ヒロシマのうた
ヒロシマのうた
今西祐行
わたしはその時、水兵だったのです。
広島から三十キロばかり離れた呉の山の中で、陸戦隊の訓練を受けていた
のです。そしてアメリカの飛行機が原爆を落とした日の夜、七日の午前三時
頃、広島の町へ行ったのです。
町の空は、まだ燃え続ける煙で、ぼうっと赤く煙っていました。ちろちろ
と火の燃えている道を通り、広島駅の裏にある東練兵場へ行きました。
ああ、その時の恐ろしかった事。広い練兵場の全体が、黒々と、死人と、
動けない人の呻き声で、埋まっていたのです。
やがて東の空が薄明るくなって、夜が明けました。わたしたちは、地獄の
真ん中に立っていました。本当に、足の踏み場もないほど人がいたのです。
暗いうちは見えませんでしたが、それがみなお化け。目も耳もないのっぺら
ぼう。ぼろぼろの兵隊服から、ぱんぱんに膨れた素足を出して死んでいる兵
隊たち。べろりと皮を剥がれて、首だけ起こして、きょとんとわたしたちを
眺めている軍馬。誰も話している者はありませんでした。ただ、唸っている
か、喚いているばかりです。そして、まだまだ、町の方から、ぞろりぞろり
と、同じような人たちが、練兵場に流れてくるのです。
練兵場の中程に、演習用に、長々とクリークが掘ってありました。そこに
は、赤く濁った水が溜まっていました。
焼けただれた人々は、いつの間にかその水を求めて這い寄り、まるで激し
い毒薬を飲んだように、水を口にすると、浅い水溜まりに頭を突っ込んで動
かなくなっていくのです。
「水を飲ましちゃいかんぞ。火傷しているやつに水を飲ませると死ぬんだか
ら。」
軍医がわたしたちに注意しました。だが、わたしたちが注意してみても、
もう注意など聞ける人々ではありません。わたしたちは止めませんでした。
水を飲まなくても、間もなく死んでいくのですから。
わたしたちは、練兵場の真ん中に、死体をよけて、テントを張り、救護所
を作りました。
軍医が、ごろごろ転がっている人々の目を、一人一人、まるで魚を選り分
けるように調べていきます。わたしたちは、その中で生きている人だけを、
テントに運ぶのです。
テントは、すぐに一杯になりました。木陰や、しまいには何もないぎらぎ
ら太陽の照りつける草原にも、赤十字の小さな旗を立てて、生きている人を
ただ集めるだけでした。
一日目は、死体を運んでいるうちに暮れました。夜になると、まだ燃え残
っている火で町の空は赤く、その赤い空の色が、クリークの水に映って、ま
るで血の川の色をしていました。ずるりと焼けただれた人の肌に滲んだリン
パ液も、不気味に光って蠢いているのです。
わたしたちは、練兵場の外れにある林の中にテントを張って、交代に寝る
事になりました。
その夜、ふとわたしは赤ん坊の声を聞きました。初めは夢を見ているのだ
と思ったのです。でも、少し眠ると、また赤ん坊の声で目を覚ますのです。
とうとう、わたしは起き出して、懐中電灯で、声のする方を探し始めまし
た。でも、見当たりませんでした。
そのうちに、交代の時間が来ました。わたしたちは、テントを出て、それ
から四時間、崩れた建物や土に埋まった広島駅の復旧作業に行きました。そ
して、夜明けにテントに帰ってきました。その時、わたしは、自分たちのテ
ントのすぐ後ろで、立ち竦みました。ここだったのです。
一人の赤ちゃんが、女の人に抱かれていました。初め、わたしは女の人は
眠っているのだと思いました。赤ちゃんはお母さんの胸に俯せて、顔をくっ
つけていました。すると、その時、
「ミーちゃん、ミーちゃん。あんた、ミ子ちゃんよねえ。」
と、突然女の人が、声を出して、赤ちゃんの顔や頭を撫でるのです。よく見
ると、お母さんは、目が見えないらしいのです。
このお母さんは、ミーちゃんと呼ぶこの赤ちゃんと、離れた所にいる時
に、あの恐ろしい事が起こったに違いありません。目がよく見えないまま
