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瀋陽日本語文化祭
石井
康男
昨年度はSARSの影響をまともに受けて、瀋陽日本語文化祭を中止しましたが、今年度も昨年秋に発生した西安市で生じた日本人留学生等の文化祭事件の影響を受け、これまでのように大学の判断で実施することが出来なくなり、公安に届け出ることが義務付けられました。
4月の28日の午前にこの届に関する書類を受け取り、実施10日前にあたる5月10日に提出することを要求されました。しかし、ご存知のとおり大型連休を控えており、しかもわが遼寧大学は29日から5月9日まで休暇になっていますから、どのようにしても時間的にも記載内容(プログラムなど)的にも不可能な状況にありましたので、止む無く中止をするという判断をせざるを得ないことになりました。
そして、学内でのミニ文化祭であれば実施ができるということであるから予定していた5月20日に学内ミニ文化祭として実施することにしましたが、これも5月11日になって、学内の新キャンパスへの移転問題とぶつかるので、秋の10月中旬?下旬に延期するということにいたしました。
この問題に関して小河内総領事が非常に強い関心を持たれて、中国の中でも唯一とも思われる独自の取り組みである瀋陽日本語文化祭の火を消したくない、むしろさらに発展させていくべきことであるから、次年度に向けてバックアップ体制を確立させていきたいという暖かな励ましと支援のお言葉をかけて下さいました。
このような支援もあって今回計画した遼寧大学外国語学院ミニ文化祭は新キャンパスの披露をかねて10月に開催することにいたしました。
以前から秋の新キャンパス披露行事の中で、総領事の講演会が計画されていますから秋のミニ文化祭をこの講演会に引き続いて開催出来ないものか検討をしていただくようにお願いをしています。もし実現できれば次年度の瀋陽日本語文化祭の再開に向けて大きな実績作りの役割をはたすのではないかと考えています。
この一年間の中で一番大きな出来事になってしまいましたが、これも両国の立場を考え、理解しあうために意義のあることであると前向きに考えています。
教師会の一年間を振り返ってなにか書こうと思っていましたが、文化祭のことになってしまいました。これもこの一年間の記録として残しておきたいと思いますので、ご了解ください。
中国が好きだ
中道 恵津(瀋陽師範大学)
中国国内の旅行は、人に頼らず自分の足で歩く、というのが私達夫婦のやり方である。こんなふうにしてこれまで随分いろいろなところを歩いた。中国の老百姓(ラオバイシン)の食べる食堂で食べ、中国の人の泊まる安い宿を探し、中国の人の乗るバスに乗り、中国人の入るトイレに入り!(仕方なくね)、カルチャーショックを楽しんでいるうちに中国式の生活にすっかり慣れている自分に気付く。「わーすごい」などと間違って褒められると困るので前もって断っておくが、中国語が全くできない夫と、ちょっとはできるといっても全くのブロークンで、それも流暢には程遠い私とのコンビだから行く先々で失敗も多い。今思うとハラハラドキドキのことも多々あった。
けれども私たちはこれまで多くの中国人から、旅先で、数え切れないほどの親切や善意からのおせっかいを受けている。老人二人の珍道中は中国の人にとって見れば危なっかしくて見ていられないからなのか。もっとも当人たちは老人という意識は皆無でバリバリの熟年と思っているのだが、ここではれっきとした老人なんだなあ。とりわけ学生たちにとっては、間違いなく老人なのである。「先生たち老人は・・」と言うのには参った。ともかく中国人は根っから善良でお人好しなのか、はたまた偶然の幸運で悪いやつに出会わなかっただけなのか、滞在5年の間に受けた無償の親切は数知れず、自分からカメラなどを中国のどこかの大地にプレゼントしてきたことは二度ほどあったが、盗まれたり騙された記憶は一度もない。だから私は中国が好きである。正確に言うと、中国が好きで興味があるからこうして5年も住み続けているのだ。
ツアーでなく夫と二人だけのはじめての中国旅行は1980年代で、学校の夏休みに北京と西安とハルビンの3ヶ所を15日間かけて回った。中国語はふるさとの町の中国語講座で習い始めてまだ半年後で、辞書を持ち歩いた。買い物のとき、習ったばかりの言葉を使ってみて通じたと喜んだ。単純なものだ。
