夏季錬成合宿 穂高涸沢生活
  昭和18年7月29日〜8月3日

パーティ 春日俊吉、関根庄寿、森田達雄、原 薫、倉野栄夫、粟生忠司、伊東正治、
鈴木 進、加藤貞美、犬塚寿子、野崎登代、金子美津江、高橋 実

 第1日(7月29日) 上高地泊り

 前夜新宿駅で会員諸兄姉の多数お見送りを受け、又色々結構なもの戴き、いつも変わらぬザイル仲間の友情に感謝し(本当に有難う)座席予約?の夜行で快適に出発。

 翌朝松本の知人の家で厚い待遇を受け、トラックに荷を頼み、島々から我々も乗るつもりで行って見ると大分話が違う。すっかり運ちゃんにだまされ、女の子三人しか乗せて貰えず、他の者は島々から坦々たるバス道路を汗ダクになって歩かせられた。然しこれが本当の夏季錬成だ。

 おかげで、一日で涸沢迄ノス計画がオヂャンになり、喧々囂々たるドンチャン騒ぎ、デカンショ節の横行する小梨平に気分の悪い一夜を明かす。

 いつになっても変わらないのは穂高の峰々と、梓川の清流と、細々と煙を上げる焼岳ばかりだ。

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小梨平にて

 第2日(7月30日) 涸沢小屋泊り

 どうせ今日は涸沢迄だからとのんびり天幕やザツクを整理し、三十一日の午後迄に帰京せねばならぬ鈴木を皆で見送る。

 そして各自八貫から十貫もありそうな強力顔負けの荷物に、フウフウ云い乍ら十時過ぎ上高地を後にし梓川の清流沿いにブラリブラリと行く。

 荷が重いので一寸行っては休み、休んでは一寸進み仲々の強行軍。いつも軽いサブザックばかり背負っているから余計こたえた。重い荷を背負って長く歩く事も必要である事を此度は痛切に感じた。徳沢迄三時間半も掛ってしまったので昼食の後直ちに出発する。

 この辺から加藤が遅れ出し、足を痛めた関根、お付合の伊東の四人は、前の七人と次第に離れてしまい、途中何回となく待ったが来らず、日の暮れかゝった横尾本谷の渡しの丸木橋を渡り、あとは森田のゲリラ戦術「あと二時間」「あと一時間」「あと三十分だ」「あと十分だ」「もうそこだ」「もう十分」と十分が何回もあり、一日でも多く稼ごうと云う彼にすっかりだまされ、夜の十一時迄かゝって懐かしい灯の見える涸沢小屋に到着(どうも御苦労様)遅い夜食を済ませれば後はもう寝るばかり。

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涸 沢

奥穂高岳

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前穂高岳北尾根

ジャンダルム

 第3日 (7月31日)

 北尾根班 倉野、粟生、野崎、森田

 今日から愈々待望の穂高の岩場を登る事が出来るのだ。昨夜の苦しかった行軍の疲れも夜明の星と共に消え失せ、先ず初めは易しい所からと前穂の北尾根を登る事にする。

 五・六の登りは詰らなそうなので四・五のコルに入る雪渓を登る。上部は仲々急であったがスムースに登り切り、ガラガラの所を少し登って四・五のコル着、四峰の登りで踏跡を辿って行ったら、奥又白側を捲いて三・四のコルに着いた。こゝは立派な踏跡が涸沢側を捲いているのであった。奥又白の池には天幕が三つ張ってある。

 三峰の登りも大した事なく連続にモリモリ登ってしまった。北尾根三峰のテッペンからは上り下りなく、二峰を越えればもう前穂の頂上で霧の中にケルンが乱立し、さながら賽の河原を彷彿させる。

 ザイテングラート(編者注:支稜のこと。現在のザイテングラートとは別)奥穂との鞍部迄下り、雪渓の上部に出るべくガラガラした所を下る。シュルントの小さい所から雪渓に移り、霧の去来する中をグリセードで小屋に帰る。現在の北尾根はすっかり道が付き至極簡単だった。

 この日足の痛い高橋及び犬塚金子は明日に備えて小屋で闘志の貯蔵に専念していた。そして横尾へ来る手前で轟沈した関根加藤伊東の四人はお昼頃小屋に到着した。

 第4日(8月1日)

