| ◇1990年2月 タイのバンコクで騙された!!(1) |
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今となっては、どうしてこんな古典的な手口でやられたのだろうか?と疑問に思うのだが当時は旅の初心者でやっぱり若かったのだろう。 もう10年以上も前のことであり記憶もはっきりしないのだが、バンコクのチャオプラヤー川のほとりをブラブラ散歩していた時だったと思う。 10分くらいお話をして、チャオプラヤー川を船で一緒に遊覧しましょうということにトントン拍子に話はまとまった。 3時間くらいたったろうか?船は船着場を目指して快調に進みこのまま行けばタイの良い思いでの一こまとして僕の胸に刻まれたんだろうけど、現実はそんなに甘くはなかった。 今ならば絶対やらないが、当時の僕はウエストポーチにパスポートやらトラベラーズチェックやらを入れていた。別れ際にそのおじさんは親切に「バンコクは治安が悪いから、ウエストポーチなんかに貴重品を入れていたら危ないよ」 と忠告してくれた。 有難うおじさん。その後はウエストポーチから腰ベルトに貴重品入れを変更しました。 |
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うだるような暑さのなかカオザンの安宿から王宮に向けてトボトボ歩いていた。王宮にようやく着いて近くのベンチに座って休んでいると、タイの若者5人くらいに声をかけられた。 連れて行かれたのは町中の屋台。一緒に酒を飲もうということになってビールで乾杯。そして次に僕の大好きなメコンが出てきた。メコンはタイの国民ブランドウイスキー。日本では不味くて飲めないけど、なぜか暑いタイではおいしく感じてしまう。 メコンに氷を入れてコーラでわると喉ごし良く非常に飲みやすくなる。自分でも気づかずについつい飲み過ぎてしまって悪酔いしてしまう危険な飲み物だ。 非常に楽しかった。一緒に記念写真を取って貰ったり、ムエタイの模範演技みたいなものを披露してくれたり。 翌朝まともな頭で【やっぱり来るはずないよな】と考えながらゲストハウスで待っていたが、約束の時間を過ぎても誰も現れなかった。 悪い人の見分け方その1 - 写真を撮ってあげると言って、その人が避けようとしたら要注意。 |
| ◇1991年5月 ベリーズで強盗 |
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メキシコのカンクンでリゾートライフを満喫するつもりが、あまりの物価の高さに滞在2日間で逃げ出しベリーズに向かった。 ベリーズは20年くらい前までは英領ホンジュラスと呼ばれたイギリスの統治国。従い、スペイン語圏の中米の中では異色の英語圏。通過もドルリンクで1$=2BZ$(ベリーズドル)だった。カリブの美しい海が見所で、キーカーカーというカリブに浮かぶ島が旅行者には特に人気。物価の高いカンクンで満喫できなかったリゾートライフをここベリーズで堪能しようとワクワクしていた。 朝カンクンを出たバスはお昼過ぎに国境に到着。そこでベリーズのおんぼろバスに乗り換えてベリーズシティーを目指す。 やがて太陽も沈みバスは真っ暗な中を進んでいく。【今日の宿はどうするかなー。無事に見つかるかなー】なんて思いながらガイドブックで研究しているうちにバスは真っ暗なターミナルに到着した。 もう一つ、ベリーズが他の中米諸国と違うところは黒人の国であることだ。 バスターミナルで立ち止まり地図を眺めていると、どこからともなくタクシーが近づいてきて黒人の運転手が「どこに行くんだ?」と声をかけてきた。本当ならば無理せずタクシーに乗るべきだったんだろう。平常心を欠いていた僕は黒人の運転手に少し驚き、安宿街がバスターミナルからそんなに離れていないことが分かり、タクシーは断って歩き始めた。 暗い町をトボトボ歩いていると、また一人の男が近づいてきた。「どこに行くんだ?両替は要らないか?何か売るものはないか?」無視して歩き続けるも、小判鮫のようにどこまでも着いてくる。そのうちに「Goodな安宿を知っているのでそこに案内してやる」と言うので、疲れていたこともありこの男に着いて行くことにした。
その後、宿の人達は警察に行った方が良いと言うので、宿の人の車で警察署へ連れて行ってもらった。 宿に帰るとお腹が減ったので晩飯を食べに町に繰り出したが、さっきの事件のせいで声をかけてくる黒人全部が泥棒に思えてくる。 その夜はショックと疲れでほとんど寝れなかった。 後にベリーズは良かったですよと感想を述べる旅行者は結構多く、一回くらい嫌なことがあってもその国は嫌いになっちゃ駄目だし、もう少し滞在していたらきっと親切な黒人にも会ってベリーズを好きになれたかもしれないと考え少し後悔した。 |