そのとき、北京の街角の切符売り場で万里の長城と明の十三陵への一日遊覧コースを見つけて切符を買い、明くる朝6時半に前門付近の集合場所に来てみたら、なんと百台以上はあるとおもわれるバスが集合していて肝をつぶした。自分の番号のバスをやっと探し出して乗ったら、全部中国人の家族連ればかりでガイドはいない。いたとしてもチンプートンだから居ないのと同じである。ハンサムな運転手は観光の場所に来ると出発時刻を乗客に伝える。人々はそれを聞いてバスを降り、大勢の観光客が群がって歩いていく方向に目指すものがあるにちがいないということで歩き、見終わるとバスに戻ってくる。自分で見に行き自分で時間を判断して戻ってくるのだ。
私は運転手の言う時刻をじっと耳を澄まして聞き取るのだが、もし聞き間違ったら置いてゆかれるかもしれないのだから真剣だ。念のため聞き取った時刻を紙に書いて降り際に運転手に見せると、ハンサムな彼が肯いてくれるのが嬉しい。その日私の聴力は格段に進歩した。
そのはじめての旅で初対面の人のジープに載せてもらって北京の街の観光めぐりもしたしご馳走にもなってしまった。ハルビンの動物園では雨が激しく降っている中、園内で出会った係員がどういうわけか私たちをパンダの檻の中に誘導し、パンダと一緒の記念写真まで撮ってくれた。こういうことって頼んだわけではないのだが。
1999年、寒い最中の12月に、物好きにも黄河の河口(入海口)を見に行った。暖房どころか隙間風が、吹き込むおんぼろバスに2時間も揺られていたとき、自分の着ている緑色の大衣を脱いで、寒い寒いと震えている夫に着せ掛けてくれた若者もいた。
2000年夏、西域カシュガルとウルムチを繋ぐ、完成間もない鉄道が時ならぬ砂漠の雨に流されて不通になったときのこと、カシュガルでチャーターしたボロタクシーが砂漠の真中でパンクした。おまけにスペアのタイヤを積んでいなかった。運転手がタイヤを買い求めにヒッチハイクでカシュガルに戻っていった間の4時間、砂漠の中に放置されて不安に包まれていたそのとき、近くで道路を修復していた工事の大型トラクターが帰りかけて向きを変え私たちに接近してきた。彫りの深いウイグル族のひげ面大男がトラクターから降りてきた。緊張する私たち。彼は言ったものだ。「水はあるか、食い物はあるか。」なぜそんなことを聞くのか分からずに、水はあるが食べ物は余りないと答えた。彼はそのまま何も言わずにトラクターに乗り込み、砂煙を上げて帰っていった。
約30分後、再び砂塵と共にトラクターが姿を現した。降りてきたのは先ほどのひげもじゃ大男。新疆方面の人々の主食、ナンと呼ぶ大きな堅パンをにゅっと差し出したのには感激した。土地の人の人情が嬉しくて涙が出そうになった。
例を挙げればまだまだきりがない。そして今に至るまで、見ず知らずの人から数え切れない親切を受け続けている。時に人の心が信じられなくなる日本と違って、ここではまだ人間が信じられる。私は今そう思う。私たちは来たばかの時よりは中国の事情にも詳しくなったが、私の中国観は変らない。今私も、私のできる限りのことをしてその親切に報いたいと思いつつ暮らしている。
久しぶりの旅行
昨年5月の黄金周はSARS流行のため、学内に缶詰にされていただけでなく、休暇そのものがなくなり、いつもと変らない授業となった。今年は瀋陽に来てはじめての黄金周だ。厳しい冬が去って緑の美しい季節、出掛けないという手はない。だがいつもの相棒の夫は今期は日本だ。はたと困った。今までずっと二人旅だったから気が付かなかったが、女一人の旅はしにくいのだ。第一つまらない。
ふと思いついて長春大学の友人に声を掛けてみた。長春に5年も居る彼女も今回は何の計画も無いという。一緒に旅行する話はすぐ決まった。どこに行くかは会ってから相談しようということになった。こういうところ段々大胆になっている自分に気付く。
5月2日朝7時の高速バスでとりあえず長春に向かう。あいにくの雨だ。長距離バス駅に出迎えてくれた彼女とまっすぐ火車駅に向かう。黄金周だからどの窓口にも行列ができている。地図によれば長春から行ける方向は、ハルビン経由で牡丹江に行くか、或いはチチハル方面だ。吉林は近すぎるからその時は考えなかった。まず大声で牡丹江行きの汽車があるか聞く。なぜ大声かって?もたもたしていると後ろに並んでいる人に押しのけられそうだからだ。以前のこと、背の低い私の頭越しに金を掴んだ手が窓口に伸びてきたことがあった。そのとき私はその手をぐっと上に押しのけた。後ろの男は何も言わず引っ込めた。こういう点やはり迫力が必要だ。オドオドしていたら金輪際買えない。中国では切符を買うときには淑女になっていてはだめだ。並んでいても割り込まれる。そういうときは排隊(パイトイ)!と言うとテキは大抵ひるむが、発車まで時間がないとか何とかいい訳をしながらしつこく迫るのもいる。
