旅先で会ったトラブルの数々

 

◇1990年2月 タイのバンコクで騙された!!(1)

今となっては、どうしてこんな古典的な手口でやられたのだろうか?と疑問に思うのだが当時は旅の初心者でやっぱり若かったのだろう。

もう10年以上も前のことであり記憶もはっきりしないのだが、バンコクのチャオプラヤー川のほとりをブラブラ散歩していた時だったと思う。
「あなた日本人ですか?今日はどこ行きますか?」と日本語で話し掛けられたのがきっかけだった。振り向くと人の良さそうなおじさんがニコニコして自分のことを見つめている。【さすが微笑みの国のタイだー!!】なんて思ったかどうかさだかではないが、やることがなくて暇だった当時の僕はあっさりとこのおじさんの術中にはまっていった。

10分くらいお話をして、チャオプラヤー川を船で一緒に遊覧しましょうということにトントン拍子に話はまとまった。
そこに我々を待っていたかのように(実際は待っていたんだよな)、実にタイミング良く小型モーターがついた船が現れた。
何の疑いもなくおじさんと一緒に乗り込んだ。良く思い出せないが、船上では日本のこと、自分の旅のことなどで話は盛り上がったと思う。
途中レストランで食事をして、シンハービールなどを一緒に飲みかわし、【これぞ地元の人々との触れ合いだー】 なんてすっかり陶酔していたんだと思う。おまけに勘定はおじさんが払ってしまいびた一文受け取ろうとしない。【本当に良いおじさんだ!!】

3時間くらいたったろうか?船は船着場を目指して快調に進みこのまま行けばタイの良い思いでの一こまとして僕の胸に刻まれたんだろうけど、現実はそんなに甘くはなかった。
岸辺まで残り15メートルあたりで船が突然止まった。おじさんが申し訳なさそうに「船頭さんに50ドルを払わなければいけない。払わなければ喧嘩になってしまう」と言った。そんなの聞いてないよーと思いながら文句を言うも後の祭り。船頭さんは無表情におじさんと僕とのやり取りを見つめている。不気味だ。
結局タイバーツの持ち合わせがなかったので、トラベラーズチェックで勘弁してもらった。

今ならば絶対やらないが、当時の僕はウエストポーチにパスポートやらトラベラーズチェックやらを入れていた。別れ際にそのおじさんは親切に「バンコクは治安が悪いから、ウエストポーチなんかに貴重品を入れていたら危ないよ」 と忠告してくれた。

有難うおじさん。その後はウエストポーチから腰ベルトに貴重品入れを変更しました。

 

◇1990年7月 タイのバンコクで騙された!!(2)


うだるような暑さのなかカオザンの安宿から王宮に向けてトボトボ歩いていた。王宮にようやく着いて近くのベンチに座って休んでいると、タイの若者5人くらいに声をかけられた。
「How are you? Are you Japanese?」 これは悪巧みを考えている人達のお決まりの言葉。
分かっていながらも、気の弱い僕はなぜか誘われるままに一緒にトュクトュクに乗り込んでしまった。

連れて行かれたのは町中の屋台。一緒に酒を飲もうということになってビールで乾杯。そして次に僕の大好きなメコンが出てきた。メコンはタイの国民ブランドウイスキー。日本では不味くて飲めないけど、なぜか暑いタイではおいしく感じてしまう。 メコンに氷を入れてコーラでわると喉ごし良く非常に飲みやすくなる。自分でも気づかずについつい飲み過ぎてしまって悪酔いしてしまう危険な飲み物だ。

非常に楽しかった。一緒に記念写真を取って貰ったり、ムエタイの模範演技みたいなものを披露してくれたり。
調子にのって飲み過ぎたんだと思う。 お勘定する時になって「お金が足りないから300バーツ貸してくれないか?明日かならず返しにいくから」とお願いされた時も、金額が大きくなかったこともあって特に驚かなかった。酔った頭では【この人達は良い人だから必ず明日僕のゲストハウスまでお金を返しに来てくれるんだ!!】と阿呆な思考回路で考えた。
結局、300バーツのお金を貸してあげて、みんなに笑顔で見送られながらトュクトュクで一人帰路についたのだった。