に、押し潰された家の中からミ子ちゃんを助け出したか、それとも、誰か他
の人に助け出されていたのを探し出して、やっと、ここまで逃げてきたので
しょう。だが、よく赤ちゃんの顔が見えなくて、心配で恐ろしいのです。
「ミーちゃん、ミーちゃん。」
と呼ぶのをやめたと思うと、お母さんは、昏々と眠りこんでしまいました。
と、赤ん坊が泣き始めました。と、また、お母さんが呼ぶ。お母さんは、だ
んだん気が遠くなっていくようでした。背中から後頭部にかけて、ずるりと
皮が落ちているのでした。
「しっかりするんだ。お母さん、しっかりしなきゃ……。」
わたしは思わず、そんな事を叫びました。でも、お母さんは、わたしに答
える様子はありません。暫くすると、また、
「ミーちゃん、ミーちゃんよねえ。」
と繰り返すばかりです。わたしは、このままにして、立ち去れなくなりまし
た。といって、どうすればいいのか、さっぱり分かりません。「しっかり、
しっかり……。」ただそんな事ばかり、心の中で叫んでいました。
軍医のいる所へ連れていったらいいものかどうか、そんな事に迷いなが
ら、一旦テントに帰りました。すると、それまでより大きな赤ちゃんの泣き
声がしました。しかも、いつまで経っても、泣き続けるのです。
行ってみると、お母さんは、もう死んでいました。赤ちゃんのくわえてい
たおっぱいが、固くなってしまったのです。お母さんは、赤ちゃんをしっか
り抱いたまま、動きませんでした。
わたしは、赤ちゃんを抱き取りました。その時の、固く抱きしめた冷たい
お母さんの手の力、私は今もまざまざと思い出す事が出来ます。わたしは何
度も、お母さんから赤ちゃんを奪い取るような気がして、気が咎め、考えこ
みました。その手は、生きているとしか思えませんでした。
「大丈夫ですよ。お母さん、わたしが預かります。」
わたしは兵隊でしたし、預かり切れるわけはありません。それでも、そう
お母さんに言わないと、赤ちゃんをもぎ取る事が出来ませんでした。
わたしはその赤ちゃんを抱いて、駅の方へ走りました。途中で、名前の事
を思い出しました。引き返して、お母さんの胸から、縫いつけてあった布の
名前をちぎり取りました。
しかし、どこへ行っても赤ちゃんを渡せそうな人など歩いていません。み
んな、傷付いた自分の体をどうすればいいのか迷っているのです。とても人
の事など頭に浮かばないし、見えないといった様子です。
駅の近くまで行った時、やっとリヤカーに荷物を積んで逃げていく二人の
人に会いました。
「もしもし、この赤ちゃんを乗せていってくれませんか。母親が死んでるん
です。怪我はなさそうですがね、この子には……。」
わたしはそう言って、ポケットに昨夜の夜食の乾パンがあるのを思い出し
て、一緒に出しました。
暫く、二人ははっとしたように顔を見合わせていましたが、
「ええでしょう、車に乗せてつかえ。駅に救護所あるでしょうから。ご馳走
さんです。」
「願います。」
わたしはそう言うと、せっかく取りに帰った名札を渡すのも忘れて、大急
ぎで帰りました。途中で名札の事をまた思い出しましたが、もう追いかける
暇はありませんでした。
わたしは大急ぎでテントに帰ったのですが、もう食事が始まっていまし
た。わたしは、どこへ行っていたのかと聞かれて、兵長に叱られ、ひどくぶ
たれました。なぜか、わたしは赤ちゃんの事を話しませんでした。いくら説
明しても、それは、兵隊のわたしが、勝手な行動をとっただけの事なのです
から。戦争という事が、こんな悲しいものである事を、その時初めて知りま
した。
それから、長い年月が経ちました。
戦争が終わって、七年目のある日、わたしはラジオから聞こえてくる言葉
に、はっとしました。それは尋ね人の時間でした。
「………さんが、広島の練兵場で、赤ん坊をリヤカーを引いていく家族の人
に預けた海軍の兵士の方を探しておられます。」
と言うのです。まさかと思いました。それに、初めの方を聞き漏らしている