さて係員は機械的に「今晩10時56分」と答えた。え?今点晩上的有?黄金周の当日券があるって?その幸運がちょっと信じられなくて硬臥鋪があるかと念を押す。面倒臭そうに頷く係員に「要二張!」と威勢良く答える。このときチチハル行きの汽車のことは聞きそびれた。というよりそんなことを聞ける余裕のある窓口ではなかったというほうが正しい。
こうしてその晩は友人の宿舎に泊まる予定が、急遽瀋陽発牡丹江行き夜行寝台車の客になってしまった。出発が遅い時刻だったから友人の宿舎で入浴も済ませ、歯も磨いて来たので、眠るだけだ。友人には敬意を表して下鋪を譲り、私は頭が天井につかえる上鋪だ。
古い列車だからトイレの水は流れず、シーツも灰色だがそんなことを気にしていたら中国の旅はできない。明くる5月3日、朝8時過ぎに牡丹江の駅に到着。いつものように街の地図を求め、店員に見所を尋ねる。これが私のいつものやり方である。時折晴れ間も出るがすぐまた傘が必要になる空模様のなか、街の南の牡丹江のほとりにある公園に「八女投江記念碑」を見に行く。凛々しい8人の乙女たちの表情が胸を打つ大きな迫力のある群像だった。抗日戦争の最中、必死で抵抗したが包囲の輪を縮められて、最後に全員牡丹江に身を投げたというエピソードにもとづく。
駅前に戻り「東京城」という町へのバスに乗る。持参の地図帳に拠れば、牡丹江はこの東京城を拠点にさらにその先30分の鏡泊湖風景区という国家4A級の名勝地がメインだと判断したからだ。
さて東京城とはいったいどんな町かといえば、私たちはここに一泊したあと、そこから鏡泊湖風景区に行って美しい自然を楽しみ一泊してまた東京城に戻ってきたので、この町について結構詳しくなってしまった。駅前近くの十字路から東西南北の各方向に商店街が並んでいるが、暫く歩くとすぐに途切れて、家はまばらになり畑が広がる。商店は種子や肥料店、農機具店などが目立つ。通りには可愛いてんとう虫を連想させる赤い三輪タクシーがひしめいている。
物価はべらぼうに安い。これは嬉しいことだ。着いてすぐ町を歩いてホテル探しをしたのだが、4軒ほど見せてもらったうち一番高かったのが一部屋50元、安いのが20元。鉄路賓館とか農機賓館など外から見るとかなり大きく見えたが、中は差不多で、まあどれも安いだけのホテルではある。そこで私たちが選んだのは20元のホテルだった。一人10元!洗い晒しの皺だらけのシーツがかかっていた。今まで安いホテルにたくさん泊まったが最低でも50元だった。今回のは記録更新だ。
風呂は無いがその代わり宿の人の入れ知恵で近くにある大きなお風呂屋さんに行った。3階建てのその建物は清潔でお湯も豊富な銭湯で、なんと本職の按摩もやってもらえるという。風呂3元、全身按摩が10元。寒いその晩、ゆっくりと暖かいシャワーを浴びたあと45分間、上手なマッサージで疲れがほぐれたところで向いの小さな食堂でビールを飲みながら食事をした。こしがあり掛け味噌も美味しいジャージャー麺と、量がたっぷりの炒菜。ふたりで12元のささやかな夕食だが味は抜群で心から満足した。瀋陽でこの味にはなかなかお目にかかれない。この日は私の誕生日で、友人が祝って乾杯をしてくれた。
町の郊外の渤海という村には渤海国上京竜泉府遺跡というのがある。てんとう虫タクシーの運転手の人懐こい笑顔が外地人の緊張感を緩ませてくれる。丸顔が温かみのある人柄を感じさせ、好感が持てる。ハンドルを握ったまま、時々横や後ろを向いて大きな声で説明してくれるから、田舎だといっても危なくてしょうがない。日本人を乗せたのはこれで2回目だと言う。何ヶ所かの見学が終わるまでいやな顔ひとつせず待っていて東京城に戻ってくるまで1時間以上かかった。いくら?と聞くと例の人懐こい笑顔で「随便(いくらでも)」という。「じゃ15元でどう?」というと首を振る。ん?と思ったが、「いくらか言って」と言うと「20元」という。私たち二人同時に「好!」と言ってしまった。なんだか値切れない感じのいい運転手だったのだ。1時間で20元!