翌朝まともな頭で【やっぱり来るはずないよな】と考えながらゲストハウスで待っていたが、約束の時間を過ぎても誰も現れなかった。
おまけに帰国後に取って貰った記念写真を現像してみると、顔から下しか写っておらず、この時になってやっと騙されたんだー!と確信したのでした(遅すぎるって)。そういえば、最初僕がみんなの写真を撮ろうとしたら、「いやいや、私が撮ってあげよう」と言われてごく自然にカメラを渡したんだったよなー。

悪い人の見分け方その1 - 写真を撮ってあげると言って、その人が避けようとしたら要注意。

 

◇1991年5月 ベリーズで強盗

メキシコのカンクンでリゾートライフを満喫するつもりが、あまりの物価の高さに滞在2日間で逃げ出しベリーズに向かった。

ベリーズは20年くらい前までは英領ホンジュラスと呼ばれたイギリスの統治国。従い、スペイン語圏の中米の中では異色の英語圏。通過もドルリンクで1$=2BZ$(ベリーズドル)だった。カリブの美しい海が見所で、キーカーカーというカリブに浮かぶ島が旅行者には特に人気。物価の高いカンクンで満喫できなかったリゾートライフをここベリーズで堪能しようとワクワクしていた。

朝カンクンを出たバスはお昼過ぎに国境に到着。そこでベリーズのおんぼろバスに乗り換えてベリーズシティーを目指す。
車窓からは、憧れのカリブ海の海面に真夏の太陽が照りつけ、まるで星をちりばめたようにキラキラと輝いている。僕のリゾートライフへの期待もそれに比例するようにますます高まっていった。

やがて太陽も沈みバスは真っ暗な中を進んでいく。【今日の宿はどうするかなー。無事に見つかるかなー】なんて思いながらガイドブックで研究しているうちにバスは真っ暗なターミナルに到着した。

もう一つ、ベリーズが他の中米諸国と違うところは黒人の国であることだ。
外灯が少なく町が非常に暗いことに加えて、見慣れない黒人が一杯の国でいささか平常心を欠いてしまった。そしてベリーズシティーが決して治安の良い町ではなく、特に夜間は注意しなければならないことも忘れていた。

バスターミナルで立ち止まり地図を眺めていると、どこからともなくタクシーが近づいてきて黒人の運転手が「どこに行くんだ?」と声をかけてきた。本当ならば無理せずタクシーに乗るべきだったんだろう。平常心を欠いていた僕は黒人の運転手に少し驚き、安宿街がバスターミナルからそんなに離れていないことが分かり、タクシーは断って歩き始めた。

暗い町をトボトボ歩いていると、また一人の男が近づいてきた。「どこに行くんだ?両替は要らないか?何か売るものはないか?」無視して歩き続けるも、小判鮫のようにどこまでも着いてくる。そのうちに「Goodな安宿を知っているのでそこに案内してやる」と言うので、疲れていたこともありこの男に着いて行くことにした。
ホテルに到着して部屋を見せて貰うとまあまあだったのでこのホテルに決めることにする。男にはその旨を伝えると握手をして帰っていった。【思ったほど悪い人間じゃなかったのかもしれない。警戒して悪かったかなー】と思いながらお金を払うためにポケットから財布を出した瞬間にさっき帰ったはずの男が僕の財布めがけて突然襲ってきた。
フロントの前でしばらく財布を掴んだまま揉み合いになったが、この男が財布を掴んでる僕の手に噛みついてきた。
その拍子に僕は財布を握る手を離してしまった。男の勝ちだった。肩で息をしながら呆然と立ちすくむ僕。財布には大金を入れないようにしていたので盗られたお金は20ドルくらいだったが、騙されたことはあっても強盗に会って強奪されたのは旅に出て初めてだったので、そっちの方がショックだった。

その後、宿の人達は警察に行った方が良いと言うので、宿の人の車で警察署へ連れて行ってもらった。
愛想の悪いお姉ちゃんに事情を話すと、顔写真をファイルした書類を2冊ばかしドンと渡されてこの中から犯人の顔を探せと言う。
夜でその男の顔もよく覚えていないし、写真の男達はほとんど黒人でみんな同じような顔に見えてしまう。
そんな無茶なー!と思いながら、お義理にパラパラ書類を見てみるが全く分からん。たくさんの盗人がベリーズに居て治安はやっぱ悪いんだ。あの時タクシーに乗っていればなーと後悔の念ばかり。
結局は簡単な調書をとられて1時間ばかしで警察署を後にした。