 三峰フェース班 関根、加藤、森田

 昨日半日休養して元気な関根加藤に煽られ三峰へ行く。朝の締った雪渓をサクサクとアイゼンが鳴る。忽ちにして三・四のコルに入る雪渓を詰め、三峰の壁の基部に着く。

 草鞋に変えて真中のカンテより左へ寄った辺りから取付く。カンテとカンテの左のスムースな壁の間のクラックが登攀慾をそゝる。然し我々の目的は前穂の東壁へ行くつもりなので、それより左へ少しバンドをトラバースして、登り易そうな所を見付けて、連続登攀をやって瞬く間に三峰のテッペン着、直ちに三・四のコルに下り又アイゼンを付けて奥又側へ下る。

 この途中関根スリップし十米程流されたがアリフレタベンドのおかけでか、うまく止ったのでホッとする。雪渓を降り切った所で、四峰奥又側の素晴らしい大バットレスを仰ぎ見ながら昼食を済ませる。

 インゼルの頂上で東璧を偵察する。垂直に切立ったスラヴ状の壁は相当手強そうだ。真中の窪みをやれば出来そうだったが、時間が無いので三峰奥又側を登り易い岩を少し登り、それから二峰へ入る小雪渓を横切り、スラヴ状の壁の上に出ようとしたが、折から出て来た霧の為、視界を奪われ雪渓を横切る所が分らず、そのまゝ階段状の岩をグングン登って行ったら、ひょっこり先刻の三峰のテッペンに着いてしまった。

 「何だ東壁じゃないや」と云う訳で、本物の前穂の東壁は又の日のお楽しみとする。

 前穂の頂上で、本物の東壁をやった松高のパーティに逢い、良くルートを教わる。帰りは昨日と同じく雪渓を快適に飛ばして小屋に戻る。

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奥又白の岩峰にて

関根(上)、森田(手前)

三峰フェースへ向かう森田

(シェンクのピッケルが光る)

 北尾根班 倉野、原、高橋

 足の筋を痛めて一日休養した高橋、今日は大分元気になって「北尾根なんて軽いよ。」という訳で、三人のベスト、メンバーで出掛ける。

 倉野犠牲的精神を発揮し二度北尾根登攀、然し五・六のコル雪渓の上部で子を連れた雷鳥を見付けた時は嬉しかった。

 又三峰のテッペンでは折から又白側へ雪渓を下降中の関根がスリップし、鮮やかに止った美技などのアトラクションがあり、快適に登攀を終え、ザイテングラートから奥穂高穂高小屋を経て帰る。

 奥穂高班 粟生、伊東、犬塚、金子、野崎

 女子三名に粟生伊東の五人で今日はおとなしく一般ルートを行く。朝からの快晴に皆嬉しそう。

 穂高小屋で小休止の後、小屋の裏から急な奥穂の登りとなる。然しモンゴー達に取っては何でもなく無事奥穂の頂へ。七百二十度、目が廻りそうな雄大な眺望を満喫し、咲さ乱れる名も知らぬ高山植物を褥にし、清く澄んだ大気を胸一杯に吸込めば、山を愛する者の幸福はいやが上にも揚がる。

 元気一杯の伊東単独でジャンダルムに向かい、リッヂ通しは面白くないとばかり、途中から白出沢側へ下り快々適にジャンの壁を登る。やがて北尾根から来た三人と共に、下りのグリセードを楽しみつゝ小屋へ引上げる。

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奥穂高岳頂上にて

向かって左より野崎、犬塚、金子

 第5日(8月2日)

 三峰フェース班  倉野、森田

 二日続けて北尾根をやった倉野と、これも連日張切りの森田の二人、今日は三峰の正面の壁をやりに行く。

 雪渓をのんびりと行くと後から、明峰須田氏のパーティがやつて来た。仲よく一緒に三峰へ取付く。我々は中央のカンテから登りすぐ右にトラバースして正面の壁に出た。すると壁の下から登って来た明峰のパーティと「やあ!今日は」「どうぞ御先へ」と云うのでお言葉に甘えて先に登らせて貰う。

 一ケ所三米位の斜め上に走るクラックが面白かったが、左の壁に半永久的に打込まれたハーケンがあるのでお軽く上れた。悪いと云う程のものではなく、北尾根と同じく踏跡があり、三ッ峠の一般ルートみたいな所をドンドン上り、一時間足らずで三峰のテッペン着。