ホテルの1階にある食堂には食欲をそそる料理が無く、餃子でも食べようということになった。が、餃子は無いという。若い服務員は私たちを餃子が食べられる離れたところの店まで案内してくれた。
鏡泊湖からまた東京城に戻り、次の牡丹江行きのバスの出発まで、聞くとあと25分ある。昼食がまだだった私たちは近くの食堂に入った。バスは30分に1本あるから、間に合わなかったら次のにしようとゆっくり面条を食べていたら、バスの車掌さんがわざわざ探しに来て、入り口から顔をのぞかせた。バスが出るという。まだ食べ終わってなかったので「次のにします。」というと笑顔で頷いて出て行った。ここのもこしのある美味しい麺だった。
田舎の小さな町である東京城は、ただ物価が安いだけでなく、こうして出会う人々が素朴で皆親切だった。加えてホテルは汚くても安いし、町には気持ちのいいお風呂があったし、料理は美味しいし、私たちふたりとも何となく好感をもって町を去ったのだった。
5月5日、牡丹江駅に戻った。時刻は15時10分になっている。持参の時刻表は2年前のだが、それによると吉林行きは15時20分発だ。間に合うわけがない。次の汽車というつもりで、吉林行き切符があるかと聞くと、「有」ときた。長春駅での会話とまったく同じ場面再現だなと思いつつ、何時のが「有」か聞くと、15時38分で硬臥鋪もあるという。ここでも思わず「エーあるの!」と叫んでしまった。ラッキー!というわけで、私たち二人は牡丹江始発のその列車に乗るべく、プラットフォームに急いだ。中国で出発28分前に寝台車が買えたというのも、私にとって新記録だ。ところで汽車の横腹を見たら、牡丹江―長春になっているではないか。長春大学の友人の部屋には本などの荷物を置いてきてある。私たちはとにかく最後は長春に戻らなければならないのだ。何だ長春が終点なのか、じゃ長春まで買えばよかったと思った。なぜって持参の2年前の時刻表に拠れば、この汽車は吉林が終点になっているので吉林までといって買ったのだ。吉林・長春間はバスでも2時間だから何とかなるだろう、着いてから考えようというわけだった。車掌さんに、吉林までの切符だが長春まで行くことができるか聞く。「没問題」という。それじゃ吉林に近づいて雨が降っていたら降りるのをやめよう、吉林着は朝の5時ごろだし、そんなに早く降りても寒いだけだしと、いつもの随便でいくことにして、連日歩き回って疲れていた私たちは例の灰色のシーツにくるまって休みながら、長いおしゃべりを楽しんだ。もっともこのときのベッドはふたりとも中鋪だったので、下鋪に若いアベックがいて、その二人の様子が見たくなくても目に入ってくるので困った。男性は、カップラーメンを女性の口に運んで食べさせたり、まるで赤子の世話をするごとくベタベタと女性の世話を焼いている。友人いわく、「なんだかシャキっとしない魅力のない男性ね。」やがてふたりはそれぞれのベッドに横になったと思ったら、互いの顔を見ながら手をしっかりと握り合っているものだから、ポットのお湯を取るのも憚られた。そのうちに、まだ夕方6時そこそこだというのに男性は女性のベッドに移って横になり、シッカと顔をくっつけて抱き合っている。通路に人が行き来しても完全に二人だけの世界に入ってしまっているのだ。「オイオイ、まだ消灯じゃないよ。暗くなってからにしてよね。」と思ったが、口には出さなかった。彼らはまだ若いのだ。
明くる朝、車掌に足をたたかれて起こされた。まだ5時にならない。吉林だ。大勢の乗客が降り支度をしている。友人とどうしようかと言いつつ、こんなに早く降りてもどうしようもないよねと、再び布団の中にもぐりこんで、プラットフォームを行く人の波を眺めていた。
やがて乗降客は誰もいなくなった。汽車はまだ動き出さない。突然友人が、「雨が上がっているわよ。」という。空が明るい。「降りようか。」と私。「降りよう。」と友人。