| ◇1991年7月 コロンビアで肝炎発症 |
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コスタリカの首都サンホセの安宿”ティカリンダ”でその兆候はあった。 カルタヘーナへ向かう途中、サンアンドレス島にワンストップ。この島はカリブ海に浮かぶコロンビア領の島。島全体がフリーゾーン(免税)となっておりカリブ海の美しさと合わせてまさしく観光地だ。 この時も未だ本調子ではなく、サンアンドレス島のトイレに行った時に尿がやけに黄色くムムッと焦った。肝炎にかかると尿が黄色くなると聞いていたからだ。 カルタへナの宿で本格的に調子が悪くなり今度は真っ白なう△こが出てきた。ショックで卒倒しそうになった。肝炎になるとう△こも白くなるのだ。僕の体に間違いなく重大な異変が起きているこを確信した。 カルタへナから首都ボゴタまではバスでまる一日。とてもそんな体力はないので飛行機でボコタに移動する。 東京海上火災の事務所では日本人は出張中とのことで不在であったが、コロンビアの女性が親切に日本に電話をしてくれて、僕は日本語で事情を話し病院を紹介して貰うことができた。 血液を抜く注射器が日本では見たこともないような太い針で「ギョエー」と声には出さなかったが心に中で叫んでしまった。 翌日は交通渋滞に捕まり予約した時間に大幅に遅れてしまった。先生は「No hay problema」と笑って手を振りながら「やっぱり肝炎に罹っているね」とショッキングな診断をさらりと言ってのける。 先生「それじゃあ薬を出すのでしばらく通院しなさい」 その日は入院手続きをして明日から入院することが決定する。 後日談になりますが、日本で再検査した結果は”A型肝炎”。約1ヶ月の入院、2ヶ月の自宅療養後に再度ロスアンジェルス経由ペルーへ飛んで無事旅を再開することができました。 |
| ◇1991年7月 カルタヘーナ(コロンビア)で両替詐欺 |
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『コロンビアで肝炎発症』でも書きましたが、カルタヘーナで体調が悪く飛行機でボコタへ飛ぼうと決意した時、チケットを買うお金がなかったので暑いさなか銀行を探してウロウロ。なかなか銀行を見つけることができずいい加減うんざりし始めた頃でした。 闇チェンは別に初めてではなかったので、レートを聞いた上で飛行機代100ドルを両替することにした。 100ドル分のコロンビアペソがあることをを確認してそのお金をポケットに入れて旅行代理店に向かった。 くやしいというよりも、あまりに芸術的な技術に感心してしまった。 |
| ◇1991年11月 コルンバ(ブラジル)で大金をやられた!! |
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ボリビアのサンタクスルからブラジルのコルンバまで電車に乗ってやってきた。この電車は通称泥棒列車として有名で、警官が色々といちゃもんをつけてきて物を盗んだりするので注意が必要だ。この悪評高い泥棒列車も無事にクリアしてやって来たのはブラジルのコルンバ。ここはパンタナール(大湿原)の観光の基地になる町だ。パンタナールは九州がすっぽり入りくらいに広い大湿原で動物・鳥の宝庫。通常は2泊から3泊のツアーに参加して、各ツアー会社が提携しているFarm Houseに滞在しながら車であっちこっち観光するのが一般的だ。 ご多分に漏れず僕もコルンバで知り合ったオランダ人のカップルとドイツ人の青年の合計4人でツアーを組んでパンタナール観光に出発することとなった。 話は変わるが旅行者の悩みの種の一つは如何にしてお金を安全に持ち運ぶかにある。「金がなけりゃあ旅はできない」の諺(ないか)にもある通りお金は命の次に大事な旅の必需品だ。 パンタナールの醍醐味に話しを戻そう。滞在中は毎日色々な企画があって飽きることがない。乗馬をしたり、釣りを楽しんだり(ピラニアが釣れた)、もちろんトラックでパンタナール大湿原にも繰り出した。極彩色の鳥たちや草食動物達が僕たちを歓迎してくれた。 事件はこんな素敵なパンタナールを満喫して明日コルンバに帰る日の夕方に起こった。 このツアーに同行していたブラジル人の少年がなんかゴソゴソとやっている。隠しポケットがついたズボンはきちんとザックの中にしまえばよかったんだろうけど、気の緩みかザックに上の掛けておいただけだった。
