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稲田 登志子
私の最初の中国滞在は96年から98年までの2年間で、JICAの協力隊員として、中国医科大学に派遣されました。
医大には日本語養成センターという、全国の医療機関から派遣された日本での医学研修前の医者や研修コースの受験を目指す看護婦の短期研修をする機関があり、そこで、日本語を教えました。
当時、瀋陽市内には20名ほどの日本人教師がいて、不定期に集まっていましたが、日本人会会長が弁論大会の発足を提案し、その準備を中心に教師会の活動が活発になっていきました。まだ資料室はない頃だったので、医大の専家楼や遼寧大学の会議室を使って、たびたび全員が集まって会議をしていました。大きな大会を開催する場合には、日本人だけでは許可されないとのことで、中国の団体との共催で行いました。こうして、試行錯誤しながら、第1回、第2回の弁論大会が開催されました。
今回の二度目の瀋陽滞在は2002年7月から2004年8月までの2年間で、国際交流基金から遼寧教育学院に派遣されました。中国を希望したものの、瀋陽派遣は偶然のことで、本当に不思議な縁を感じています。
遼寧教育学院は遼寧省の小中高教員研修、教材開発などの初中等教育の教育向上を目的とする機関で、三年制の短大も併設しています。私は短大で教えながら、教員巡回指導や教師研修会開催、教材編集をしています。
この数年、小学校での外国語教育が普及しつつあって、英語教育を実施している学校が多いですが、農村部を中心に日本語教育を実施している学校もあります。去年、中国人の同僚が小学3年から6年までの4冊の教科書を完成し、私はその校正と5、6年の教師用指導書の執筆をしました。今は指導書の校正段階で、6月に完成予定です。
月1、2回の出張があって、省内の僻地を訪れることも少なくありません。電気も水道もない農村の小学校で、私達が編集した教科書を使って、熱心に勉強する小学生の姿には感激しました。また、研修会で教えた教授法を用いて、授業をしている教師を見ると、この仕事にやりがいを感じます。
今では日本語資料室で定期的な教師会の会議も行われ、弁論大会も多くの学校が参加し、盛大に行われるようになり、教師会の活動が大きく発展しました。教師会の先生方、日本人会の方々、領事館の方々など皆さんの尽力のおかげだと感謝しています。
今後も日本語教育に従事していくつもりですが、瀋陽での4年間はこれからの自分にとって、意義のある経験になると思います。帰国後も中国の日本語教育の発展と皆様のご活躍をお祈りしています。
(写真は阜新県蒙古族架其営子蒙古小学というモンゴル族小学校に巡回指導に行ったときのものです)
さらば瀋陽
呑山 猛
1.思いがけない中国赴任
瀋陽に来て5年が過ぎようとしている。思えば奇しき縁である。教職を定年退職して2年目、瀋陽師範大学(当時は学院)の張徳祥学長(現遼寧省教育庁庁長)から日本語教師のお誘いを受けた。不意のことなので、一か月間迷った結果引き受けることにした。それまで中国にはさして興味はなかったし、中国語はまったく分からない。ただ私が関係しているボランティアグループ「中国に本を送る会」が旧知の張先生の学校が日本語科を立ち上げたのをきっかけに、日本語の本を送るようになった。そういう関係があったのである。
さて、中国行きが決まった。中国語を解さなくても 大丈夫だとは言われても、何も知らずに行くわけにはいくまい。あれこれ中国語の研修団体を捜したところ、日中技能者交流センターの存在を知った。研修に参加させてくれないかと古川常務理事に掛け合ったところ、二つ返事で受け入れてくれ、11期生の仲間に加えてもらった。
そんな経緯で1999年8月、瀋陽師範大学に赴任した訳である。
