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文系より理系の生徒のほうが多い国へ来て
持丸 秀樹
2003年4月、私は、日本語&総合科目の教師として初めてこの瀋陽に来ました。実は、その1年前、英語の勉強などのためにEnglandで暮らしていました。ですから、最初は「やっぱりアジアとヨーロッパは違うなあ!」とつくづく感じたものでした。
現在、私が教えている東北育才外国語学校では、卒業後、ほとんどの生徒が日本へ行くことを前提に勉強しています。最初、この学校に来たとき「生徒の趣味は勉強かな?」と思ったくらいよく勉強していました(というより勉強させられていると言ったほうが正しいでしょう。ときどき、生徒の辞書には「resistance」という言葉はないのか?と思います)。
さて、今いる高校に来てから不思議に思うことがたくさんあります。例えば、@生徒の食堂に椅子がない A時間割が突然変わる B入学式も卒業式もない…。確かに「一衣帯水の隣国」とはいえ、日本と中国は所詮別の国です。ですから、違っていて当然なのですが、特に不思議に思うことは、「理系の生徒が多すぎる!」ということです。単に「多い」のではなく「多すぎる」と感じるのです。現在の3年生のうち、文系の生徒は13%しかいません。なぜかと思い生徒に聞くと「文系を選ぶと就職が大変なんです!」と言われました。では、日本はというと、女子の進学率が上がったことを考慮しても、文系のほうがかなり多いのではないでしょうか。
会話の授業で生徒に「なぜ日本へ行くの?」と尋ねると、判で押したように「日本は経済と科学技術が発達しているから」と答えます(もちろん、アメリカへ行くより学費が安いからと言う生徒もかなりいますが…)。確かに、GDP比で見れば、依然として日本は「世界第2位の経済大国」ですし、現在中国が置かれている状況を考えると、経済と科学技術の発達は不可欠です。しかし、その日本では文系の学生のほうが多いのです。つまり、将来の中国のために日本を範とするならば、文系の生徒をもっと増やすべきだと思うのです。
例えば、科学技術を例にとると、コンピューター(機械)を作るためには、当然のことながら理系の力が必要です。しかし、いくら質の良いコンピューターを作っても、売れなければ意味がありません。つまり、それぞれの経済状況の中で、@いつまでに何台作り、Aユーザーが何を求めているかをリサーチし、Bできるだけ在庫を減らし…といった「経営や経済」の能力が必要とされるのです。もちろん、単に「売れば良い」のではなく、CS(Customer
Satisfaction、顧客満足)が最終的には一番重要になりますし、これも「経営や経済」の範囲です。また、一般的に、中国では経済が理系の分野と考えられているようですが、簡単な数学以外、何も化学や物理まで勉強することはないはずです。さらに、国家にとって必要な「法律」、「福祉」、「環境」といった分野にも文系の力が必要ですし、さらに、その際に必要な「サービス」に至っては、文系も理系も関係ないと思います。
児崎静佳の父
児崎 静佳
今年の7月で瀋陽の生活も2年半になります。2年前、東京の日本語学校からの紹介で中国・瀋陽への赴任が決まったときは、まわりの友人や親戚からとても心配されました。今の学校を紹介された時、日本語学校側から「2日で返事がほしい」と言われ、親に電話をして相談しました。すると父は「何を迷ってるんだ!行けばいいじゃないか!」の一言。去年も「今年の夏で帰国しようかと思って」と言うと「もう帰ってくるのか?!3・4年いてもいいじゃないか。」と一言。
私のふるさと宮崎は時間が実にゆっくりのんびりと流れている田舎です。女の子は、大学は遠くても福岡へ、東京へ出る女の子はそう多くありません。卒業後、親に呼び戻される友人もいました。まだまだ保守的な部分が残っているのでしょうか。そんな中、わたしたち三姉妹は自分の好きな道を自由に歩んでいます。「宮崎のような田舎にいてはだめだ。人にもまれて強くならないと。」「大学ではたくさん遊んでいいんだ。そして世間を知らなきゃ。」と大学進学の時に父が言っていました。その時は、東京どころか中国に行くとは思っていなかったのではないでしょうか。