それから大慌てで、ズボンを穿き、上着を着、リュックサックを担いで飛び出した。入り口で車掌が「又来了!」と一度上げた鉄のタラップを慌てて下ろしてくれた。誰もいないプラットフォームに下り立ってふと見ると、友人はいつも着ているコートを着ていない。「コートは?」と聞くと、彼女慌てて「忘れた!」と車内に突進。このとき、開車まで後5分というアナウンスがあった。友人はベッドの上から無事にコートを持ち帰ってきた。この間、車掌は呆れ顔で、重い鉄のタラップを上げたり下ろしたり。
吉林の駅で洗面を済ませ、いつものように地図を買い、近くの食堂で温かい朝食をとり、駅の売店で朝鮮人参を売っているサービス精神満点のお姉さんを相手に時間をつぶし、1元のバスに乗って隕石博物館に行く。8時半の開館まで15分位ある。雨は時折止むが、又激しく降り出す。風もかなりあり、外は猛烈に寒い。手先が凍えそう、まさに冬だ。博物館では切符売り場の人が来るまで中で待機させてもらった。
吉林省では1976年3月8日に隕石の雨が降ったらしい。たくさんの隕石の展示に工夫を凝らしたかなり立派な博物館で、大きいのは1770kgもあり、解説によるとこれは世界最大だそうだ。
さて既に紙面は尽きている。旅の終点の長春も目の前だ。吉林から長春間でも一波瀾あったが、それは今後に譲ることにして、この辺で熟年女二人のてんやわんやの旅の報告を終わろうと思う。
山崎 えり子
皆さんは、タクシーのメーターにこんなフリルがついているのを見たことがありますか。
この写真は教師会に向うべく、タクシーに乗った時、見かけて、写真を撮らせてもらいまし
た。実は、こんなフリルの付いたメーターを見たのは、これが初めてではありません。ある日など、とてもおっかなそうなオジサンの車のメーターにも。たぶん女の人の髪を止めるものだと思いますが、いったい、どんな考えでしたことなんでしょうね。
「へぇー」って感じで、見ていたら、「きれいだろう」って返事がきました。造花で飾っているのも見たことがあります。日本じゃあ、見かけたことがないんですが、私。
あ、でも、キティちゃんグッズで飾り立てたタクシーの話題を日本にいたとき、TVで見たっけ。
瀋陽は第二の故郷
渡辺 文江
私は1988年-1991年の3年間、遼寧大學へ赴任していた。その時の私は、瀋陽という都市が世界地図の上にあることも知らない、又、知人は全くない、通訳の女性の国際電話の声だけを便りにこの街へ来た。中国の有名な都市へ赴任したかったけれど、女性だから、東北地方の人情の厚い所がいいですよ、と県の人に言われ、瀋陽に決まったとか。
今も忘れないが、4月6日の到着の翌日は、1日中、雪。夜のように暗い空から、雪が降り続く。キャンパスには、人の気配も全くない、怖いような静けさ、すごい所へやって来たなあ、が第一印象である。
しかし、この3年間に、中国人の人情に触れ、教え子をはじめ、同僚、知人、友人を、多く持ち、楽しい教師生活が送れたことは、私の人生に、又とないよい経験と思い出を作ってくれた。
1989年の天安門事件も、自分の耳目で経験した。
2年の任期が3年になり、いよいよ帰国の時には、私は、「瀋陽は私の第二の故郷です」と片言の中国語を言うまでになり、泣きの涙で皆と別れを惜しんだ。
それから10年。私は毎年のように訪問はしていたが、瀋陽の発展と変貌ぶりは、文字通り、日進月歩、日中交流も、桃仙空港が出来てからは急激に進み、航空路も開かれ、人の往来も激しくなった。
今では、1990年頃の瀋陽の姿が、はるか彼方に霞みつつある。その頃は、瀋陽駅、遼寧賓館、中興デパート、展覧館、テレビ塔が堂々として立ち、北駅、五里河体育場が新しく出来たばかり。1989年は瀋大高速道路が中国で初めて出来た高速道路として遼寧人の自慢であった。それが現在、これらすべてが高層ビル群に圧せられて、小さく見える。高速道路は全国網の目に張り巡らされた。日本企業も、確か1,2社、駐在員1名位だったと思うが、今は数百社。だから、在留日本人も留学生、教師が50人位だった。