もとより中国語はチンプンカンプン、一人で街へ行くこともできない。日本語科の中国人教師と学生が頼りである。信号機のほとんどない道路を横断するのも命がけである。学生が背中を抱えるようにして一緒に渡ってくれた思い出が懐かしく蘇ってくる。
2.実践の中から
しばらくして、学生たちは素直で一生懸命勉強しているが、勿論これは立派なことだが、受身の姿勢に少々疑問を感じるようになった。子供の頃から勉強ができて、ひたすら勉強に励んで来た子供たちである。教師の指示通り動くのは教師側にとってやりやすい。しかしこれでいいのかという疑問に囚われるようになった。ある教師が学生は何も言わないと勉強しない。だから苦しめるくらい勉強をやらせるのです、と平然と言ったことも引っかかった。この子たちは将来自らの生き方を切り開き、主体的に生きることができるのだろうか。
自立的に生きる子を育てるとは、と日本にいる時しきりに考え、議論してきたことが思い出されてくるのであった。そんな疑問があったので、新たに4年生にはガイド実践学習という単元を取り入れてみた。自ら学ぶ姿勢づくりの試みである。自ら資料を漁り、日本語らしいガイド文を作り、仲間を観光客に見立ててガイドをし、北陵公園に出向いて実際にガイドを実践する。どのようにガイドをしたら観光客の興味を引くことができるか互いに議論しながら実践をさせた。これは学校が郊外に移転するまで続けた。自分たちで考えさせ、実践させてみると学生は興味を持ってやり遂げるのである。そんなことがやってみて分かった。
また、3年生に環境問題を他人事でなく、自らの問題として考えさせるために、学生の環境意識調査というものをアンケート調査と観察調査によってまとめさせた。これは論文演習の一環として行ったものだが、これも環境問題を自らの問題として考えさせるのに意味があった。面白かったのは、校内にあるゴミ箱の数である。あるグループは足りないといい、あるグループは十分あると言う。例えると、500元持っている場合、あるものは500元しか持っていないと言い、ある者は500元も持っている、と言う。その類いである。なぜゴミ箱が多いと感ずるのか、なぜゴミ箱が少ないと感ずるのか、ここから又互いの考えをぶつけることができる。興味ある学習であった。
余談であるが、日本人教師はゴミを見つけるとひろって棄てる、ゴミを道端に棄てる学生がいるとどんどん注意する。家庭のゴミは分類して棄てている。これからの中国の環境美化を考える上で見習うべきでないか、と学生たちの意識が変わってきたことは、うれしい副産物であった。何でも文化の違いと片付けるのでなく、地球の環境汚染を心配するのはよいが、我々は身の回りからやるべきことはやっていこうという意識が芽生えたことは実践学習を通しての大きな収穫であった。自ら考え、自ら律することは他人のためにもなる。人の振り見てわが振りを直すことは素直な学生たちだからこそ体得できるのだと実践を通して思ったものである。
3.貧しさにめげない学生たち
日本語学部には農民出身の学生が多い。ほとんどが貧しい。家に電話が付いて間もないという家庭もある。彼らと話していると、今自分が勉強しているのは一番目は親のためである。二番目は自分自身のためである。と本気で言う。大学を卒業して働くようになったら、親を引き取って生活を楽にしてあげたいと。実に親思いである。日本人からみると昔話のような話である。
辛いできごとがあった。
3年前、ある女子学生が授業中、後部座席で涙ぐんでいることがあった。この学生の家は貧農で、その上母親は自律神経失調症で寝たり起きたりの状態であった。そんな家庭なので、私はささやかながら個人的にいくばくかを援助していたのである。気になるので、放課後なぜ泣いていたのかを尋ねると、実は母が自死したとのことであった。自死した親の心中と残された家族を思うとき、何とも辛い出来事であった。