2年前にスタートした中国生活を思い返してみると、肝心な時にはいつも父(家族)が登場していることに気がつきました。学生が書く家族愛ではありませんが、少し父のことについて書いてみました。
瀋陽の春
高山 敬子
今日(5月12日)は久しぶりに雨が降っている。この乾燥した大地では、ほこりが洗われ、木々の緑が美しくなる。日本でなら、慈雨とでもいうのだろうか。中国では「春の雨は油のように高い」と言うのだそうだ。学生の作った俳句に「春、雨が降ると、子供らがナベを持って走り回る」といのが出てきた。何を言っているのかさっぱりわからず、変な顔をしていると、その学生がたどたどしい日本語で一生懸命説明してくれた。それだけ春の雨は貴重なのだろう。
春と言えば、日本ではさくらを思い浮かべる人が多いと思う。瀋陽だったら、黄砂だろうか。春先(三月)になると、強い風が吹き、小さな砂のようなものが飛んでいるのを感じることがある。でも、もっと細かい粘土質の微粒子が多い気がする。晴れているはずなのに、太陽がぼんやりかすんで見えるときだ。
しかし、瀋陽の春もなかなか捨てたものではない。四月になると、一斉に花が咲き始めるからだ。まず、迎春花が黄色い花を咲かせ、校庭の木々や街路樹がピンクや白い花をつける。あんずや梨の花だそうだが、かなり大きな木が見事に真っ白になる。運河沿いの道端には、スミレが咲き、芝生の中でも黄色や白のたんぽぽがゆれる。そして、やわらかに芽吹いた木々の間で柳絮が、ふわり、ふわりと舞う。北国の春だから一斉に花が咲くのだろう。しかし少し強い風が吹くと、ちらちらと散っていき、1週間も持たない感じがする。
5月12日の気温を比べてみたら、東京14度?21度、瀋陽13度?22度とあった。
北国の春は短く、駆け足で去り、初夏を迎えるのだろうか。
鶴間好日
中道 秀毅
2004年1月15日、春節休みの開始早々に瀋陽空港を発ち日本へ還った。丁度この日は私たちの孫娘の5歳の誕生日にあたる。
そのママが生まれたのが4月で、沼津の香貫山に桜が美しく咲きほこっていて桜子と名づけた。私たちは長男に続く、女の子の誕生を願っていたから、このファミリーの出現はほんとうに嬉しかった。
それから20数年が過ぎて、1999年1月、成人式の日、桜子に待望の女の子が生まれ彼女はママになった。パパの実家が富士山を仰ぐ御殿場の田舎であり、そのパパのたっての願いからママの名前の一字を取って里桜と名付けられた。名付け親は妻である。新しい家族の命名とその名の由来とは、ひそやかな愛に包まれていることを感じた。
その年の8月には私たちは山東省青島開発区の学校に赴任する。
10月、建国50周年の国慶節を、曲阜という孔子の故里の町のホテルで迎えた。テレビが、祝賀祭の花火の豪華に打ち揚げられる様子を映していたことを印象深く記憶する。この旅は、広大な中国の古い歴史や史跡、風光を訪れる旅であり、中国の人々の親切や思いやり、人情に恵まれた忘れられない旅の思い出の始まりともなった。
中国での日々は普段は日本語と日本文学の学習と読書の明け暮れであるが、時々は市場へ食料品や果実やらの買い物にでかける。学生の皆と一緒に出掛けての値引き交渉や、帰りの大勢での会食とお喋りは楽しいし、私の好きな日本の歌を皆と歌うことも楽しい。
半年が過ぎて春節休みに帰国、また半年が過ぎて夏休みに家族皆との再会。こういう時、月日の積み重ねを一番感じさせるのが、可愛い里桜の、人の子らしく、女の子らしい成長と言えるだろう。
青島での3年が過ぎ、瀋陽に移った。瀋陽からの帰国便は成田空港着となり、自宅に帰る前に立ち寄る
瀋陽での2年目に、桜子から春3月に2人目の誕生予定の知らせがあった。幼稚園の友達の小さい弟妹が大好きな里桜にとっても、大きな歓びであった。