宿に帰るとお腹が減ったので晩飯を食べに町に繰り出したが、さっきの事件のせいで声をかけてくる黒人全部が泥棒に思えてくる。
早足で見つけた中華レストランで焼きそばとビールを頼んで一人座って待っていると、見ず知らずの男が同じテーブルに座りビールを一杯ごちそうしてくれと厚かましいことを平気で言う。
こいつらの頭の構造はどうなってるんだと思いながら完全に黙殺。

その夜はショックと疲れでほとんど寝れなかった。
翌朝ホテルからバスターミナルに歩く途中も身長2メートルはあると思われる黒人から「Hey Man!!」と声を掛けられ固まってしまった。
本当ならば今日はキーカーカーに行く予定だったのだが、そんな気にはなれず逃げるようにグアテマラに向けて出発した。

後にベリーズは良かったですよと感想を述べる旅行者は結構多く、一回くらい嫌なことがあってもその国は嫌いになっちゃ駄目だし、もう少し滞在していたらきっと親切な黒人にも会ってベリーズを好きになれたかもしれないと考え少し後悔した。

 

◇1991年7月 コロンビアで肝炎発症

コスタリカの首都サンホセの安宿”ティカリンダ”でその兆候はあった。
風邪ぎみで体がだるく熱っぽい状態が続いていた。でも、寝込むほどではなく町も歩き回れたのでそんなに気にすることなく僕は次の目的地であるコロンビアのカルタヘーナへの飛行機を予約した。

カルタヘーナへ向かう途中、サンアンドレス島にワンストップ。この島はカリブ海に浮かぶコロンビア領の島。島全体がフリーゾーン(免税)となっておりカリブ海の美しさと合わせてまさしく観光地だ。
サンアンドレス島に着陸する時に飛行機より見たカリブ海の美しさは、まさに観光の島に値するものだった。

この時も未だ本調子ではなく、サンアンドレス島のトイレに行った時に尿がやけに黄色くムムッと焦った。肝炎にかかると尿が黄色くなると聞いていたからだ。

カルタへナの宿で本格的に調子が悪くなり今度は真っ白なう△こが出てきた。ショックで卒倒しそうになった。肝炎になるとう△こも白くなるのだ。僕の体に間違いなく重大な異変が起きているこを確信した。

カルタへナから首都ボゴタまではバスでまる一日。とてもそんな体力はないので飛行機でボコタに移動する。
ボコタに着いたらやることは一つ。病院に行くことだ。僕は東京海上火災の海外旅行者保険に加入しており、幸いボコタには東京海上火災の支店があったのでそこまで辿り着ければ何とかしてくれると思ったからだ。

東京海上火災の事務所では日本人は出張中とのことで不在であったが、コロンビアの女性が親切に日本に電話をしてくれて、僕は日本語で事情を話し病院を紹介して貰うことができた。
予約して貰った病院は大変立派できれいな外観だったので少し安心する。先生は既に個室で待っており僕は英語で体の調子を説明した。先生はフンフンと聞いた後にそれじゃあ「血液検査をしてみましょう」となり、可愛い看護婦さんが検査室まで連れて行ってくれた。
病院の看護婦さんはみんな可愛くて【しばらく入院も悪くないかなー】とスケベ心がムクムクと頭をもたげてきた。

血液を抜く注射器が日本では見たこともないような太い針で「ギョエー」と声には出さなかったが心に中で叫んでしまった。
検査の結果は翌日判明するので明日また出直すこととする。

翌日は交通渋滞に捕まり予約した時間に大幅に遅れてしまった。先生は「No hay problema」と笑って手を振りながら「やっぱり肝炎に罹っているね」とショッキングな診断をさらりと言ってのける。
半ば覚悟していたもののいざとなるとやっぱりショックだ。でもその反面病名が確定してホットした面もある。

先生「それじゃあ薬を出すのでしばらく通院しなさい」
僕「えっ、入院しなくても大丈夫なんですか?」
先生「えっ、入院したいの。じゃあしばらく入院してみる?」
僕「........」(頼りないなー、大丈夫かな)