もう一人は、父親の事故死である。父親が暗い山間の道をオートバイで走っている時崖から転落して亡くなった。生活が苦しい上に戸主を失った母親は間もなく農を棄て、韓国へ出稼ぎに行った。その学生は故郷を失い、一層苦しい生活になったが何とか卒業はできた。
現在、二人は大連、上海と元気に働いているが、二人の未来に幸あれと祈らずにはいられない。
今の3年生にも貧農の学生が多い。殆どが銀行ローンでやりくりしている。長期休暇は帰省しないでアルバイトをしている学生も多い。気持ちが安らぐのは、いずれの学生も貧しさに負けず、学業に励んでいることである。遼寧省の山間部の農村は水不足で悩んでいる。これは地域の問題であり、かつ国家の問題でもある。貧富の格差が益々広がっている中国で、農村の生活のレベルアップは大きな問題となっている。貧しいからといって農業をすてるのでなく、安心して農業が続けられる国にしてほしいものである。
4.大学院で学ぶ学生たち
瀋陽師範大学日本語学部は4回生まで卒業している。中国の大学院を卒業して、すでに大学教師になった教え子もいる。日本の大学院に留学している学生は12名を数える。経済学を専攻している者、社会福祉を専攻している者、日本文学、日本言語学を専攻している者とさまざまである。やがて彼らは卒業したら、中国に戻って国を支える一員として、また日中の掛け橋として活躍するだろう。それを思うと私の夢は広がってゆく。
5.結び
私はこの7月で瀋陽を去る。
思えば、懸命に学ぶ学生たちに囲まれて5年間は充実して幸せであった。はじめての異国で夢中に指導した1年目、学生の実態を見つめながら指導できた2、3年目、そして5年間マンネリにならずに指導を続けることができたのは、学生たちの素直で真摯な学習態度のお陰である。子供たちに生かされた5年間であった。
短歌 中国にて 20首
むしろ子らに支えられ来てしみじみと夜半の蛙の声に聞きいる
わが意欲ひきだす笑顔のスウさんは最前列できょうも受講す
柳絮ならぬポプラの絮の舞い落ちるアレグロとなりわが風の街
速足のわれを見て言う学生は高度成長見るがごとしと
茶を入れてペットボトルで冷やす夏淡々と過ぐ単身2年目
アカシアの香りのような笑み浮かべ卒業論文娘は抱きくる
帰省せぬ娘ら集いきてはしゃぎいる年越しの夜シャブシャブ囲み
母の自死、貧農の父持つ春蘭の筆跡やさし「春蘭」の文字
ふるさとを懐かしむ娘の目の中に節高き指持つ農父の姿
春節を待つふるさとへ帰る子ら母亡き春蘭その中にあり
鶏を一羽丸ごと子に託す農父の思いありがたく受く
不揃いのリンゴなれども果肉美し、子のふるさとは農にて生きる
雨降らず乾きたる川道となり辺境の村喘ぎいるなり
学業は親のため一,二番めはわが身のためと学生は言う
五度巡る厳冬の風頬刺すも痛み懐かし去る地と思えば
いつの間に眠っていたのか日だまりに胡蝶の夢をまさぐりている
温もりて異郷の床に李白読むページ半ばにきょうも眠りぬ
地を染めて亡びのときの陽を見つむ われの背後に月白く屹つ
突風に鍔あおられて身を離る帽子はひとり地をさまよえり
風に舞い枝にからまるビニールをしばし見ていつ吾の行く末を
愛しき日々を♪
八木 万祐子
瀋陽で過ごした2年3か月、喜び、悲しみ、驚き、楽しみ、悩み、怒り、感動し、感謝し、たくさん笑って、たくさん泣きました。まだ帰国するという実感はありませんが、日本に帰ったら、冷凍の老辺餃子(白菜味がおいしい!)が食べられない、学生の「らおしー!」って声が聞けなくなるんだと思うと、ちょっと切なくなります。
教師会では、弁論大会をはじめ、たくさんの貴重な経験をさせていただき、先生方には本当にお世話になりました。
中国で、瀋陽で、出会った人、過ごした月日、そして、遠くから見守っていてくれた人たちすべてに感謝の気持ちでいっぱいです。本当にありがとうございました!