ママは産み月が近いというのに、自転車での幼稚園の送り迎え。無理というもので、早産の危険が現れ、医者に止められた。幸い何事もなくてよかった。じじと言われる私こそが適任というものだ。2月21日には、また成田から瀋陽へ還る予定であったのだが、予期せぬベビーシッターの勤めはじめであった。師範大学生との日本語の学習からの転身でもある。
登園9時、お迎えは2時、その後は園庭遊びに付き合うという日課が始まった。里桜は友達が多く、よそのお母さんからも「里桜ちゃん」と声がかかる。じじはまごまごしながら、何事も里桜に教えてもらう生活開始だ。
私の子どもの頃は家が貧しくて、幼稚園は知らない世界だ。だが友達には幼稚園へ通っていた連中がいて、子どもごころにも違和感を感じたが、それはむかしのむかしだ。
教会の運営する幼稚園は、何よりも先生達の子どもへの面倒見がよく、安心できる。毎朝門の入り口で副園長先生が笑顔で迎えてくれる。「おはようございます、お願いします。」と声を出しての挨拶など久しぶり。
自転車でマンションを出ると10分そこそこの距離だが、こうして見る家々や、街が新鮮に見えたりした。
登園9時の間際には若いお母さんたちが、自転車の後ろの席に子どもを乗せて勢いよく集まってくる。中には前後に子どもがまたがり、背中にも赤ちゃんを背負う自転車姿もある。高校の現場しか知らなかった私には、未知の、はじめての生活感溢れる世界だ。よちよち歩きから6才までのつぶらな瞳の子どもたちの、生活感に満ちた天地だ。平和だけれど目の離せない、貴重な世界だ。
ーああ、こうしている瞬間に、イラクでは、バグダット、サマワ周辺の学校や幼稚園の子どもたちはどうしているのだろうか・・・。人質に捕われた日本人の安否はどうなのか・・・と、思いが去来するのだ。 毎日新聞の世界の記事の横わくにー人びと・民族・地球ーと、あることに気付いたのだが、本当に、二十一世紀の根本課題ではないかと考えないわけにはいかない。
夕方6時からはNHK子どもアニメの番組だが、彼女が好きだとしても、私の感覚、フィーリングにも馴染んでこなければ・・・。それが「プリンプリン物語」だった。彼女は、タイトル、主題歌がスタートすると活気付く。主人公は王女であるプリンプリン。
王女の彼女は母を探して旅している。顔は愛くるしく、髪の毛は銀のように輝いて目はキラキラと光り、首にはきれいなネックレスが、耳には小さなピアスが揺れ、唇は紅くきれい、衣裳もセンスがあり、王冠がつき、靴も輝き、スカートもひらひらと。私もエレガントな彼女には惹かれる。そこで5才の里桜との会話が始まるのである。

ーね、里桜よ。この仲間たちは、どうして?
ープリンプリンは赤ちゃんの時このモンキーと一緒に箱に入れられ、流されてしまうの。
ーそうかァ、そういう不幸でも、くじけないで明るいんだね。
ーある時は魔女のために鎖にしばられたプリンプリンをブリカ殿下が助けてくれるの。
と、物語のさまざまをよく理解している。ボンボン、おさげという男の子、火星人という物識り博士など、やさしい仲間たち。一方のランカーは怪人で、顔は醜くくプリンプリンを自分の妻にしようと謀りごとをめぐらす。召使のヘドロもそれに一役かんでいる。私も何回か観るうちに主題歌も覚えてきた。
“ガランカーダ不思議な国/ちょっと気になるひびき/ガランカランラン ガランカランラン/ガラガラガラガラランランラン” と、異国的なリズムの歌を、朝の自転車で私は気分よく歌う。里桜も、ガラガラガラガラ、ランランラーと和してくる。
ーあのランカーという奴も悪いけれど、プリンプリンが好きなんだよね、じじはプリンプリンを妻に夢見て歌ううたなんかよかったよ。
などと話していると、すぐ幼稚園についてしまう。
そして、その日の帰りは、xxちゃんの家へ、ooちゃんも遊びに行くからと自転車でママたちが送って行く。私も一緒に後に従いて走っていく。西鶴間x番地xxxマンションという風にして、鶴間周辺の番地も理解し街に親しんだ。
降園後から5時までを、子供たちは友達の家で遊んで過ごす、それをママたちはまた迎えに行くのが習慣なのだ。私の子どもの頃の神社の森やら原っぱやら、遊びに事欠かなかったよき時代は都市化が変え、外で遊ぶことは危険な物騒な時代となってしまった。幼児誘拐やら殺人やらと今日の日本の凶悪な事件の多発の原因は何故なのだろうか・・・。