その日は入院手続きをして明日から入院することが決定する。
病院からホテルまでの道をブラブラ歩いていると、「侍屋」というの日本食レストランを偶然見つけた。体調も良くなかったので、迷うことなく今日は日本食で行こうと決断する。
店主は確か高橋さんとおっしゃたと思うが(記憶が定かでなく間違っていたらごめんなさい)、体調が悪く今日医者に行ったら肝炎と診断されたことを説明すると、「コロンビアの医療水準は日本に比べて十分ではなく肝炎は慢性化すると怖い病気なので日本できっちりと治した方が良い」とアドバイス頂いた。
今回は勇気ある撤退をして完治したらまた旅を続けようと思った。異国の地で一人で入院することに不安を抱いていた時だったので決断は早かった。高橋さんに決意を告げるとご親切に明日の飛行機の予約までして下さった。ボコタ発ロスアンジェルス行のアビアンカ航空。
現実感が全くなかった帰国が突然目の前に迫ってきた夜だった。

後日談になりますが、日本で再検査した結果は”A型肝炎”。約1ヶ月の入院、2ヶ月の自宅療養後に再度ロスアンジェルス経由ペルーへ飛んで無事旅を再開することができました。

 

◇1991年7月 カルタヘーナ(コロンビア)で両替詐欺

『コロンビアで肝炎発症』でも書きましたが、カルタヘーナで体調が悪く飛行機でボコタへ飛ぼうと決意した時、チケットを買うお金がなかったので暑いさなか銀行を探してウロウロ。なかなか銀行を見つけることができずいい加減うんざりし始めた頃でした。
僕の心の中をまるで読んでいたように実にタイミング良く、「Quiere Cambiar?(両替したいのか?)」と声を掛けられた。

闇チェンは別に初めてではなかったので、レートを聞いた上で飛行機代100ドルを両替することにした。
男はその場で紙幣を取り出し一枚二枚と数え始める。体の調子が悪い僕は男の動作をボッと眺めていた。

100ドル分のコロンビアペソがあることをを確認してそのお金をポケットに入れて旅行代理店に向かった。
チケットを発券して貰い、さあお金を払おうと先程両替したお金をポケットから取り出してみると、あらっ.........。
高額紙幣の間に挟まったお金はすべて少額紙幣にすり替えられており、全部数えても100ドル相当のコロンビアペソの半分にも満たない。やられたー!!と思ったが、いつすり替えられたのかが全く思い当たらない。

くやしいというよりも、あまりに芸術的な技術に感心してしまった。

 

◇1991年11月 コルンバ(ブラジル)で大金をやられた!!

ボリビアのサンタクスルからブラジルのコルンバまで電車に乗ってやってきた。この電車は通称泥棒列車として有名で、警官が色々といちゃもんをつけてきて物を盗んだりするので注意が必要だ。この悪評高い泥棒列車も無事にクリアしてやって来たのはブラジルのコルンバ。ここはパンタナール(大湿原)の観光の基地になる町だ。パンタナールは九州がすっぽり入りくらいに広い大湿原で動物・鳥の宝庫。通常は2泊から3泊のツアーに参加して、各ツアー会社が提携しているFarm Houseに滞在しながら車であっちこっち観光するのが一般的だ。

ご多分に漏れず僕もコルンバで知り合ったオランダ人のカップルとドイツ人の青年の合計4人でツアーを組んでパンタナール観光に出発することとなった。

話は変わるが旅行者の悩みの種の一つは如何にしてお金を安全に持ち運ぶかにある。「金がなけりゃあ旅はできない」の諺(ないか)にもある通りお金は命の次に大事な旅の必需品だ。
どこに隠してお金を安全に持ち運ぶかがそれぞれの旅行者の腕の見せ所である。靴の裏底に隠したり、ズボンに隠しポケットを作ったりが一般的なところだろう。僕もズボンの太もものあたりの裏生地のあたりに隠しポケットを縫い込んで帰りの航空券と米ドル現金700ドルを隠していた。

パンタナールの醍醐味に話しを戻そう。滞在中は毎日色々な企画があって飽きることがない。乗馬をしたり、釣りを楽しんだり(ピラニアが釣れた)、もちろんトラックでパンタナール大湿原にも繰り出した。極彩色の鳥たちや草食動物達が僕たちを歓迎してくれた。

事件はこんな素敵なパンタナールを満喫して明日コルンバに帰る日の夕方に起こった。
今日まではずっと隠しポケットがついた長ズボンを履いていたのだが、あまりの暑さに短パンに履き替え【パンタナールは良かったなー。ちょっと高かったけど来て良かった】なんて物思いに耽りながらハンモックに揺られている時だった。