ので、尋ねている人の住所も分かりません。
でもわたしは、もうすっかり忘れていたあの日の事を、急にまざまざと思い
出しました。ミ子ちゃんと呼ばれていた赤ん坊のお母さんの死に顔は、はっ
きりと目に浮かびました。初め、何だかあのお母さんが、探しているような
錯覚を起こしました。だが、そんな事があるはずがありません。もしかする
と、あのリヤカーを引いていった人だろうか。でもわたしは、あの時ミ子ち
ゃんを頼んだ人の顔は、どうしても思い出せませんでした。
それから三日間、ラジオの尋ね人の時間を熱心に聞きました。繰り返し放
送するかもしれないと思ったからです。しかし、二度と聞く事が出来ません
でした。
わたしはふと、あの時、お母さんの胸からもぎ取った名札を、あの頃の手
帳と一緒に大事に持ち続けていた事を思い出しました。長い間かかって、そ
れを探し出すと、わたしは放送局へ行って、尋ねてきている人の住所を教え
てもらいました。尋ねている人の名前は女の名で、住所は島根県になってい
ました。
あるいは、全くわたしには関係のない事かもしれないとも思いましたが、
とにかく、あの時の様子を書いて、もしやわたしの事ではないでしょうかと
手紙を出しました。すると、すぐに返事が来ました。それには意外な事が書
いてありました。
──こんなに早く、あなた様からご返事いただけるとは、夢にも考えてい
ませんでした。果たして、あの時の兵隊さんが生きていらっしゃるかどう
か、また、たとえお元気であっても、あの時の事など、覚えていて、返事を
くださるかどうか、それほど当てにもしていなかったぐらいです。でも、ど
うしても、あの時の、赤ん坊を抱いて駆けていらっしゃった兵隊さんの事を
思うと、黙っていられなくて、放送局にお願いしたのでした。
あの時、わたしたちは、それほど気にもしないで、まるで荷物のように赤
ちゃんを預かりましたが、駅に行っても、どこへ行っても、赤ん坊は引き取
ってもらえませんでした。わたしたちは、遠い親類を頼って、廿日市まで行
く所でした。その廿日市へ行っても、誰も相手にしてくれる人はありません
でした。
そのうちに、
『この子はきっと、ヒロ子の生まれ変わりよね。』
そんな事を考えるようになりました。と申しますのは、あの時、わたした
ちは目の前で自分の赤んぼうを亡くしたところだったのです。それで、名前
も同じヒロ子にして、今まで育ててきました。
ところが、今年の二月、主人が突然、血を吐いて死んだのです。主人は広
の工廠に勤めていまして、あのピカドンの光には全然当たっていないので
す。工場から帰ってくると、家も何もかもなかったのです。それなのに、七
年も経っているというのに、原爆症で白血病だったのです。
主人に急に死なれて、わたしたちは暮らせなくなったのです。今、主人の
里の、広島と島根の県境のこの村に来ているのですが、どうしてこの子を育
てていったものか迷った挙げ句、あの日の事を思い出し、もしや、この子の
本当の身内の方が見つからないものかと、尋ね人に出したわけでございま
す……。
「ありがとうございました。ありがとうございました。ミ子ちゃんは元気
で、助かったのですね。」
わたしは思わず独り言を言って、一人で手紙に頭を下げました。
それにしても、遠くに離れているわたしは、どうすればいいのか分かりま
せんでした。わたしはすぐにも飛んでいって、ミ子ちゃんに会ってみたいと
思いました。でも、わたしも勤め人です。そう勝手に休むわけにもいきませ
ん。
わたしはすぐ返事を書きました。夏まで待ってください。夏になったら、
きっと休みをもらって、広島へ行きます。広島でお会いして、色々わたしに
出来る事なら相談いたしましょう。そういう返事を出しました。
その年の夏、ちょうどあの日のように朝からぎらぎらと暑い日、広島の駅
で、わたしたちは会いました。赤いズック靴に、セーラー型のワンピースを
