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モラリティと裁判 - 鈴木一朗

署名提出の映像、拝見致しました。10万という数は、事故の内容以前に「講習会にて受講生を死に至らしめたにも関わらず、謝罪しないのはおかしいのではないか?」というごく常識的な考えを持っている方の多さと感じております。
 法的責任の有無というより、主催者としての道義的責任、すなわち<人として>というモラリティの問題として、文登研および文部科学省はおかしいのではないか、という声の大きさであろうと思います。
 また、事故報告書についても、講師の証言が入っていないなど、事故再発を防ぐ意味、そしてご遺族への説明責任という面においても、体裁を欠いております。これに対する常識的な疑念(=責任逃れがしたいだけなのでは?)も加味されたのであろうと感じます。

「山の事故は裁判に馴染まない」という方がいます。しかし、裁判以前の問題として事故概要、反省点がきちんとした形で出てこないことこそが問題なのであって、それがなされていれば、今回の提訴はなかったわけですし、結果、ご遺族が二重の意味で苦しむこともなかったのです。
 日本において、事故報告書の多くが、行動経緯の詳細を逐一追ったヒューマン・ドキュメントになるか、もしくは、なぜ現象(今回は雪庇崩落)が発生したのか、という因果論的な視点に偏る傾向が強いように感じます。
 ヒューマン・ドキュメントでは、現場で頑張った良い人が描かれるだけで、では一体何がミスで、何が教訓なのか、まったくわからないものになります。
 因果論的視点のみでは、肝心の人の側面が抜け落ちてしまいます。事故報告書では、雪庇の力学的解析がされておりますが、これが最たるものといえます。
「強度を見積もれたら雪庇に乗ってもいいのだろうか?」「見積もることが、山中にて、現実に、私たちに可能なのだろうか?」と考えれば、事故報告書として、ここの記述は、ほとんど無意味であることがわかります。

本来、事故報告書で問題とすべきは、雪庇の強度や大きさ、形成の予見性を考察することではなく、<グループ・マネジメント>という視点なのです。夏場の地形および経験的に大きな雪庇ができる場所であることが、事前に分かっているのですから、雪面のどこが山稜であるかを正確に検討すること(大まかな推察しかできませんから)よりも、「大人数が休憩する場所として果たして適地といえるのか?」という視点で山を見ることが大事なのです。これは、リスクが低い安全な場所を見つけだし、そこを上手に使いながら行動する・・・という山岳におけるリスク・マネジメントの基本です。
 それゆえ、今回の事故において、一つのグループがたまたま雪庇に進入して崩落したのではなく、いくつものグループが休憩のために次々と大集合していた・・・という事実は、非常に問題です。なぜなら、そこにいた講師全員が、グループ・マネジメントという概念を理解していない、もしくはとても軽視している、という証拠だからです。
 さらに、事故報告書に「グループ・マネジメント」という言葉が一切出てこないことから、文登研や文部科学省、そして調査委員会も、このような視座および問題意識を、まったく持っていないことがわかります。
 今回の事故の法的問題や道義的責任とは別に、もし、グループ・マネジメントという、山へパーティで入る際に必要不可欠な基礎概念と行動管理についての講習が行われておらず、また事故においても、そのような視座から捉えることができないのであれば、今後も、同種の稚拙なミスによる事故は起こりえるでしょうし、起こった後も、その検証が適切にされない、といった事態を、再び招きかねないのではないでしょうか? わたしは、それを強く危惧します。

また「なぜ、あの場所で休憩したのか?」という素朴な疑問への答えは「長くキツイ登りが終わり、雪と岩の殿堂であり、あこがれの対象でもある剱岳がよく見える場所ゆえ」という、ヒューマン・ファクター(人的要因)が関係していることは、誰でも想像できるところです。
 おそらく、講師は過去に何回もそこで休憩したことがあったでしょうし、雪庇のリスクは、当然、理解していたでしょう。しかし、原則を無視した行動を繰り返していれば、そのしっぺ返しは突然やってくる、という当たり前の事実を、今回の事故はよく証明しています。
「落ちるとは思わなかった・・・」という言葉は、実感としてはまさにその通りであろうと思いますし、それはよく理解できます。しかしながら、同時に、原則から逸脱する行為であった、ということも、彼らの心の中では理解しているであろうと思います。