このツアーに同行していたブラジル人の少年がなんかゴソゴソとやっている。隠しポケットがついたズボンはきちんとザックの中にしまえばよかったんだろうけど、気の緩みかザックに上の掛けておいただけだった。
「何をやっているんだろ。貴重品は大丈夫かな」とちょっと気になったが、隠しポケットに入れてるお金まではまさか盗られないだろうと思い直し、敢えてその少年に視線をやることはしなかった。

そのうちにその少年も居なくなり夕食を取りに食堂へ行く前に、ふっと【念のために貴重品をしらべてみよう】と思って長ズボンの隠しポケットを確認してみると.......。ない!ない!!ない!!!あるはずのお金と帰りの航空券さん達がそこに本来あるべき場所にないのである。
ザックをひっくり返し探してみたがやっぱりない。さっきゴソゴソやっていた少年のことを思いだした。やられたんだ。確証はないけどそうとしか考えられない。
その少年を問いつめることも考えたが、現場を押さえたわけではないし。白を切られればそれまでだろう。 しかも貴重品の管理をちゃんとやらなかった僕にも十分落ち度がある。

今回は諦めるしかないのか。盗られたのはドル現金(700ドル)と帰りのエクアドル航空の航空券(キト-ロスアンジェルス)。現金は海外旅行保険でも填補されないので諦めるしかないが、航空券はなんとか再発行できないかを考えよう。

後日チリのサンチャゴのエクアドル航空のオフィスで700ドルのデポジットを支払うことを条件に航空券の再発行には成功した。このデポジットは盗難にあった航空券が不正利用されなかった場合、半年後に返金されるとの約束だった。
このデポジットは帰国後、しばらくたって無事に僕の手元に帰ってきた。

 

◇1992年2月 キト(エクアドル)でナイフで切られた

中南米一周の旅も終盤。最後の目的地であるエクアドルの首都キトでこの旅最後(?)の強盗に出会ってしまった。

僕はパタゴニアのパイネ国立公園のトレッキング中に出会い、チリのサンチャゴで再会した今井さんとう女性と一緒に旅をしていた。サンチャゴから3泊4日のバスの旅で一気にエクアドルのキトに移動。僕は旅の終着駅として、彼女はホームステイをしながらスペイン語を勉強するというそれぞれの目的を抱えてやって来たのだ。

首都キトの旧市街に見晴らしの良い丘がある(名前は忘れた)。旅も終わりに近づきセンチメンタルになっていたのだろう。旧市街を一望出来るその丘に登って夕日を見ようなんて阿呆なことを考えたのが悪かった。二人して夕方の坂道を「早くしなければ夕日に間に合わないね」なんて言いながら早足で登った。

頂上に着いた時には太陽もかなり西に傾きとっても良い雰囲気。それぞれが適当な場所に陣取り、僕にとって南米最後のドラマがいつ始まるのか首を長くしながら太陽を見つめていた。
すこしづつ太陽が真っ赤な燃えるような色に変わり始め、やがて旧市街の建物の影の中にその美しいすがたを消していった。
僕は「フーーッ!」と心の中で南米に別れを告げる掛け声と共に勢いよく立ち上がった。今井さんを見ると彼女も満足感に溢れた顔をしている。どちらからともなく「帰ろうか」と呟き薄暗くなった道を辿ろうとしたその時だった。

6人くらいのエクアドル人が僕らに向かって歩いて来た。彼らも夕日を見に来たのかなと思って「Hola!!(こんにちは)」と声をかけてすれ違おうとしたその瞬間だった。彼らは棒を振りかざし僕と今井さんに襲いかかってきた。何人かはナイフを持ち僕に斬り掛かってきた。そしてナップサックを奪われた。彼らはそれに満足せずにさらに「Reloj(時計)」と叫びながら時計までよこせと身振りで要求してくる。
今井さんの方を見ると彼女はナップサックを抱えながらうつぶせに倒れており、3人位が彼女からナップサックを奪い盗ろうとしていた。僕は時計を遠くに投げ捨てて彼女の元に走り寄ろうとしたのと同時に彼女のザックを奪うことに成功した奴らは一目散に坂道を駆け下りていった。