食事のテーブルも里桜がいると話題には事欠かないのだ。しつけがよいためか、好き嫌いが比較的少なかったが、それでも理由を言って食べないことがある。
ー里桜さん、これは食べると頭がよくなるよ。そして何でも食べるひとは美人になれるんだよ。きれいなひとはね、何でもよく食べるひとだからね。
それを一口食べた時は、おいしいねえ、ほんとに里桜さんはいい子だねえと、ほめることが気持ちよかった。ママの夕食のとりかかりがゆっくりなので、話しながら食べていると8時半や9時にすぐなってしまい、お風呂へ入って、髪をかわかしたりすると9時半がすぐ来る。
「今夜は何のお話しにしようかなあ。」と絵本を選んで寝床へ行く孫の日課の終わりを見ながら、貧乏人の子沢山の私の両親との子ども時代のことが去来したりするのだ。
ママとの話し声がしばらく続く・・・。
ーじいじ、おやすみ。また、あしたねー。
2月の11日は里桜にとってのひいばばの誕生日だ。ひいばばの1男4女の子どもたちは全員健在だ。長寿を祝って伊豆長岡の温泉旅館へ1泊する。ひ孫が2人、孫が全員そろうと20数人になる。中国からの私たちの帰国の慰労もあり、愉快な団欒だ。
旅館の部屋で見たテレビの深夜映画は、「ロードオブザリング」で、一寸見かけたら面白そう。で、皆の睡眠の妨げにならないように音量を小さくして見る。最近話題もちきりの見ごたえのある映画とはラッキーだった、寝不足になるも。次の日は娘と里桜を、里桜のパパの実家である御殿場のじいじ、ばあばのもとへ送る。車社会の日本である。
2月21日(土)春節の休みも終わり、恵津さんの瀋陽行きの日が来る。私は日本に残って、里桜の幼稚園送迎係りとなる。3月22日には無事に2人目の孫、桜季(おと)の誕生を迎え、本格的ベビーシッターの仕事に精を出す日々である。
人生快々哉。(2004.5.4)
貴州で発見!!
大久保 千恵
貴州には3日と続く晴天なし
3里と続く平野なし
民には3文の銭なし
2003年夏。貴州に協力隊員の同期がいるので、ちょっと遊びに行ってきました。貴州は中国でも有数の貧困地域として知られるところ。上にも書いたように、雨の日が多く、山が多く、日の当たりも良くなく、あまり開発されず、それゆえに(?)多くの少数民族が存在するところ。(聞いた話では、漢族に追いやられて移動して来たとか…。)そして観光地としては、アジア最大の滝「黄果樹」(タバコの名前にもありますね)があるところ。
飛行機を降りると、目の前には、アポロチョコレートのような形の山がポコポコ並んでいました。瀋陽にいて山はなかなか見られない、それに、日本の山とも違う、それだけで感動!!・・・貴州滞在中は、友達の案内でいろいろ体験させてもらいましたが、その中でも興味深かったのが、「黄果樹」観光コースのひとつに含まれていた、「苗族の村訪問」。
苗族の人たちは、普段はその村で、普通の格好をして過ごしているのですが、観光客を乗せたバスが来ると、そそくさと民族衣装に着替え始めます。
村に入る前に儀式としてお酒を飲まされたのですが、(お清め?歓迎?よく分かりませんでしたが、とにかく飲む振りだけでもしてくださいと一口ずつ飲まされました…)そのお酒の味は、日本酒そのもの。あらま、こんなところで出会えるなんて…。竹の節で作った器に入っていましたが、透明に澄んでいて、ちょっと辛口で、懐かしい味がしました。(友達いわく、貴州で「日本からのお土産に…」と日本酒を持っていっても、あまり珍しがられないらしいですよ。なーんだ、私たちのお酒と一緒じゃない…って。)
それから、村の中では、苗族の餅つきも見ました。まず、蒸籠でもち米を蒸して運んできました。あ、日本と同じだ!!でも、『うす』は船のような形で細長いし、『きね』もちょっと日本のものとは違うみたいだけど…。それに、うすの両側に人が立って、ペッタン、ペッタン、換わりばんこについているけど、手返しが入らない。一度も餅をひっくり返すことなく、出来上がっちゃった!!しかも、あっという間に!!