 握り飯を詰めている中に、北尾根を登って来た春日氏のパーティが、四峰に現われたので、我々も早速三峰を下り三・四のコルに到着して、今朝以来の御無沙汰?の挨拶を申述る。

 四・五の草付で子を連れた雷烏を追廻してついに捕えた事など面白く話し合う。小休止の後春日氏のパーティと別れる。

 森田は頭が少し痛いので北尾根下降を変更して、三・四の雪渓をクリセードで下り一時頃小屋に着いてしまった。倉野一人のみ北尾根を下降し、五・六の雪渓からグリセードで帰る。

 北尾根班  春日氏、関根、加藤、伊東、犬塚

 春日さん前日の雷鳴轟く中を、一人で徳本越えをして来られたので、早速御出馬願い北尾根を登る。

 四・五の草付の上で親子の雷鳥と暫く遊び、のんびりと、穂高の岩のムードを味わう。犬塚素草鞋大張切り、加藤のカメラ大いに活躍(素晴らしい写真見せてね)。

 三・四のコルで、森田倉野と対面、二人と別れて三峰の登り、やがて前穂の頂上へ、更にザイテングラートから奥穂へ、穂高小屋から来た野崎と頂上で逢う。

 関根伊東野崎の三人ジャンダルムの壁を稼ぎに行ったが、時間が無く中途で止めて引揚げる。穂高小屋の小父さんと話し込み、暮色迫って来た雪渓をグリセードで小屋に帰る。

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前穂高岳頂上にて

左より春日先生、犬塚、関根、伊東

 穂高、槍縦走班  原、粟生

 どうしてもへ行ってみたいと云う、若人二人張切って出かけたが、粟生穂高小屋の少し上でスリップ、腰の骨を痛め、穂高小屋で少し引っくり返って休みそのまゝ涸沢小屋へ戻る。

 一人のみ天候に恵まれ待望の槍ケ岳を極め、槍沢の雪渓をグリセードで飛ばして夜七時半に帰って来た。

 明日の下山に備え、足の調子悪い高橋と、留守部隊長の様な金子は小屋で休養した。

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槍ガ岳

 第6日(8月3日) 徳本越え帰京

 先発隊  倉野、粟生、高橋、犬塚、金子、野崎、森田

 懐かしの穂高にさよならをする日が、とうとうやって来た。すっかり仕度を調え、最後の朝飯を済ませ、お世話になった小屋の小父さん、小母さん、娘さんに名残り尽きない別れを告げ、何べんも何べんも背後を振り返りつゝ横尾の谷へ下って行った。

 徳沢で昼食を食べ後のパーティを待つと云う野崎を残して先を急ぐ。白沢出合でまだ足の痛い高橋と別れ五人徳本峠へ向う。連日の奮闘にバテた森田が遅れ勝ちで峠へ午後四時に着いた。小休止している間、会員の村井と逢う。彼は常念大滝山と歩いたそうだ。

 もう一度此処から穂高に「サヨナラ」を送って島々目指して一目散に飛ぶ様にして下って行く。殆んど休み無しに四時間ぶっ続けで歩き完全に暗くなった夜の八時丁度にバス道路に飛出した。

 それより三十分にして島々駅に到着したが、犬塚金子両女史の物凄い頑張りには、我々も顔負けの形で、意志の弱い男よりずっと心強いものがある。殊に金子女史の健闘は平素が平素だけに特筆に値する。おかげで九時半の夜行で四日朝六時に着く事が出来た。

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涸沢小屋にて

 後発隊  関根、原、加藤、伊東

 後発の四人、後片づけ等を済ませ、のんびりと下り徳沢園野崎を拾い、梓川べりを漫歩し其の日はゆっくりと温泉ホテルに泊り、翌日トラックで島々迄運んで貰い浅間温泉に一泊し、山の汗をすっかり流して帰京する。

(以上の記録は昭和18年9月1日発行の会報54号より転載したもので、転載に当たり使用漢字、仮名遣いの一部を変更した。)