一瞬の出来事だった。抵抗することもなくすべてを奪われてしまった。僕の被害はザックに入れておいたカメラと時計。彼女の被害もカメラだった。
僕はこの日寒かったのでトレーナーを着ていたのだが、ナイフに斬りつけられそのトレーナーがざっく切り裂かれていた。T-Shirt一枚だったらと思うとぞっとした。
彼女の方は、強盗に襲われた時に自分の十得ナイフをだして応戦しようとしたが、揉み合っている間に自分のナイフで自分の指を傷つけてしまったらしく手から血がしたたり落ちている。さらに棒で殴られたのだろう。肩のあたりに痣が出来ている。

南米最後の思い出が悪夢にかわった。今まであったトラブルに中で一番ショックな出来事だった。南米を1年近く旅してきたことによる驕り油断があったのだろう。人気のない夜道は歩かないという旅の基本的なことを怠ってしまった。

でも、こんなことで僕のすばらしい南米の思い出が色褪せてたまるかと思い直した。この悪夢を努めて忘れようとしながら僕は南米最後の地を後にした。

 

◇1993年10月 マニラ(フィリッピン)で睡眠薬強盗

以前より睡眠薬強盗の話は人づてに聞いていた。親しくなった人と一緒に飲んだお酒に睡眠薬が混入されており、気がついたら身包みはがされて朝だったなんて話は旅行中に良く耳にした。
でも実際に体験した人に会ったこともなかったし、睡眠薬強盗なんて自分自身がしっかりしていれば引っかかるはずがないと思っていたので自分には関係ない遠い異国で起こった出来事のように考えていた。
それがまさか僕の身に降りかかってこようとは.....。

1993年は僕が社会人になった1年目。この年はいきなり仕事が忙しく夏休みが取れなかったが10月に入ってようやく1週間の休みを貰うことが出来た。1週間もあるのでフィリッピンでも行ってみるか?と南米で出会った友達の稲垣と一緒に5泊6日のフィリッピンお気楽旅行に出かけることにした。

マニラに着いた翌朝。僕たちはマニラの北に位置する高原都市バキオに行く予定にしていた。バキオは十何年か前に大地震にみまわれ日本でも大きく報道された。未だ地震の爪痕は生々しく当時僕らが訪れた時も倒壊した建物がそのまま放置されているような状況だった。

バスターミナルで今日夕方のバキオ行きバスのチケットを購入したらもうやることがなく、公園でブラブラして時間をつぶしていた。すると2人組の女の子が「何をしているの?」と話しかけてきた。僕たちは今日の夕方バキオに行く予定にしていること。それまではすることがないので暇していることを彼女たちに説明して聞かせた。
それを聞いた彼女たちは「あら、私たちも友達と一緒に今晩バキオに行く予定にしているの。良かったら一緒に行かない?これからその友達の家に行って相談しましょう」と飛んで火に入る夏の虫とばかりに食いついてきた。

彼女たちのそんな悪巧みなんかつゆも知らず僕は「結構良い話じゃん」と少し渋っていた稲垣を強引に説き伏せてタクシーで一緒に友達の家に行くことにした。
実は僕も【少しやばいかな】と思うことは思った。でも男二人いれば酷いことはされないだろうという安心感と、失礼ながら声を掛けてきた女の子達がお世辞にも可愛いタイプではなく「美人には棘がある。裏返せば美人じゃない人には棘がないだろう」と勝手に思いこんでしまったのだ。

見慣れぬ町中の道をクネクネと走りやがて一軒の家の前でタクシーは止まった。薄暗い家の中に招き入れられ狭い階段を登ったところが居間みたいになっており既に何人かの人が座って話し込んでいた。(今となって考えると、「こいつらをどう料理してやろうか」と相談していたんだろうな。くやしーー。)
暑いのでまずはビールでも飲みましょうという話になって誰かがビールを運んできた。グラスになみなみとつがれたビールを一気に飲み干す。冷えていてうまい。ふっと稲垣をみると急にあくびをしだして「なんか眠たーい」 と言いながらゴロンと横になった。こいつ何をやってんだろうなと思ったのが最後で僕の記憶もそこで途切れてしまった。

気がつくとまさに出発しようとしているタクシーの中だった。家の前には「バイバイ」と先程の皆さんが手を振ってお見送りをしてくれていた。朦朧とした頭でこちらも「さようなら」と手を振り返す。予約したバスの時間が迫っており「バスターミナルまで行ってくれ」と運ちゃんに告げまた眠り込んでしまう。
バスターミナルで乗り込むバスを問い合わせたところ「今日のバスはキャンセルされたので明日また来い」とのつれない返事。「なんでだんだよー!ふざけるな!」とわめき叫んで抗議する自分とそれを冷静に見つめる自分がいる。まだ思考回路が正常に働かず自分の感情が制御できない。
仕方ないから近くのホテルを探し、ベットに転がった途端に眠りに落ちてしまった。明日は朝が早いんだという意識が残っていたんだろう。無意識のうちに僕は目覚時計をセットすることを忘れなかった。