出来上がったばかりの、湯気のあがる餅を見ながら、「これ、どうやって食べるんだろう…。」と思っていたら、挽いた黒ゴマと白砂糖が出てきました。あ、黒ゴマ餅だ!!目の前に運ばれてきた大きな餅のかたまりを手で小さくちぎって、ゴマ砂糖に付けて食べました。パクッ。ほんのり甘ーい!!おいしー!!日本で食べたのと同じ味がするー!!友達と二人でかなり興奮ぎみ。「日本の餅もこれと同じ味だよ。懐かしい。おいしい。」と苗族の人に伝えると、「そう、もっと食べて。」と、たくさんくれました。ありがとう。
朝鮮族でも黄な粉餅とか、あんこ餅とかは食べますが、苗族のほど、甘くないんですよね。あー、行ってよかった、苗族の村。中国にて、ちょっぴり日本気分。
そういえば、タイ北部でも、「ヤオ族」という少数民族のところに行ったことがあるんですが、その民族は中国から来た民族らしく、ちょうど春節の時期だったので、親戚?部族?みんなで集まって過ごしていました。で、子供たちが竹馬に乗ったりとか、コマ回したりして遊んでるんですよ。(普段はやらないけど、春節にはやるそうです。)私も小さい頃は、父親手作りの竹馬に乗ったけどな…。場所は違っても、文化はつながってるんですねー。考えることが同じなのか、伝わってきたのかは分からないですが…。またいろんなところ、見に行きたいです。次はどこへ行こうかな…。
熱情、親切な中国人
長澤 裕美
私は二胡を習っている。遼寧歌舞団というところまで、毎週二胡を背負ってバスに乗って通っているのだが、バスの中は人々を「ウォッチング」するとてもいい場でもある。
こんなことがあった。中山公園前から231路のバスに乗って、一駅ほど走ったところで、突然私の腰から足にかけて重い衝撃があった、そして、「ごつん」と重いものが床にぶつかる音。「何事か!」と思って振り返ると、髪の長い若い女性が、私の足元にごろりと倒れている。どうも貧血か何かで失神したらしい。「あらら、どうしよう、助けおこすべきか・・・」などと考えていると、後ろの方から50代ぐらいの女性が駆け寄って、その倒れた女性の鼻の下のツボを指で「ぐぐぐ」と見るからにすごい力を込めて押したのだ。すると、その女性はふっと意識を取り戻し、近くの別の女性に助けてもらって起き上がることができた。「うわっ、すごい、魔法のようだ」・・・さすが、中国医学、按摩と針の国だと感心した。貧血の若い女性は、近くの人が口々に、念のため病院に行ったほうがいいというので、別の乗客に付き添われて、途中の医科大学で降りていった。

同じく、231路のバスの中で。後ろに座っていた女性にポンポンと肩をたたかれ、「あなたのその服、どこで買ったの?」と聞かれた。「日本で買った」というところから、「どこの人?何年中国にいるの、どこに行くの、何歳だ・・・」と始まり、話につられて、前に座っていた女性も会話に入ってきて、終いには、3、4人程で、私のことで何かしら盛り上がっている。こういう場面を見るにつけ、日本人と中国人の違いをいつも感じる。日本人はバスの中などで、よほどのきっかけがない限り、見知らぬ人同士が話を始めることはないが、中国では違う。話も唐突に、思いがけないことから始まるし、始めた当事者二人にとどまらず、どんどん近くの人が加わっていく。最初の貧血の例にしても、日本では、このような場面で、もう少し遠慮がちというか、他の人の出具合をうかがってしまうところがあるように思う。
以前の同僚の先生が、真冬にスカートに薄いストッキングといういでたちで歩いていたら、通りがかりのおじさんに「不行!」と叱られたそうだ。この寒いのにそんな服装はだめだという意味らしい。そんなの余計なお世話よと思わないでもないが、なんとなく笑いを誘うエピソードだと思う。他人に対しての関心度がやはり日本人よりも高いといえるだろう。
よく学生は「中国人は熱情で、親切です」というが、このように街で出会う人々を見ていると、この言葉の意味が実像を持ってよく理解できる気がする。ちょっとおせっかいかなと思うときもあるが、温かい。私はそんな中国の人の「熱情で親切なところ」が好きだ。
昔は麒麟のつもりでもいまは山大爺のぼく
山形 達也
「XianShen de Shen(先生の生)」の読み方って日本語では音と訓があって、それぞれ沢山あるけれど、幾つくらい言える?」
「一生、生活、生きる、生まれる、生える、生まじめ、生あし。。。」と、たちまち次々と出てくる。「生あし」なんて言葉が出るのが現代的だ。私たちの年代だと日常聞き慣れていない言葉である。「ナマあし」と聞くと「生々しくて、生つば」がでてしまう。
そういえば日本のスーパーの「さかな、さかな、さかなを食べーると」という歌の流れているコーナーに置いてある「生ガキ」に「生食」という札が付いている。いまだに、「なましょく」、「いきじき」、「せいしょく」なのか「なまぐい」なのか、あるいは「いきぐい」であるのか判断が付かない。こういうのには日本語らしく「生で食べられます」と書いて欲しいものだ。