  或る山旅の回想(三題)           春日俊吉

  ふるさとの山ふところへ

 雷雨の凄まじい中を身ひとりで徳本峠越えをして、上高地へくだると空はすっかり晴れてゐた。

 上條孫人君が性質のよくない病気に罹ったと聞き、ちょっと明神池の小屋まで訪ね、カキ餅を御馳走になりながら、暫く彼の細君と世間話をする。

 吉城屋には、幸ひと待望の液体も相当に有ったので、梓川べりのやや単調な遡行も、けふは少しも苦にならなかった。

 屏風岩を睨みながら、冷たい渡渉をして横尾の林道にかかる。小鳥が盛んに鳴いてゐて、気分のいいことこの上ない。
 三枚橋を渡るとき、待ちかねた谷水をしこたま飲んで、ふと自分の名を呼びかける声に、眼鏡を拭って対岸を見上げると、思ひがけなく、今井喜美子夫人の相変わらず颯爽たるお顔が笑ってゐた。

 水の無い沢沿ひの長い道を登りきって、夢にさへもときどき見る圏谷内のキャンプ場に辿り着き、会の人々を求めて小屋まで顔を出すと、小屋には茨木猪之吉画伯が昼食を食べてゐた。今井夫人、茨木老先生、みな、山でなくては中々逢へない人達である。北アルプスは、僕にとって実に嬉しい「ふるさとの山」である。

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涸沢小屋にて

(前列森田、後列左より関根、春日先生、茨木画伯)

  久恋の北尾根を這ひ渡る日

 このやうに簡単に、このやうに手軽に、久恋の前穂高北尾根が這ひ渡れようとは思わなかった。

 第四第五峰間の草つきで、一度、奥穂高岳川側で一度、一日に二回、ともに二匹の子をつれた母なる雷鳥に出逢ったのも幸運だったが、縦走は、実にスムースに進んで、少しの渋滞すら感じなかった。

 ひとへにリーダー関根君の細心と、若い伊東君の熱意と、岩場の全部を素草鞋で頑張った犬塚女史の稀なる闘志の賜であったことが、今にして感謝せずにはゐられない。
 諸君は誰も知るまいが、何の因果か僕はこの岩場から、曾つての不幸な日々に、大島亮吉君が、福田源五郎君が、中野克明君か墜ちて死んだことごとを、眼に痛いほど知りぬいてゐ。

 だからこの日、僕はただひとり、関根君が一行を励まし、伊東君が勢ひよく歌ひ、加藤君が明るく哄笑し、犬塚女史がかん高く吠える陽気な声を耳にしつつも、心の一角ではこの岩場ゆえに三十歳で、二十四歳で、十八歳で空しく仆れた人々の運命について哭いてゐた。

 と同時に四十六歳で、まだまだ元気にここが這える僕自身の全存在に、何かしら涙に近いものを感じてゐた。

  飛騨路のさすらひ後日がたり

 腹を痛めて、明らかに條件の良くない身をもってして、なほ八貫目からの荷物を背に、悠々陣頭に起つて圏谷の彼方に去ってゆくチーフ森田君の風貌に改めて敬意を表しながら、僕はつひに、再び身ひとつの僕にかへった。

 穂高小屋では、あるじの今田重太郎君と、思はず一時間余の対談会をやり、白出谷から右俣谷沿ひに、相変らずの「糸目の切れた奴凧」気分で、夕方、ぶらりと蒲田温泉今田金次郎君宅に着くと、「まア、先生!」と言って、細君が別棟の物置小屋の二階から黄色い一升壜を御生大切に抱へてきて僕の前にぽんと置いた。
 だいたい、ざっとこんな塩梅なのだから、船津で、古川で、高山で僕がどんな風なさすらひの四日間を送ったか、それは読む人の判断に一任する方が利口だらう。

 八月七日、午前一時半、僕は同室の行者氏の麒尾に附して、一浴して勢ひよく嶽の湯(濁川温泉)の別館をあとにした。同勢約三十名、中には七十歳位のお婆さんもゐる。

 けふは、僕と雖も糾ふ方なき御嶽山の信者である。お蔭で四時半には頂上に出た。乗鞍もよく見えた。木曽駒赤石浅間も明瞭であった。

 二の池小屋で啜った一碗の渋茶にも、山旅に全く疲れ果てた身のそこはかとない感傷があった。

(以上の文章は、会報54号に掲載された合宿に特別参加の作家春日俊吉氏の随想を原文のまま転載した。)


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