沈陽進行形
酒井 和重
ぼくは今年(04年)の6月末に日本へ帰りますが、この原稿を書いている現在はまだ沈陽にいるし、そして6月以降もぼくと中国、とりわけこの沈陽との時間はまだまだ続いていく気がしています。というのはぼくはここ沈陽で、数こそそれほど多くはないけれど、かけがえのない中国人の友人ができたからです。
日本に戻って後も、また度々中国に訪れるつもりだし、ぼくの友人達もまた日本へ訪れることもあるでしょう。いや、現在すでに日本にいる友人もいます。ですから日本に戻れば中国の生活など存在しなかったかのように日本での生活が始まり、日々暮らしていく・・・のではなく、ぼくには依然中国の時間が流れ続けることでしょう。思い出ではなく、今この沈陽で流れている時間が進み続けることでしょう。
まだまだ沈陽に残られるみなさんも、せっかくの機会ですから1人でも多く中国人の友人をつくり、中国を堪能してください。教師会のみなさんには、すでに沈陽から離れられた方を含め、ぼくにおつきあいくださったことにたいへん感謝をしています。どうもありがとうございました!
瀋陽にて
澤野 千恵子
中国の美容院
女の人が外国に来てまず困るのは、美容院の問題だ。
私の宿舎はもと千代田小学校の校庭の一角にあるが、半世紀前の建物ですべてにガタがきており、お湯が出るのは夜9時から10時の間ぐらい、それもぬるい日が多く、たまに熱いお湯が出ると話題になるほどなのだ。自分で洗髪が大変なこともあり、また髪が多く自分でうまくセットできないせいもあり、美容院をやっと見つけて、今一週間1回通っている。日本人団体がよく泊まる新世界ホテルのすぐそばで、学校からも5分、店も広く従業員も10人もいるまあまあの店だ。その上、シャンプー、セットをして貰い、20元(約260円)という安さで、東京の値段を思うと、安い私のお給料でも大丈夫。ただしカットは、一度我慢が出来ないほど伸びて、カットしてもらったら、1ヶ月泣きたい思いの日を過ごしたので、絶対日本に休みで帰るまで我慢する。
もう2年以上通っているので、従業員も私に馴れ、私も彼らに馴れた。だがはじめの頃は外国人はまず来ないので、まず私への質問から始まった。中国人一般に言えることだが、会うとまず何国人か、そして何歳かと聞く。また仕事を聞いたうえで、給料はいくらかまで聞く。いろんな初対面の中国人にこのような質問をされ、お国柄によって失礼な質問かどうかの基準がこんなにもちがうことを知る。
あるとき髪の仕上げをしながら従業員の韓さんが私の年齢を聞いた。1928年に生まれ瀋陽で育ったというと、彼はきっとなって、あなたの男友達たちは中国人を殺したかと鉄砲で突き刺す真似をした。私ははっとして、中国人の心の中をのぞいた気がした。これは仕立て屋の王さんにも同じような質問をされた。小泉首相の靖国参拝のたびに、昔の戦争の写真がテレビに出て、日本のこのようなことは決して忘れることは出来ないし、許すことは出来ないといわれる。どんなに親しくしても、真の日中友好はありえないのかと思うことがある。
さて話しがかたくなったが、その美容院で私が驚くのは従業員の態度だ。ここでも下働きと上の仕上げクラスとは別だが、朝すいているとき従業員たちが、私の隣の椅子で足を広げて新聞を読んだり、なかには朝ごはんを食べたりしている。先輩が私の髪を巻いているのをただ見ているだけで言わなければ手伝いもしない。それどころか自分の髪を洗ってセットをしたり、化粧したりする者も多い。日本の美容院だったら一日で首になるのにと毎回見ながら思う。急ぐときは手伝ってもらってと頼むと、何も仕事もなくてブラブラしている女の子が呼ばれてピン取りをする。ただ人が多く給料も安い中国では、しょっちゅう人が変る。皆腕のある人は給料のいい所にいくのだろうし、中学校を出たばかりで役に立たないと思われる子たちは、すぐいつの間にかいなくなってほかの子がいるという具合である。