さて、「生」の読み方が学生の口から途切れずに生み出されてきて、それが一寸止まったところで「まだ、【ふ】という読み方もあるけれど」といった途端に「芝生」という返事が返ってきた。
これが日本人の学生なら驚かないけれど、相手は中国の、瀋陽の日本語弁論大会の区分でいうと、日本語「非専攻」の大学生II部に分類される学生である。
場所は瀋陽薬科大学の私たちの研究室で、彼は日語班の出身なので学部の3年生の時一年間を掛けて日本語を勉強し、その後専門の薬学を二年間日本語で勉強して、研究室にはいってきた修士の学生たちである。
私たちが2003年の秋にこの大学で研究室を持ったときに彼等が入ってきたわけで、日本語がこれだけ自由な学生に囲まれていると、私たちは中国語を話す必要が全くない。使う必要も機会もないから中国語がちっとも話せない。話せないから、未だにどこかに出かけるときには大いに困る。
タクシーに乗るのは目的地がはっきりしているから、行き先の名前と住所を大きく漢字で書いて置いてその紙を見せればよいのだけれど、帰りが困る。「そこ、そこ、そこよ。そこの十字路の信号を右に曲がって、直ぐにUターンして戻って左のあの16階の建物の前につけて」なんてとても言えない。
何時だったかは、言おうとしているうちに、何しろ瀋陽のタクシーだから、そのまま1ブロック走ってしまい、「請停、請停」と叫んで止めて貰ってから、とぼとぼと500mを歩いて戻ったこともある。このときは、「請停」という言葉が通じたのではなく、「止めてくれ」と叫ぶ私の迫力が通じたに違いない。なぜなら「請進、請進」(ひとが訪ねてきたときに、【どうぞお入りになって】と呼びかける言葉である)と、運転手に向かって叫んでいたのだから。
この手の間違いは枚挙にいとまがない。学生がオフィスに訪ねてきたときに、話の途中で習い覚えた中国語を使ってみようと思い、意気揚々と「請問、請問」(ちょっとお尋ねしますが)を口にした。ところがなんと、ソファの上で女子学生二人は笑い転げている。
これ以上は中国語が話せない。仕方ない。日本語に切り替えて「どうしたの?」といっても、笑いが収めきれず直ぐには返事が返ってこない。やっと分かったのは、私の発音ではアクセントの位置が悪く「親吻(つまりkiss me!)」と私は叫んでいたのだった。
学生が一人だったら、本気にしたかも。二人いて良かった、ほんとに。
中国語の発音に声調があるのはよく知られている。アクセントの位置のことである。この声調のおかげで、私たち日本人にとって中国語は何とも覚えるのに難しい言語となっている。
瀋陽に赴任することは1年前から分かっていたので、私とwifeはカルチャー教室の一つ「易しい中国語入門」講座を毎週土曜日1時間ずつ受けていた。教室で一緒になった仲間は、中国に進出している企業に勤めていて自分も出かけるからとか、自分は中国で商機を掴むつもりなので勉強したいとか、中国が大好きだからとか、だれにも強烈な目的意識があり、日本のふつうの大学のだらけたクラスの印象とは全く違う。
中には韓国と宝塚大好きという可憐な女子高生もいて、私は直ちに彼女のファンクラブを作って会長に納まってしまったのだが、その話は今ここには関係ない。
中国語の先生は上海生まれで、結婚して日本に来てからもう10年になるという大柄の女性で、じつに達者な日本語で難しい中国語の初歩を親切、かつ熱心に教えてくれた。私たちふたりも一緒の仲間同様にしっかりした目的意識を持っていたけれど、新しい言葉をこの歳で覚えるのは大変つらいことだった。
「麒麟も老いては駑馬に如かず」と、ほざくのが精一杯だった。そう、今は駄目でもせめて昔は麒麟だったと言って、ひそかに自分を慰めたいのさ。
日本人は名前に漢字を使う。日本人がどういう発音の名前であるかは問題外で、中国人はこれを漢語の発音で読む。これを知ったときにはびっくり仰天したが、周恩来も魯迅も中国人の名前を私たちは日本語読みで読んでいるのだから、考えてみれば同罪というか、おあいこである。
wifeと一緒にレッスンを受けていたので二人を区別するために、私は先生から「山形達也先生」と呼ばれていた。もちろん漢語の発音である。
ちなみに「先生」は英語のMr.にあたり、何も私を尊敬して言っているわけではない。彼女のことは、教室の先生なので、小陳「老師」と呼ぶ。
つまり私は自分の名前の漢語の発音を1年も聞いてしっかりと覚えていたわけだ。だから、瀋陽に来て自分のことを漢語の発音で「わたしは山形達也です」というのは何でもないことだった。ところが、である。ところがある会合で初めて、自信を持って漢語で自己紹介をしたはずなのに、満場がどよめいて爆笑したのだ。
えっ?どうしたの?