1991年の帰国の時、私は実感として、こんなことを思った。「今後、私が、中国へやって来ることがあっても、多分、<浦島太郎>だろうなあ」と。
2001年、私は、定年退職後、遼寧大學へ再びやって来た。ゼロからの出発。
<浦島太郎>が生活に慣れるまでに、1年以上かかった。3年過ぎた今、違和感はほとんどない。中日の往復も、一衣帯水の言葉通り、隣国の繋がりと親近感を感じ、距離感も、随分縮まった。
今、古都、遼陽に住んで3年。2300年の歴史を誇り、大清国の祖先が眠るこの街には、東京陵、京都デパート、大正スーパーなど、日本に馴染みの名称がある。私は、この名称と日本との関係を、時に思うが、まだわからない。
「遼陽は私の第三の故郷です」 最近、こんな言葉が私の口に出る。キャンパスに植えた日本の桜がすくすく育っている。教え子達もたくさん育った。私は、この頃、私の健康と気力が続く限り、この教壇に立ち続けたいなあと思うようになった。
それにしても、中国の経済や社会がこんなに発展しても、教育に対する厳しさは、以前と同じ、又は、それ以上である。生活面や思想の規律、全寮制による融和と団結、専門レベルの高い要求、徳、智、体の完全要求など。私は、このことを、大変よいことと考えている。社会が少し豊かになったからといって、青少年の教育が甘くなってはいけない。若者は厳しい鍛錬の中から、芽を出し、逞しく成長してゆくと思うからである。
山形 貞子
瀋陽に来て良かったことはなんと言っても熱心な学生達と一緒に論文を読み、実験の計画を立て実験をし、その結果を検討できるということです。私たちの研究室の学生達はとても優秀ですので話し合っているととても楽しいのです。
私たちの研究は実験科学ですからいろいろな物が必要です。日本
から持ってきた物、こちらで買った物などありますが、それでも足りないと学生達は“自己動手、豊衣足食”といって自分たちで何でも作ってしまいます。
暗室が欲しいと言いましたら五愛街で布を買ってきて部屋を仕切っている壁に掛け、どこからか持ってきた台とシンクを組み立てて小さな流しを作り、窓には黒い紙を貼って暗室をつくってくれました。しかし、実際に使ってみるとあちこち光が漏れフィルムは感光してしまいます。学生と私は器械の下にもぐりこんで漏れてくる光を自分たちの体で防いで現像をしたのですが、それを見ていて今度はカーテンの付け方を変えようと太いパイプを買ってきました。そしてカーテンの上部をパイプが通るように縫い直して壁にとりつけました。そして一つ一つ光の漏れをチェックして漏れている部分には黒い紙を貼って、完璧な暗室作り上げました。
また細胞を培養する器械が動かなくなったときがありました。細胞は生き物ですからそのままでは死んでしまうので業者に電話をかけて来て貰うつもりでしたが、直ぐに来てくれるかどうかはなはだ心細い気持ちでした。その時、女子学生達が行動を開始しました。彼女たちは自分たちの恋人達を呼んで、80キロもある器械を動かして器械をあけて直して(直させて)しまいました。その場にたまたまいなかった男子学生達は自分たちがやれなくて残念そうでした。
日本にいたら自分で買い物に行って大学の暗室を作ろうという学生はいないと思いますし、器械が壊れれば業者を呼ぶのが当たり前になっています。テイッシュペーパーも手袋も何でも研究室で必要なものは業者に配達してもらっていました。ここでは足りない物があれば自転車で街中走り回って自分たちで調達するのです。
全て分業して“自己動手”から離れた生活に慣れてきてしまった私にはこうやって自分たちで必要なものを手に入れていく態度はとても新鮮な驚きです。