着ている一年生というのが、目印でした。わたしは、白いワイシャツにハン
チング、紺色のズボンというのが目印の約束でした。すぐに分かりました。
「橋本さんですね。」
「はい、あの……。」
「ぼく、稲毛です……。」
不思議な気持ちでした。あと何を話しだしていいのか分かりませんでし
た。広島の町はすっかり変わっていました。ミ子ちゃんは、恥ずかしそう
に、何を言っても黙って、お母さんの袖に隠れていました。
「ああ、この子は何も知らないのだな。幸せだな。」
わたしは最初に、そう思いました。
その日、初めて、わたしはあの日死んでいったミ子ちゃんのお母さんの話
をしました。途中まで一生懸命に聞いていたお母さんは、急にぼろぼろと涙
を流しだして、
「ええ、もう、今日お会いするまでに、決心したのです。ヒロ子はやっぱり
わたしの子です。誰が何と言ったって、あげるものですか。」
ミ子ちゃんを誰かに預けたいという相談をするために来たはずのお母さん
は、そう言って、泣きじゃくるのです。
「そのお母さんは、本当に偉いお母さんですわ。わたしは恥ずかしい。目の
前で、死なせてしまったのですものね。その方に代わって、わたしは、今度
こそ、本当にヒロ子のお母さんになります。遠い所から来ていただいて、す
みませんでした。でも、こうしてお話を伺えたので、決心出来たのです。」
わたしたちは、ミ子ちゃん──いいえ、ヒロ子ちゃんです、ヒロ子ちゃん
のいない所で話し合いました。ヒロ子ちゃんは、本当のお母さんだと思って
いるのですから。
ヒロ子ちゃんとお母さんは、その日の夕方の汽車で、また島根の方へ帰り
ました。わたしたちは、ヒロ子ちゃんが中学を卒業した時に、また会う約束
をしました。その時まで、何もヒロ子ちゃんには打ち明けない事にしまし
た。
わたしは、ちょっと寂しい気がしました。半日しか会えなかったから無理
もありませんが、ヒロ子ちゃんと、何もお話が出来なかったからです。二人
が汽車に乗ってから、プラットホームに売っていた、パイナップルの氷菓子
を一袋買って、ヒロ子ちゃんに渡しました。その時、
「おおきに(ありがとう)。」
と言ったきりでした。
その時の、何かヒロ子ちゃんの暗い影が、いつまでもわたしは気になりま
した。すると、追っかけるように手紙が来て、これはまた悲しい事が書いて
ありました。
今いる島根の家は、死んだ主人の家で、主人の母、ヒロ子ちゃんの義理の
おばあさんに当たる人が、ヒロ子のことが気に入らないのだと言うのです。
死んだ本当の孫の事を思うにつけても、何かとヒロ子ちゃんに当たるのだと
いうのです。そして、とうとうある日、「お前は拾われた子のくせ
に……。」というような事を、ヒロ子ちゃんに言って怒ったのだそうです。
「やはり、本当の事を、もう言った方が良いのでしょうか……。」
お母さんの手紙には、こう書いてありました。
それはわたしにも分からない事でした。広島で初めて会った時の感じで
は、はっきりしなくても、何かヒロ子ちゃんも感じている事があるようにも
思われました。ヒロ子ちゃんをよそにやりたいというお母さんの弱気が、ヒ
ロ子ちゃんにも敏感に感じ取られていたのに違いありません。わたしは、出
来れば、田舎の家を出て、ヒロ子ちゃんと二人で暮らす事が出来ないものだ
ろうかと思い、その事を書き送りました。
すると、その年の暮れ、ヒロ子ちゃん親子は、広島に出て、小さな洋裁学
校に住みこみで働けるようになったという手紙が来ました。わたしはほっと
しました。それからも二度三度手紙が来ましたが、その手紙もだんだん短く
なって、しまいには来なくなりました。わたしもいつかヒロ子ちゃんの事
を、忘れていくようでした。
ところが、今年の春、何年か振りで手紙が来ました。ヒロ子ちゃんが中学
を卒業したのでした。
そして、ぜひ一度会って、ヒロ子のお母さんの話などしてやってほしいと
ありました。
そうして、今年の夏、わたしはまた広島を訪ねる事になったのです。わた