原因は声調だった。「達也」はダーイエで、最初のダーは二声でイエは三声にして発音すると「達也」になるが、最初のダーが四声となってダーイエとなると「大爺」になるのだった。これは文字通り「じいさん」という意味である。わたしがあまりにもぴったりに間違えたことで、皆が大いに喜んだのはいうまでもない。
この事件以後、わたしは研究室の中でも、わたしの生化学の講義を受けている学生たちからも「山大爺」と呼ばれている。
中国語の恩師であるあの小陳老師が、わたしを「達也先生」と呼んでいたのか、あるいはいたずらで(いや、実は本気かも)「じいさん先生」と呼んでいたのか、一体どちらだったのか、考え出すと分からなくなってしまう。
斉藤 明子
3月末にこちらにやってまいりましたが、その頃はまだ部屋の中も寒く、とくに4月に雪が降った時には、寒いのが大の苦手な私は、やはり間違ったところに来てしまったかもしれない、と思ってしまいました。けれども、雪が降ってから一週間もたたないうちに、とてもきれいな桃の花が咲きはじめ、ぽかぽか陽気も毎日のように続き、見事な春を体中で感じることができたので、春が大好きな私は、はやくもこちらへ来てよかったなと
毎日幸せを感じています。
日本語を勉強している学生たちもとても素直で、純粋で、ひたむきで、かわいく、国外で、日本語学習者に出会えてとてもよかったと思っています。学生たちは、わたしが中国語が話せないのをよく分かってくれているので、まだ日本語学習暦3ヶ月という学生でも一生懸命に日本語ではなしかけて来てくれます。そして、一生懸命にわたしの日本語に耳を傾けてくれます。また、「私は日本語の勉強が好きです。」とか「私は日本が好きです。」と、とても嬉しいことを素敵な笑顔で言ってくれます。
そんな学生の姿や笑顔に私は毎日支えられています。教師としてまだまだ一人前ではないので、学生に満足してもらえるような授業ができるように、そして、これからも毎日学生の素敵な笑顔が見られるように、貴重な一日一日を大切にし、いろんなことを勉強していきたいと思っております。中国でも日本でも日本語を頑張って勉強している学生に負けないように、私も中国語をがんばります。
私の日本語教育に寄せる思い
宇野 浩司
私が、ここで日本語を教えはじめて、はや一年あまりが経過しました。その間に、様々な事を経験しました。日本と中国の、学生の考え方の違いに関しての経験がいちばん今までのことで深く心に残っています。
さて、私は中国に来る前、ドイツで約2年間仕事をしていました。その中で感じた事は「日本人ほど付き合っていく事が難しい民族はいないのではなかろうか」ということです。また、「日本人は自分の考えをはっきり言わないから、何を考えているのか分からない」とも言われています。これは、全く私の個人的な考え方で申し訳ありませんが、「相手を気遣う国民性故に、何かを言う時でも必ず相手に余地を残してあげる」為だと思います。これは、私がいたドイツの人間も或いは中国人も、自分の考えをストレートに言い合う国民だと思いますので、なかなか理解ができないと思います。世界中で大部分の国の人間は、恐らくストレートに言い合う、性質を持っていると思います。
ですので、日本人と付き合う事は、上記の理由以外から考えても、いちばん難しいと思います。しかし、日本人と付き合えば、うまく付き合っていければ、世界中のどの人間ともうまくやっていけるようになると思います。確かに、日本語は使用者人口が一億二千万ぐらいで、主に使われている地域も日本だけですが、その難解な言語を理解できるようになれば、他の言語も、まあがんばれば、できるようになっていくと思います。そうすることで、日中間だけでなく、様々な国と関係したことができるようになっていきます。
今は、一国の事だけ、特定の国々との関係だけを考える時代ではないと思います。最近流行りの言葉を使えば、「グローバリゼーション」ということを考えなければならないと思います。その為に、世界の人間を理解して、うまく付き合っていく必要性があると思います。その為の手段として、理解が難しい日本人とうまく付き合えるようにして、その後にどんどん手を伸ばしていってほしいということを思って止まないのです。