翌朝、目覚時計の音で目が覚めバスターミナルに向かう。
今日は問題なくバキオ行きのバスに乗り込むことができた。安心したのかすぐにまた眠りに落ちてしまう。
途中で目が覚める。このへんから頭の中に漂っていた霞が晴れていくように意識もかなりしっかりしてきた。
バスは無事にバキオに到着。ホテルの部屋の中で荷物を整理していると、相棒の稲垣が「なんかトラベラーズチェックが薄っぺらくなっている。」と言う。 そして「あっ!!なくなっている」。
「えっ!!」 と僕も自分のトラベラーズチェックを確認してみると抜かれている。
この時になって初めて二人して睡眠薬強盗にやられたことに気がついた。そういえば昨日ビールを飲んでからの記憶が曖昧で断片的だ。稲垣なんか全く思い出せないと言う。

親切な泥棒っていうのも変な話だが、盗まれたのはトラベラーズチェックのみで、しかも全部盗るんじゃなくて一部残しておいてくれていた。しかもキャッシュとカメラなどのその他の貴重品は全くの手付かず。
盗まれたのは間違いないが、彼女達とはお友達みたいに仲良くなったので可哀想と思って旅を続ける為に必要な最小限のお金は残しておいてくれたんだろう。
その手口に彼女達を憎む気にはならず、「あー、自分たちも睡眠薬強盗にやられちゃったんだなー。」とほのぼのした妙な気持ちだった。

盗まれたトラベラーズチェックはバキオですぐに国際電話をして止めて貰ったので帰国後全額僕の手元に帰ってきた。

「女の色香に迷わされるからこんなことになるんだ」と非難されるのが目に見えていたのでこの話は今まで秘密にしてきたんだけど、同じ目には二度と会わないぞという自戒の意味も込めて披露することにしました。

今となっては笑い話だが、犯人が仕込んだ睡眠薬が致死量を越えていたのでそのまま死んでしまったという恐ろしいケースもあるのでやっぱり細心の注意が必要です。

 

◇1998年7月 アイスランドで交通事故寸前

アイスランドがどのへんにあって首都の名前は何ていうのか知っている人はかなり通だと思う。
アイスランドを『アイルランド』と勘違いしている人は結構いるんじゃないだろうか。アイルランドはその北部がイギリスの北アイルランド、南部がアイルランドであり、現在もアイルランドへの帰属を主張する独立派(IRA)がテロを起こすという悲しい事件が起きている。

一方、アイスランドはイギリスの遙か北。北極圏に位置する火山の島である。冷戦雪解けのきっかけとなったレーガンとゴルバチョフの米ソ首脳会談が首都レイキャビックで開催されたと聞くと「あーそうか」と思う人もいるんじゃないでしょうか。
アイスランドは人口30万人ばかしの島国。国名の通り冬は氷に閉ざされた厳しい環境だが、夏はほんとうに美しい自然の宝庫だ。自称アウトドアー派の僕たちが新婚旅行先として選んだのがそんな自然の国アイスランドだった。

30万人の人々の大半が首都レイキャビックと第二の都市アークレイリーに住んでいる。鉄道はなく移動はバス主体にならざるえをえないのだが、少ない人口が都市部に集中しているので当然アイスランド国内移動の需要は大きくない。従ってバスの本数も少なくアイスランドは非常に旅をしにくい国なのである。

10日間と時間の限られていた僕たちはレンタカーを利用することにした。自然環境を大事にするアイスランドは車の総数を規制する為に車に高い関税を設けておりレンタカーの料金も当然高い。一日2万円弱くらいだ。一生に一度の新婚旅行だと考え清水の舞台から飛びおりる覚悟で決意する。