これから中国でも物があふれ、分業が盛んになって自分の手を動かさない生活に変わっていくのでしょうか。それは便利さと引き替えに何かを失っていく過程かもかもしれません。そうならちょっと残念ですね。
私の瀋陽所感
佐藤 守
中国高齢化社会というか中国人の文化や健康管理を見るのには「朝の公園に行くべし」と私の持論。
日本から来た友達や留学生を公園に必ず連れて行く、とりわけ泰山路にある北陵公園は圧巻である。何故ならばそこは清朝第二代皇帝ホンタイジの陵墓の広大なる公園である。
朝早くなら入場無料であり既に朝六時過ぎと言うのに相当な人出・・・!
高齢者が多くたまには若い人もいる皆、溌剌とした明るい顔がうかがわれる。
それぞれグループに分れて好きなことをしている、音楽にあわせ踊りながら行進しているかと思いきや隣では刀を持って太極拳をしたり、羽根のような大型の羽根を輪になって蹴ったり、朝靄の上がる冷たそうな池で寒中水泳、どれを見ても正に「奇想天外」「興味津々」
が心安らぐ、時には老人が「お前も何か書いてみないか・・・」と気軽に話しかけてくる。
私は決ってこう書くのである「日々是好日・我以外皆師・中日友好」と。
私は思う、生活や仕事で息が詰まるような時間こそ、その一方で心の解き放たれる安らぎを求めている中国人、日本の高齢者と違って何と逞しいことか・・・!!
私はまだ63歳老け込むのには早過ぎる。
山中 晋吾
我が家には、沈陽っ子が2羽います。
彼等は昨年の秋頃までSARS騒ぎのために肩身の狭い思いをしてきました。ですから私の言うことは全く聞きませんが、部屋で自由に遊ばせていました。
年末には、SARSの話題も消えたかのように思ったのですが、凍てつく冬の到来です。もともとアフリカの血がはいっている彼等は、寒さには弱いのでしょう、風邪の症状も出て心配しましたが、家内の献身的な看護により無事、冬越しに成功しました。
そして春、やっと彼等がのびのびできる気候になったのに、鳥インフルエンザです。得体の知れない病気におびえる彼等がふびんでたまらなく、家内と一緒に2倍の広さの家をつくってあげました。
すると先週、全くきかんぼうだった彼等が、家内の指にとまって仲睦まじく遊んでいるではありませんか、家内の無償の愛に心打たれたのでしょうか。涙が出るほどうれしかったです。
ここでの生活は何かと大変なことも多いのですが、われわれ夫婦はこの一年、落ち込んだときいつも彼らに励まされてきたような気がします。
瀋陽おちこぼれ
峰村 洋
「親に孝」教育
2003年9月から始めた日本語教育も4ヶ月が過ぎた。後期との間に約40日間の冬休みがある。教師の習性というわけでもないが、宿題を出した。
@せっかく習った日本語を忘れぬよう、総復習せよ A日記は15日間はつけること...と月並みを言う。そして、最後に、D親孝行をすることE簡単な食事を作れるようにすること とおかしな宿題を付け加えた。「もし、時間がなかったら、DEのみで良い」とも言った。すなわち、この二つは宿題に付帯したものではなく、むしろメインのつもりである。勉強は無理にせんでも良いと言ったが、果たして彼らはどう出るか。
Dは、親が粒粒辛苦して一人っ子の彼らを大学にまで出してくれているのだから、感謝を態度で示そうよ。毎日孝行の一つはしなさいよ。肩たたきでもいいんだから。中山晋平作曲の「母さんお肩をたたきましょう」だってもう歌えるようになったでしょう? 薪割り、洗濯でもいいんだから。
Eは、リンゴの皮を剥けない娘がいたので、それでは「ダメ」と言った。将来結婚して男も女も2人して食事が作れないではどうするんだ。いくら薬学博士になったといっても、餓死してしまうぞ。