ですけど、もう一つ、大げさではない事を言わせていただきますと、私は今、主に、日本へ留学を希望する学生達を指導しています。彼らが日本に行った時、私が思うのは、「日本人はどうして日本語ではなく、特に英語を中心とした外国語の方を一生懸命やろうとするのだろうか。なんで、外来語ばっかり使いたがるのだろうか」というような、ちょっとした失望感を持つのではないかという事です。日本人自身も、どちらかと言ったら、外国語の方に目が向いているような気がしてなりません。私自身もそうでした。でも、それによって、改めて自分の母国語である日本語の特徴等にも興味が沸いてきまして、この仕事に面白みを感じるようになっていますが。
ですので、一生懸命に日本語をやった人間であればあるほど、失望感を覚えそうでならないのです。そうならない為にも、私は、前に述べた事を念頭においているのです。
ここまで読んで頂いた方々には、「ちゃんと日本語を教えているか」と疑問に思われるかと思いますが、それは、私は、どんな理想を持っていても、私の職務は「日本語を教える事」ですので、「学生達が日本に行っても決してうろたえる事がない」様に、日々その指導の為の努力を怠たらず、全身全霊をもって指導しております。
「世界の人間とうまくやらせる為に、敢えて日本語を勉強させて、難解な日本人とうまく付き合えるようにする」。これが私の思いです。勿論、「日中の掛け橋」という考え方もよいと思います。まず、日本と中国との関係を考える事も重要ですので。
これをお読みになる方々は、私よりも人生経験も豊富で、或いは、世界の事をもっとご存知の方々もかなりいると思います。私の日本語教育に寄せる思いは以上ですが、いろいろな意見をお聞かせいただければ幸いです。
恐怖体験
金丸 恵美
本渓市へ来て、1ヶ月半が過ぎました。本渓市は人口156万人の小さな街です。その中で外国人は15人で、日本人はわたしを含め2人です。街を歩けば、外国人だということで、注目を集めることができます。そんな中、わたしは世にも恐ろしい体験をしましたので、お話ししたいと思います。
それは、赴任して三日目に見知らぬ訪問者が私の宿舎に来たことから始まりました。夜10時頃突然誰かがわたしの部屋のドアをノックしたのです。こんな時間に学生でもないし、誰だろうと思ってとりあえず「どなたですか。」と聞いてみました。そしたら、早口の(わたしにとって)中国語が返ってきました。わたしの中国語力で聴き取れたのは「水」という単語一つだけでした。その単語から頭をフル回転して推測してみました。そしたら、前任者が下の階の人が漏水の件でよく苦情に来て困ったという話を思い出しました。そのため下の階の人だろうと勝手に解釈して、「あした修理の人を呼びます」とつたない中国語で応えました。そしたら、相手はもっと早口の中国語でまくしたて始めました。その時点でわたしは冷静さを失い、恐怖におののきました。ドアから一番遠い所へ非難して、早くこの見知らぬ訪問者が去ってくれることを祈りました。でもノックする音はだんだん大きくなるばかりで、見知らぬ訪問者は一向に去る気配がありません。そんなことが30分も続いたので藁をもつかむ思いで、学校の事務所に電話をかけました。そして、知っている中国語の単語を全部組み合わせて、何とかこの状況を一生懸命説明しました。しかしその努力は空しく、「不要打開」の一言だけで電話を切られてしまいました。そうこうしているうちに、何度もドアを叩く音を聞きつけた近所の人達がドアの前に集まってきました。やっと助けがきたと一安心したのもつかぬ間、今度は近所の人達までわたしのドアを叩き始めました。わたしは半泣きになって、ドアの前で震えていました。2時間後事務所から電話をもらった日本語の先生(中国人)が駆けつけてくれて、万事解決に至りました。
結局、見知らぬ訪問者は水道会社の人で、メーターを見に来たのだそうです。前任者が本帰国してからわたしが赴任するまでの間、宿舎に誰もいなくて見に来られなかったのだそうです。わたしは死ぬほど怖い思いをしたのですが、水道会社の人も住人が部屋にいる機会を逃すわけにはいかないと必死になってドアをたたいていたそうです。わたしは中国人の仕事熱心な態度に感心した反面、あまりにも身勝手な態度に腹の中が煮えくり返る思いをしました。
その後1ヶ月半の間、日本の常識では考えられないことが多々あり、その度に度肝を抜かされました。その中で一つ学んだことは、この広大な大陸、中国で暮らしていくためにそれに負けないような寛大な心が必要なのだということです。これから中国に住む上で、中国語の勉強だけではなく、中国人の価値観を少しでも理解できるよう頑張ります。
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