もっともそれこそカットが5元とか、染めが20元なんて店もある。いつか太極拳の仲間で髪の形がいつもいい年配の人が親切にも彼女の美容院に連れて行ってくれた。何か、雑貨屋の店の後ろの狭い狭い一部屋でそれこそゾッとするほど設備も悪い汚いところだった。五十過ぎの、腕は私の美容院よりはるかに上手だとおもう女の人がやってくれたが、いくら上手で安くても二度と行きたくないと思った。
逆にそれこそ従業員が皆ピンクの清潔なガウンを着て、ええ?これが中国なのと思うほど気持ちのよい美顔専門店もある。清潔なベッドで綺麗なバックミュージックを聞きながら、顔だけでなく、肩のマッサージまでしてくれて、値段も80元(約1,000円位)で、予約はいるがここに来ると心身が本当に休まる気がする。そしてここに来ると、ああ、中国の人でもこんなに美容に気を使うクラスもあるのだなと思わされる。
親切な中国のおばさんたち
近頃の瀋陽の街の表通りの建築ラッシュぶりは凄まじいスピードでそれこそあっという間に、今まであった店やアパートがなくなっている。現に私が2ヶ月の冬休みで帰国して帰ってきたら、学校の曲がり角にあったケーキ屋さんも、時計屋さんもなくなってしまって、表通りから私どもの学校の裏側が丸見えではないか。
同様に道路の拡張も、容赦なく道路際の建物を取り壊し、グングン進められる。今桃仙飛行場までの高速道路が片側5車線に広げられて立派になったのはいいのだが、市内への車の流れがとても多くなり、信号の余り無い広い道を横切ろうと思うとそれこそ決死の思いである。ある日、バスを降りて向かい側のビルに用事で行こうとしても、信号が無く、車の切れ目がなくて、どうしても渡れずただただ立ち尽くしていた。すると後ろから中年のおばさんが、私の腕を掴むやいなや何とその車の流れの中をスイスイと横切り始めたではないか。実に慣れたものでその度胸とその熟練した技に、私はただただ感心しながら、彼女にしがみつく様にして渡りきった。地獄で仏のような感じだった。
またあるときバスに乗ったはいいが、どうも間違えたらしく途中で気がついたので、周りの乗客にこれは馬路湾まで行くかと、下手な中国語で聞いた。すると何人かがガヤガヤ喋っていたが、ひとりのおばさんが、私についてきたら大丈夫だと言ってくれた。そしてその乗り換え場所までわざわざ私を連れて行ってくれて、自分はまた道路を渡って違う方向に歩いていった。私のためにこのバス停まで連れてきてくれたのだ。
私の学校の若い生徒たちは自分の受け持ちでなくても、凍った路で滑らないように腕を支えてくれたり、荷物を持ってくれたり、とても気持ちがやさしい。けれども全く知らない中国人からの親切は本当に嬉しいし、私も日本で困っている外国人を見たらお返しをしなければといつも思う。
帰国のご挨拶
河野 美紀子(前遼寧省実験中学)
2001年9月からの2年半、今振り返ればあっという間の月日だったように思います。遼寧省実験中学で初めて日本語を教えることになり、当初は苦労も多かったのですが、その苦労も含めて2年半の間、本当にいい経験をすることができました。
実験中学に着任してまず驚いたのは、学生達の毎日の授業数の多いこと。赴任前から進学校とは聞いていましたが、朝の7時半に登校して、夜の9時半まで学校で勉強するというハードな日課は、私の予想をはるかに越えるものでした。そんなハードな日課にもかかわらず、学生達は昼休みの時間や休日も惜しんで日本語の勉強に励んでくれました。そういう彼らの姿に私も励まされ、また教師会の先生方にも助けられ、1年で帰国する予定だったのが、2年、更に半年と延長し、学生達にもっといろんなことを教えたいと望むようになりました。