学生たちを食事に誘うことが、しばしばある。また、時に学生の方から小生を誘ってくれたりもする。彼らは全寮制で自炊施設はない。“学食”で食べるのが日常だが、街の名物料理屋へも行く。いずれにしても全て外食の生活である。そこで、何回か我が家を開放して、自分たちで食事を作って楽しむ実習をしたりした。彼らが精出して作ってくれた「中華料理は」、総じて塩気が多かった。それに作る量も多すぎて余ってしまう。それにまた、結構時間がかかったにはいささか閉口した。が、彼らとの心の結びつきは一層深まった。「同じ釜の飯」も教えることができた。
交通機関と敬老心
一時間以上かかる遠方へ出掛ける時は列車か長距離バスがいい。
しかし、瀋陽市内なら専らバスに乗るのが一番。ほとんどが市内に限らずかなりの郊区のどこへ行くのにも一元で済むからだ。それに、事故を予想しても先ず安心だし、故意に路線より遠回りしてぼるということもない。
今の瀋陽市内のバスは、全てワンマンバスになってしまった。時間帯による押し合いへし合いは日本と同じ。夏には嫌でも肌と肌がべっとりと触れるのだろうか。
ひところの中国の「公共汽車」(乗合バス)は、風情があった。混んだ車内では、車掌さんが奥まで進めないので、大声を張り上げる「切符の無い方、お求め願います」。代金がお客の手によって車掌の所までリレーされる。次に切符がつり銭と一緒に客から客へと渡って戻ってくる。その垢にまみれたしわくちゃなちっちゃなお札は、くるくると撚られてやってくる。お札を開いてみても一度として間違いは無かったものだ。
同じ名称の「バス停」が路線によってかなり違った位置にあったりするのはおもしろい。もしどなたでも時間があったら試しに「青年公園」へでも散歩がてら行って観察されたい。公園は瀋陽の象徴の一つにもなっているテレビ塔の近くにあるので、すぐにわかる。公園の半分は湖が占めている。「湖」といっても、南運河の一部ではあるが。その公園の西側には「青年大街」が、東側には「雨壇街」という通りがある。ところが、「青年公園」という名称のバス停は双方にあるため、遠くは500メートル以上も離れて存在することになる。更に路線が違うと、全く同じ位置にありながら名称の違ったバス停であったりする。
バスに乗ると、気持ちのいいようなちょっぴり寂しいようなことがある。それは、乗車して1元のコインを投げ込んで奥へ進むと、小生を白髪の初老と見てか、外国人と見てか、席を譲ってくれる御仁がいるからだ。時にはわざわざ小生を突っついて呼んでくれてから席を立ってくれたりする。近くに同じ位に見える年配の御婦人が立っていたりすると、申し訳なく思う。こういうふうに年寄り?を大切にしてくれるマナーが身についているのは、決まって若い女性だ。日本の「新人類」にはもはやあまり期待できまいが。
若い親切な女性といえば、一緒に道路を横断する時など、いつも手を引いてくれる教え子がいる。車優先を思わせる6車線もあるような「馬の路」では、信号があっても安心できないからだ。「手を引かってくれる」という小生の田舎言葉がまだ死語となっていないんだなと懐かしがったりする。
また、デパートへ買い物に行ったりする時など、腕を組んでくれたりもするからたまらない。人が多くて迷子にならないようにという配慮なのかどうかは定かでない。何がたまらないかって? それは、半分嬉しいような、いや、3分の1は恥ずかしいような、そして4分の1は急に年より扱いされて悲しいような、変な気分だからだ。我が奥方様にだってしてもらったことのないような初心な人間には、処し方がわからないのだ。腕をされるがままにしておこうか、せっかくの腕を自分の方から外すのももったいないしな、いや他の学生に見られでもしたら明日のビッグニュースにもなりかねないな。彼女の本心は何処にありや、等々。
上記は
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