そのうちにその少年も居なくなり夕食を取りに食堂へ行く前に、ふっと【念のために貴重品をしらべてみよう】と思って長ズボンの隠しポケットを確認してみると.......。ない!ない!!ない!!!あるはずのお金と帰りの航空券さん達がそこに本来あるべき場所にないのである。 今回は諦めるしかないのか。盗られたのはドル現金(700ドル)と帰りのエクアドル航空の航空券(キト-ロスアンジェルス)。現金は海外旅行保険でも填補されないので諦めるしかないが、航空券はなんとか再発行できないかを考えよう。 後日チリのサンチャゴのエクアドル航空のオフィスで700ドルのデポジットを支払うことを条件に航空券の再発行には成功した。このデポジットは盗難にあった航空券が不正利用されなかった場合、半年後に返金されるとの約束だった。 |
| ◇1992年2月 キト(エクアドル)でナイフで切られた |
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中南米一周の旅も終盤。最後の目的地であるエクアドルの首都キトでこの旅最後(?)の強盗に出会ってしまった。 僕はパタゴニアのパイネ国立公園のトレッキング中に出会い、チリのサンチャゴで再会した今井さんとう女性と一緒に旅をしていた。サンチャゴから3泊4日のバスの旅で一気にエクアドルのキトに移動。僕は旅の終着駅として、彼女はホームステイをしながらスペイン語を勉強するというそれぞれの目的を抱えてやって来たのだ。 首都キトの旧市街に見晴らしの良い丘がある(名前は忘れた)。旅も終わりに近づきセンチメンタルになっていたのだろう。旧市街を一望出来るその丘に登って夕日を見ようなんて阿呆なことを考えたのが悪かった。二人して夕方の坂道を「早くしなければ夕日に間に合わないね」なんて言いながら早足で登った。 頂上に着いた時には太陽もかなり西に傾きとっても良い雰囲気。それぞれが適当な場所に陣取り、僕にとって南米最後のドラマがいつ始まるのか首を長くしながら太陽を見つめていた。 6人くらいのエクアドル人が僕らに向かって歩いて来た。彼らも夕日を見に来たのかなと思って「Hola!!(こんにちは)」と声をかけてすれ違おうとしたその瞬間だった。彼らは棒を振りかざし僕と今井さんに襲いかかってきた。何人かはナイフを持ち僕に斬り掛かってきた。そしてナップサックを奪われた。彼らはそれに満足せずにさらに「Reloj(時計)」と叫びながら時計までよこせと身振りで要求してくる。 一瞬の出来事だった。抵抗することもなくすべてを奪われてしまった。僕の被害はザックに入れておいたカメラと時計。彼女の被害もカメラだった。 南米最後の思い出が悪夢にかわった。今まであったトラブルに中で一番ショックな出来事だった。南米を1年近く旅してきたことによる驕り油断があったのだろう。人気のない夜道は歩かないという旅の基本的なことを怠ってしまった。 でも、こんなことで僕のすばらしい南米の思い出が色褪せてたまるかと思い直した。この悪夢を努めて忘れようとしながら僕は南米最後の地を後にした。 |
| ◇1993年10月 マニラ(フィリッピン)で睡眠薬強盗 |
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以前より睡眠薬強盗の話は人づてに聞いていた。親しくなった人と一緒に飲んだお酒に睡眠薬が混入されており、気がついたら身包みはがされて朝だったなんて話は旅行中に良く耳にした。 1993年は僕が社会人になった1年目。この年はいきなり仕事が忙しく夏休みが取れなかったが10月に入ってようやく1週間の休みを貰うことが出来た。1週間もあるのでフィリッピンでも行ってみるか?と南米で出会った友達の稲垣と一緒に5泊6日のフィリッピンお気楽旅行に出かけることにした。 マニラに着いた翌朝。僕たちはマニラの北に位置する高原都市バキオに行く予定にしていた。バキオは十何年か前に大地震にみまわれ日本でも大きく報道された。未だ地震の爪痕は生々しく当時僕らが訪れた時も倒壊した建物がそのまま放置されているような状況だった。 バスターミナルで今日夕方のバキオ行きバスのチケットを購入したらもうやることがなく、公園でブラブラして時間をつぶしていた。すると2人組の女の子が「何をしているの?」と話しかけてきた。僕たちは今日の夕方バキオに行く予定にしていること。