梅線で終点の奥多摩まで行くのである。
久しぶりに日原の民宿のおいちゃん、おばちゃんに、日原川のイワナやヤマメにも会いたくなった。急に思い立って電車に飛び乗ったのは6月のある日曜日だった。
川越線車内の向かい側の席には、年配の外人夫婦らしき二人ずれが座っている。男の方はまるでビヤ樽みたいな体型でカンジュ−スを飲みながら盛んに隣の女性に何か文句を言っている。女性の右手はポテトチップスの袋と口の間を休みなく行き来しており一切男の話は聞いていない。ポテトチップスの粉が汚く周りに散っている。
それにしても車内が異常に寒い。冷房の効きすぎである。JR東日本は真夏でもないのになんでこんなに冷房をきかすのだ。腹が立つ。
八高線の金子駅あたりに来ると茶畑が目につくようになる。狭山茶の産地である。しかし、最近はダイオキシン問題が起こりこの辺りも騒がしくなっている。俺は茶が好きで毎日のように飲んでいるが大丈夫なんだろうかと心配になる。
今回もカメラを持ってきたが、最近はカメラのシャッタ−を切ることが楽しくなってきた。出来上がった作品を見る楽しさよりもカメラを持ち歩き、気に入った景色にカメラを向けシャッタ−を切ることが楽しくなってきた。今回も安いコンパクトカメラを1台もって来た。それにリバ−サルフィルムを入れてきた。
拝島で奥多摩行きの電車に乗り換えた。接続がうまく行かない時は30分以上もこの駅で待つことになる。今回はうまくいった。待ち時間はほとんどなかった。飛び乗った電車の向かい側の席には3〜4歳の子供を連れた親子ずれが座っている。父親の手元を見ると、ミノルタのXDらしいカメラを持っている。今はもう製造されていないがXDはいいカメラである。いいなぁと思う。父親は外の景色を写しているのではない。盛んに息子さんばかりを撮っていた。
青梅駅を過ぎ、石神前駅辺りに来ると持って来たPHSの電波が入らなくなった。随分と都会から離れたもんだ。周りの景色はというと、近くの山は濃くはっきりと見えるのに遠くの山々はモヤがかかったように灰色に霞んで見えるようになってきた。その遠くの灰色に滲んだ山々を見ながらぼんやりと考える。
「人生最後は一人旅である」
独り言に分かったように頷く。
電車は多摩川伝いに更に高度を増しながら登って行く。車窓の青々と葉の繁る木々の間からは遥か下の方に多摩川が見え隠れする。電車のすぐ側の草木が大きく風に揺れている。風が強くなってきたのか。自宅を出た時は風はなかったが。いや、離れた木々の葉に見をやると揺れていない。どうやらこの電車が風を起こしているようだ。線路の周りの草木も大変だ。電車が来るたびに、身体を右や左に大きく振られる。人間が造った機械が働くということは、往々にして自然界に新たな音を作り、風を起こす。空を飛行機が飛べば、雷神が遠く叫んでいる声がし、道を大型車が通り過ぎれば土地の中の鯰が大声を出し身体を震わせ、海を大型船が行けば海中の鯨がその大きな尾を振り大波を起こす。
川井駅を過ぎると周りの山々には杉林の植林が多くなって来た。対岸の山もいよいよ迫って来た。渓谷に来たという感じである。
ちょうど昼に奥多摩駅に着いた。東日原行きのバスは2時過ぎである。まだ2時間もある。バスの本数は極端に少ない。昼食を食べて時間をつぶすことにした。駅に近い何度か入ったことのある店に入った。引き戸を開けるとカレ−粉の懐かしい匂いが鼻をついた。ここの店はソバ、中華、スパゲッティ、ドリア何でもありの店である。昔は雑貨屋的なこういう食堂が多かった。
日原川沿いに、慣れた運転手が動かすバスはやっとすれちがえる程の狭い道を30分程つづら折れに登って行く。最後に暗く長いトンネルを抜けるとやっと日原村に辿り着く。年に何台かの車がこの狭く曲がりくねった道路から渓谷に落ちる事故がある。民宿に流れてくる村内放送でそれを聞いたこともある。
バスは村の入り口の東日原止まりである。ここからは10分程歩いて民宿に着く。平日は村を通り越した先の日原鍾乳洞までバスが行っている。
素人が手作りしたと思えるコンクリ−トで出来た階段を降り民宿の玄関に着く。
「おばちゃん、おねがいします」と奥に向かって声をかける。しばらくすると「いらっしゃい」といつものように返事が返ってくる。しかし、何故か今日はいつも見かけるおいちゃんの姿が見えない。いつもは玄関先で夕飯用のヤマメやニジマスを焼くためシチリンの火を起こして姿を見かけるのだが。おいちゃんは昔「きこり」としていたらしい。今年で88歳である。おばちゃんの話だと今は病気で入院中とのことだが、命には別状ないらしい。よかった。よかった。
今日は民宿の丁度下にあるハイキングコ−スが日原川にかかる橋下から下流に釣り歩くことにした。河原で釣りの準備をしていると、時折キュ−ン、キュ−ンと何かが鳴く声が聞こえる。野猿だろうか。かって早朝に釣りをしていた時10m程先の対岸に猿を見かけたことがあった。その猿はどういう訳か私をジ〜とにらんでいた。今にも襲いかかりそうなその姿に怖くなったことがある。猿は目が合うとその人間を襲ってくるともいわれている。渓谷の河原では聞こえるのはゴ〜ッという水の流れる大きな音だけである。人が動物が近づいて来ても隣に立つまでは気がつかないほどだ。たえず目は周りの景色に気を配っていなければならない。本当に疲れる。そんな時、渓谷の上に広がる細長い空を見上げると、その空の蒼さにホッとして気持ちが落ち着く。時折その空を飛行機雲が横切って行くことがある。
翌日は早朝5時には再び川に降りた。8時の朝飯にいったん民宿に戻り、すぐまた川に降りた。11時には川から上がったが、昨日と同様に釣果は芳しくなかった。一匹は釣りたかったが、しかたがない。半年ぶりの釣りだ。まだ身体が釣りの感覚を思い出してないのだろう。魚もまだ俺には釣られたくないのだろう。次回に頑張ればいい。それよりも早くおいちゃんの元気になった顔を見たいもんだ。
今日は平日である。中日原のバス停から乗車できる。重い荷物を背負って10分歩く必要はない。あと少しの時間この民宿にいよう。
また、おいちゃん、おばちゃんに会いに行こう。(いつも坊主のかわいそうな男)