授業以外にもパーティを開いたり、校内の学芸祭に参加したりと楽しい思い出をたくさん作ることができました。今年の夏には日本語班第1期生が卒業します。彼らは今後それぞれの道を進んでいくわけですが、これからもどこかで日本語の勉強を続けてくれれば、この上ない幸せです。
私は今年の1月末に帰国し、4月からまた日本語を教えています。今の学校にも瀋陽から来た学生が大勢いて、よく瀋陽の話で盛り上がります。また、先生方からもよく瀋陽のこと、中国の高校のことなどを聞かれ、体験談をお話しています。
これまでもいろんな所でいろんな出会いがありましたが、瀋陽でも様々な出会いがあり、そして今の職場でもまた新しい出会いがありました。これらの出会いを生涯の宝としてこれからも大切にしていきたいと思います。
瀋陽の皆さんこの2年半本当にありがとうございました。これからも日本より皆さんのご活躍をお祈りいたします。そして、またいつかどこかでお会いしましょう。
瀋陽で3年間を過ごして
本保 利征
私がここ瀋陽に来たのは、3年と少し前になる2001年3月17日。気候はまだ寒く、風が吹くと、ビニール袋が宙を舞い、その光景は、まるで鳥が飛んでいるかのようでした。そして、黄砂もひどく、昼間なのに車がヘッドライトを点灯し、それにも関わらず視界は10m程度だったのが昨日のように思い出されます。また、街も綺麗ではなく、道路も十分に整備されていなかったことを思えば、今は、大分過ごし易くなったと思います。
私は、瀋陽に来る前までは、
とは言え、私は、この瀋陽日本人教師の会の先生方とお会いでき、そして、教師会の活動に、若干ではありますが参加させていただけたことは、私自身にとって、大変有意義なものと思っております。
特に、瀋陽日本語弁論大会は、教師会の先生方が中心に半年がかりで準備なされ、その苦労は大変なものと思います。しかし、当地の日本語学習者の多さ、そして、そのレベルの高さ、さらに、それら学習者が日本を好きになっている姿を見る度に、先生方の日頃の努力と学生達との交流が、このような良い関係を作り出しているのだなと感じ、心が温まりました。そして、人と人との交流が、真の相互理解につながることを痛切に実感いたしました。
さて、この3年間、大きな事件がいくつも起こりました。2002年5月の「大連での飛行機事故」と「瀋陽総領事館への駆け込み事件」、2003年春のSARSによる混乱、夏の「黒龍江省チチハル市での旧日本軍遺棄化学兵器による毒ガス事故」、秋には「珠海での集団売春事件」、「西安での西北大学での日本人留学生らによる寸劇に対する抗議」、2004年の「鳥インフルエンザの流行」、「大阪の中国総領事館への車輌突撃事件」などいろいろありましたが、この中には、日本と中国との関係に水を差す事件がいくつもあり、それにより、教師会の日本理解と日中の交流に大きく貢献されている活動にも制約が生じたことは、残念でなりませんでした。
国が違えば、制度、習慣、考え方等あらゆるものが違うのは当然とは言え、世界で確固たる地位を築き上げようとしている国であれば、もう少し大人になってもいいのではないかと、常々感じてきました。しかし、そのような厳しい状況の中、間違いなく言えることは、教師会が行っているような活動が、これからの中国を変える原動力を養い、将来の日本と中国にとって、大きなプラスとなることです。そして、そのためにも、教師会の皆様の御健闘を心から期待し、活動がさらに順調に、そして永く進められることを祈っております。
最後に、3年の間に、お世話になった先生方、そして私の離任に際し、労働節の休日にも関わらず送別会まで催してくださいましたことに対し、感謝の気持ちをうまく言葉で表すことはできませんが、一言、今まで、本当にお世話になり、どうもありがとうございました。(2004年5月11日)
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