それまではすることがないので暇していることを彼女たちに説明して聞かせた。 彼女たちのそんな悪巧みなんかつゆも知らず僕は「結構良い話じゃん」と少し渋っていた稲垣を強引に説き伏せてタクシーで一緒に友達の家に行くことにした。 見慣れぬ町中の道をクネクネと走りやがて一軒の家の前でタクシーは止まった。薄暗い家の中に招き入れられ狭い階段を登ったところが居間みたいになっており既に何人かの人が座って話し込んでいた。(今となって考えると、「こいつらをどう料理してやろうか」と相談していたんだろうな。くやしーー。) 気がつくとまさに出発しようとしているタクシーの中だった。家の前には「バイバイ」と先程の皆さんが手を振ってお見送りをしてくれていた。朦朧とした頭でこちらも「さようなら」と手を振り返す。予約したバスの時間が迫っており「バスターミナルまで行ってくれ」と運ちゃんに告げまた眠り込んでしまう。 翌朝、目覚時計の音で目が覚めバスターミナルに向かう。 親切な泥棒っていうのも変な話だが、盗まれたのはトラベラーズチェックのみで、しかも全部盗るんじゃなくて一部残しておいてくれていた。しかもキャッシュとカメラなどのその他の貴重品は全くの手付かず。 盗まれたトラベラーズチェックはバキオですぐに国際電話をして止めて貰ったので帰国後全額僕の手元に帰ってきた。 「女の色香に迷わされるからこんなことになるんだ」と非難されるのが目に見えていたのでこの話は今まで秘密にしてきたんだけど、同じ目には二度と会わないぞという自戒の意味も込めて披露することにしました。 今となっては笑い話だが、犯人が仕込んだ睡眠薬が致死量を越えていたのでそのまま死んでしまったという恐ろしいケースもあるのでやっぱり細心の注意が必要です。 |
| ◇1998年7月 アイスランドで交通事故寸前 |
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アイスランドがどのへんにあって首都の名前は何ていうのか知っている人はかなり通だと思う。 一方、アイスランドはイギリスの遙か北。北極圏に位置する火山の島である。冷戦雪解けのきっかけとなったレーガンとゴルバチョフの米ソ首脳会談が首都レイキャビックで開催されたと聞くと「あーそうか」と思う人もいるんじゃないでしょうか。 30万人の人々の大半が首都レイキャビックと第二の都市アークレイリーに住んでいる。鉄道はなく移動はバス主体にならざるえをえないのだが、少ない人口が都市部に集中しているので当然アイスランド国内移動の需要は大きくない。従ってバスの本数も少なくアイスランドは非常に旅をしにくい国なのである。 10日間と時間の限られていた僕たちはレンタカーを利用することにした。自然環境を大事にするアイスランドは車の総数を規制する為に車に高い関税を設けておりレンタカーの料金も当然高い。一日2万円弱くらいだ。一生に一度の新婚旅行だと考え清水の舞台から飛びおりる覚悟で決意する。 すがすがしい朝のなかレイキャビックを出発。嫁さんが運転。僕がナビ。出発してから30分くらいたったろうか。ゴムの焦げたようなにおいが車内に充満しはじめた。「クンクン。なんか焦げ臭くない?」と僕。「そーね。なんか焦げ臭いわね」と嫁さん。外から漂ってくるにおいかなと思って窓を開けてクンクンしてみるがどうも違うみたいだ。日本の田舎を車で走っているときに、臭いなーと思って窓を開けると養豚場の近くだったなんてことがたまにあったから今度もそうかなと思ったのだ。 アイスランドはの景色は美しい。車からそんな風景を眺めていると出発早々のアクシデントなんて忘れてしまった。 アイスランドは北極海に浮かぶ島国。内陸部は火山中心の荒涼とした大地。道もあるにはあるのだが夏の間の本当に短い間だけしかOpenとならず、しかも4DWでしか行けないすごいダートの道。僕の愛車の韓国製現代の『ふつう』の車ではとっても行くことができない世界。 砂利道は結構運転しにくい。日本のように殆どが舗装され快適な道路を普段走っていると分からないのだが、砂利道は雪道を運転するように滑りやすいのである。急ブレーキなんてもってのほかである。 事件はそんな砂利道を走っているときに起こった。 車は舗装された道を走ったと思ったら未舗装の砂利道を走り、また舗装された道を走るというように路面の状態がコロコロ変わるのでそれに合わせてスピード・アクセルワークも調整しなければならない。 それ以降、危ない道路は全部嫁さんが運転して僕は運転させて貰えなかった。(当然か?) |