しは原爆の記念日を選びました。ヒロ子ちゃんはもう十五でした。中学を卒
業して、お母さんが働いているその洋裁学校で、洋裁の勉強をしているので
した。もうすっかり娘さんのように大きくなっていました。
わたしは記念日を選んだ事を、後悔していました。記念の色々な行事は、
何かわたしたちの思い出とかけ離れたものにしか思えなかったからです。
その日、わたしはいよいよヒロ子ちゃんに、死んだお母さんの事を話す約
束をして、二人で一日、町を歩き回ったのです。でも、どこにも、そして、
いつまで経っても、そのきっかけが出来ないままに、疲れてしまいました。
夕方、わたしたちは一軒の食堂に入りました。その食堂の裏は、川に面し
ていました。暑いので、わたしたちはその川の見える窓の近くに席をとりま
した。
「ヒロ子ちゃん、もう洋服縫えるのかい?」
「いいえ、今、ワイシャツやってるんです。」
そんな話を始めながら、ふとわたしは窓の外を見ました。何だか、赤いも
のが、川上から流れてくるのです。
「あっ、あれ。」
と言うと、
「灯籠流しです。去年もやっていました。綺麗ですよ。」
ヒロ子ちゃんが教えてくれました。去年、わたしも、広島の灯籠流しの事
を新聞で読んで知っていました。原爆犠牲者の戒名を書いた灯籠を、川に流
しているのです。
わたしは、そうだ、今話さなければならないのだと思いました。
わたしはやっと、ポケットに持っていた布の名札を取り出して、
「ヒロ子ちゃん、これ何だか知ってる?」
と聞きました。
広島市横川町二−三
長谷川清子 A型
と書いた、薄汚れた小さな名札です。
「何ですか、それ。」
不思議そうに、ちょっと指先で触ってみたりしました。わたしは、じっと
窓の外の灯籠を見ながら、あの日のヒロ子ちゃんのお母さんの話をしまし
た。ヒロ子ちゃんは、黙って聞いている様子でした。ヒロ子ちゃんが、わっ
と泣き出したりしたらどうしようと、わたしは心配でした。でも、ふと、ヒ
ロ子ちゃんの顔を見て、わたしはほっとしました。ヒロ子ちゃんは、その名
札を胸の所に押さえて、わたしの方を見ると、にっこり笑って、
「あたし、お母さんに似てますか?」
と言うのです。
嬉しいのやら、かわいそうなのやら、わたしの方がすっかり涙ぐんでしま
いました。
ヒロ子ちゃんは強い子でした。どんな事にも負けていませんでした。
お母さんが心配するといけないから、と言って、わたしたちは、それから
すぐ洋裁学校に帰りました。食堂を出て、橋を渡ろうとすると、灯籠を見る
人たちで一杯でした。そこを通り過ぎて、ちょっと暗い所になりました。
「会ってみたいな……。」
ぽつんとヒロ子ちゃんが独り言のように言いました。勝ち気なヒロ子ちゃ
んは、その時、こっそり泣いていたのかもしれません。
その日は、わたしも洋裁学校の一部屋に泊めてもらいました。わたしが起
きると、ヒロ子ちゃんのお母さんが出てきて、
「昨夜、あの子は寝ないんですよ。」
と言うのです。
「やっぱり。」
と、わたしが心配そうに言うと、
「いいえねえ、あなたにワイシャツを作ってたんですよ。見てやって下さ
い。」
そう言って、嬉しそうに、紙に包んだワイシャツを、こっそり見せるので
す。
「内緒ですよ。見せたなんて言ったら、叱られますからね。」
そっと広げてみると、そのワイシャツの腕に、小さな、きのこのような原
子雲の傘と、その下に、S・Iと、わたしのイニシャル(頭文字)が水色の糸
で刺繍してあるのです。
「よかったですね。」
「ええ、おかげさまで、もう何もかも安心ですもの……。」
お母さんはそう言って、笑いながらも、そっと目を押さえるのでした。
わたしはその日の夜、広島駅で、汽車が出る時に、窓からそれを受け取り
ました。わたしはそれを胸に抱えながら、いつまでも十五年の年月の流れを
考え続けていました。
汽車は鋭い汽笛を鳴らして、上りにかかっていました。
TOPへ