裁判では、法的責任を問います。しかしながら、講師や事故報告書の作成に関わった人間が法廷に立った時、その答弁の過程で明らかになっていくのは、その人の<モラリティ>、そのものであろうと思います。自然に対する誠実さを優先するか、それとも別の何かを優先するか、ということです。
 真摯な科学者であれば、論文や報告がないというだけで「特異な現象」とか「予見できない」という言葉を、安易に事故報告書の中で使用することを、頑として拒否するでしょうが、研究費が欲しいだけの研究者であれば、その言葉を使うでしょう。
 真摯な山岳家であれば、休憩適地ではないこと、グループ・マネジメントのミス、そしてヒューマン・ファクターについて語り、謝罪するでしょうが、別の何かを優先する人であれば「経験を超えていた」と安直な返答に終始するでしょう。

山岳事故における法的責任についての記事が、最近、山岳雑誌等に掲載されております。しかし、そうした雑誌が取り組むべきは、法的責任とは異なった視座における問題の捉え方の提示ではないでしょうか?
 なぜなら、山岳文化の成熟度は、民法や国賠法といった法律によって規定されるわけではなく、山岳の世界に関わる人が共有するモラリティに依存するからです。法という視点からのみで山岳事故を捉えることは、自ら寄って立つ山岳文化、それ自体を卑しめているようにしか、わたしには見えません。

五竜遠見や八ヶ岳、ニセコ春の滝、そして他にも稚拙なミスによる事故が多々ありますが、事故後、当事者や主催者が繰り返す自然の姿をねじ曲げた形の反論=モラリティの欠如は、目を覆うばかりです。そして、本来、山岳文化が成熟しているところであれば、それは決して許されない行為です。
 なぜなら、山岳での事故は自然現象が関与するため、検証に慎重さが求められる場合が多く、事故原因を探るためは、これまでの知見による自然の姿や、過去の痛みの積み重ねである行動原則を手がかりとしていくからです。
 そして、そうしたものが皆に共有されているからこそ、対象をしっかりと見極められ、より安全な活動ができるようになっていくのです。しかし、自然の姿をねじ曲げた反論は、自然が内包するリスクに対する誤った理解を広めかねません。それは、新たな事故の遠因ともなりかねない罪作りな行為なのです。
 その意味で、自然やミスに対する不誠実な態度こそ、過去の貴重な経験や山岳文化の将来に対する冒涜であり、侮辱といえます。ですから、一部の山岳家が発している「同じ仲間を訴えるのか」という言葉は、まったく的外れ、と言わざるをえません。
仲間(過去の逝った人も含め)や山岳文化に対するモラリティの逸脱行為をしているのは、実は、ミスをミスと認めない人達や、自然に対する真摯な態度を忘れた研究者だからです。

100%の安全は存在しない・・・このようなことは誰でも、たとえ山登りをしない人でも、わかっていることです。リスクを許容しなければならないからこそ、自然に対して誠実であり続ける<厳しさ>が必要とされるのであり、それを護持するモラリティを持った人を、本物の山岳家や科学者と呼ぶのです。

これから裁判は核心を迎えますが、最終的な結果は、あくまで法的側面における決着であって、コインの片面である、と考えています。もう一方の面=山岳文化の成熟=モラリティの護持、については、裁判における各証人の言動を注視し、それをしっかりと記憶に留めるべきであろうと思います。そして、モラリティの欠如した人間は、山岳家であれ研究者であれ、指導的な立場につくことを、わたしたちは拒否すべきだと思います。

法的責任から逃れるため、モラリティの逸脱が平然と行われ、それにより事故の事実経緯の把握さえもままならないことが、これまでたびたび繰り返され、それが一向に改善されない日本山岳界の自浄能力の欠如を考えますと、法的側面、業界、および政府等とは、独立した形態の、第三者による調査諮問機関が必要であろうと思います。
山岳文化におけるモラリティの欠如という問題を、裁判という法的責任を問う方程式で解いていかなくてはならないことに、日本における山岳事故を巡る裁判の本質的な難しさがあります。しかし、モラリティの確立なくして、事故を教訓として生かす山岳文化は成立しないのです。裁判を注視したいと思います。

2004年07月03日



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