すがすがしい朝のなかレイキャビックを出発。嫁さんが運転。僕がナビ。出発してから30分くらいたったろうか。ゴムの焦げたようなにおいが車内に充満しはじめた。「クンクン。なんか焦げ臭くない?」と僕。「そーね。なんか焦げ臭いわね」と嫁さん。外から漂ってくるにおいかなと思って窓を開けてクンクンしてみるがどうも違うみたいだ。日本の田舎を車で走っているときに、臭いなーと思って窓を開けると養豚場の近くだったなんてことがたまにあったから今度もそうかなと思ったのだ。
何のにおいだろうと思って車内をキョロキョロ。僕の目は運転席の「赤いランプ」に釘付けになった。それはサイドブレーキのランプだったのだ。なんと30分もサイドブレーキを半分引いたまま走ってきたのだ。走り始めてたった30分でアイスランド一周の旅があえなく終了となるところだった。
車をとめてしばらくすると焦げ臭いにおいも消えてきたので気を取り直して出発する、嫁さんも2度も同じ失敗をしたら阿呆やと思ったのかどうか知らないが、アクセルを踏む前にカチャカチャと何度もサイドブレーキを点検している。【一回確認したら十分やろー】と思ったが一生懸命やっている嫁さんが哀れに思えてきて口に出して言わなかった。

アイスランドはの景色は美しい。車からそんな風景を眺めていると出発早々のアクシデントなんて忘れてしまった。

アイスランドは北極海に浮かぶ島国。内陸部は火山中心の荒涼とした大地。道もあるにはあるのだが夏の間の本当に短い間だけしかOpenとならず、しかも4DWでしか行けないすごいダートの道。僕の愛車の韓国製現代の『ふつう』の車ではとっても行くことができない世界。
日本でいう国道1号線みたいのが島の外縁を一周するように引かれている。この幹線道路でさえ舗装されているのは全体の7割くらい。後の3割は未舗装の砂利道だ。僕たちはその幹線道路に沿って途中トレッキングなど楽しみながらアイスランド一周する計画をたてた。

砂利道は結構運転しにくい。日本のように殆どが舗装され快適な道路を普段走っていると分からないのだが、砂利道は雪道を運転するように滑りやすいのである。急ブレーキなんてもってのほかである。

事件はそんな砂利道を走っているときに起こった。
アイスランドは車がめったに通らない。2時間走って車一台にも会わなかったなんてこともあった。
珍しく同じ方向を走る車が前方に1台、そして対向車線からトラックが走ってくる。
めったにお目にかからない対向車に「あー対向車だなー」と思いながら惰性で運転していた。ふっと見ると前方を走る車との車間距離がすごく詰まってきており僕は御法度の急ブレーキを踏んでしまった。
その瞬間に車は横滑りを始め対向車線にはみだした。そこにトラックが。ハンドルを取られたがとっさに逆方向にハンドルを切り(ナイス判断!!)衝突寸前でトラックをかわすことができた。
「フー」とため息をつくと同時に嫁さんからは「なに考えてるの。スピードを出しすぎないでよ」と罵倒の言葉が飛んできた。
僕自身は危険なレベルまで到達することなく対処できたとの自信があったのでまだ心に余裕があった。この余裕がもっと怖い次の事件を引き起こすことになる。

車は舗装された道を走ったと思ったら未舗装の砂利道を走り、また舗装された道を走るというように路面の状態がコロコロ変わるのでそれに合わせてスピード・アクセルワークも調整しなければならない。
慣れてくると未舗装の道でも結構スピードを出せるようになってくる。その度に助手席の嫁さんからは「ちょっとスピード出過ぎじゃない」と注意を受けて、ググッとブレーキを踏んでスローダウンという具合だった。
対向車も来ないのでスピードをちょっと出してカーブを曲がろうとした時だった。カーブが思ったより急だったのでハンドルをグワッときった。その瞬間にまたもや悪魔の横滑りが。「キャー」という嫁さんの叫び声を聞きながら車をたてなおそうと努力した。が、車は全くの操縦不能状態。なすすべもなく路肩を突き抜け車は崖から落ちた!と思ったんだが運良く崖ではなく畑だったので畑に突っ込んで止まった。エンジンも止まった。畑に突っ込んだ時に横転しちゃうのねと車は傾いたのだが、助手席の嫁さんの体重でバランスが取れたのだろう。程なく水平に戻った。
車外に出て車を点検するが傷一つついていない。エンジンを再度始動させてみると問題なくかかった。全くの奇跡といって良いだろう。ガードレールもない断崖の道路が多かったので落ちたところがたまたま畑で本当に助かった。

それ以降、危ない道路は全部嫁さんが運転して僕は運転させて貰えなかった。(当然か?)