なぜ山に登るのか?
「なぜ山に登るのか?」という問いに、マロリーが「山がそこにあるからだ」と答えた逸話は有名である。有名なのは、「山がそこにあるからだ」という答えが、幅広い解釈を持ち得るからであり、実際様々な解釈がなされてきた。それ故、この「山がそこにあるからだ」という言葉は、深みを持った名言とされてきた。
だが、個人的には愚問と思われている「なぜ山に登るのか?」という問いかけの方が、より重要性を持っているように思う。なぜなら、山に登ることの目的が単なる趣味であれ、冒険心であれ、修行のためであれ、基本的には個人的内面で完結できるはずである、と思うからである。つまり、個人的にやっていることであれば、基本的には他人にとやかく言われる筋合いは無いからである。
誰であれ、他人に「干渉してくれるな」と思う事はあるかと思う。だが、「なぜ山に登るのか?」という問いかけによって、孤高であろうとしても社会とリンクされてしまう。この言葉には、無理やりにでも社会とくっつけてしまう力がある。愚問どころか名言である。
詰まるところ、いわゆる発展した社会では、何をするにしても社会に対して説明することを求められてしまっているのである。
ところが、である。実のところ、登っている方にも「聞いてくれ」という密かな思いが芽生えてくる。社会から長らく外れていると、その事が不安になってくるため、社会と再びリンクしたくなってくるのである。それ故、「なぜ山に登るのか?」という問いと、「山がそこにあるからだ」という答えは、持ちつ持たれつのバランスの上に成り立っているのである。
さて、「なぜ山に登る」のであろうか。この問いに、私は「修行のためである」と答えるようにしている。修行とは「行」を修めることである。「行」とは、「行い」の事であり、仏教用語としては「様々な心的活動」とされている。「行い」は、「心的活動」が顕在化するものと捉える事ができることから、この様な解釈が出来ているのではないかと考えている。一方の「修める」には、「言動を整え正しくする」という意味がある。したがって、修行とは「心的活動を正しく整える」事であって、それが欲望を抑えるという概念につながると考えている。
では、なぜ山に登ることが修行になるのであろうか。現代生活を考えればすぐに理解できるが、自分の周りの社会には「暇」がほとんど無い。実際は相当に「暇」なのだが、それが実感されないように各種のエンターテイメントが提供されている。テレビが然り、雑誌が然り。見かけ上、暇がないと我々は「考える」という事をしなくなる。考えるというのは「心的活動」に必須の事のはずだ。それが普通の生活をしていると出来ない。
ところが、登山ではそれがある程度可能になってくる。それは、登山が比較的低強度の運動を継続的に行う事を要求するためである。考えるためには、数分という短い時間では駄目で、長い時間を要する。比較的低強度の登山は、まず長い時間を与えてくれる。そして、低強度であるが故に考えるゆとりがあるのである。マラソンを愛好する人は多いが、多分に強度が強すぎる。あれでは、走る事で精一杯になってしまい、考える余裕が少なくなってしまう。もっとも、強度を抑えれば、同じような効果は十分あると思われる。ただし、継続時間が圧倒的に短いため、考えを纏めるにはやはり少々難があるであろう。
基本的には、歩く事も登山と同様な効果があると考えられる。というか、元々は歩く事で十分だったと思われる。しかしながら、、現代の道は看板や店などが多くあって、邪念が入りやすいという問題がある。また、アスファルトで舗装されたような道は、単調で過ぎて歩く事が耐えられなくなってしまう。そういった点から、やはり登山が一番良いように思われる。だが、一部では、開発されすぎて観光地化されてしまった山域もあって、その様な場所ではとても修行の雰囲気にはならない。したがって、観光地化されていない登山道という事になる。
そもそも日本は山国である。したがって、道といえば、山道であったはずである。参勤交代で使われた東海道でも、例えば箱根越えなどがある。ところが、自動車社会になってから、山道は自動車道に改装されてしまい、それとともに我々は歩く事をしなくなってしまった。昔の人は、普通に歩く事によって今の登山と同様な効果を得る事が出来たが、今では、ごく一部の環境でしか得られないとも言えるかもしれない。
机の上で考えた事と、歩きながら考えた事では何が違うのであろうか。大して違わない気もするが、やはり大きく異なるようにも思う。前者は頭だけの考えであり、後者は頭だけでなく体も一緒に考えているからである。「腑に落ちない」という言葉が古来日本にはあるが、これは心を体の一部と捉えた表現と思われる。腑に落ちないとは、考えが体にすっ〜と染み込まないと言っているのである。腑に落ちない考えというのは、頭でっかちの考えではないであろうか。歩く事とは、考えを体に染み込ませる事である。
今日の日本仏教の基礎を築いた高尚な坊さんは、日本各地、はたまた中国まで歩き詰めている。彼らは、歩く事によって考えが昇華していき、腑に落ちる事を身をもって理解していたのであろう。
考える事の中には、前向きな事だけでなく後ろ向きな事も多分にある。例えば、不満、いらつき、悩みなどである。最近多用されている言葉でひとくくりにすれば、「ストレス」の原因になっているものである。実際の生活上、ストレスフリーになる事はかなり難しい。したがって、ストレスと上手く付き合っていく必要が生じてくる。では、上手く付き合うためにはどうしたらよいか?それは、ストレスがあることを自然だと思う事である。一人出歩いていると、喋りかける相手がまわりの自然か、自分か、非常に限られてくる。そんな時、ストレスを持った自分が自分に話し掛けていると、段々と問題が細分化されてポイントが明確になってくる。明確になったものがどうしようもない物であれば、諦めのような境地にいたり、それを受け入れる準備が出来てくる。すなわちストレスを咀嚼し、体の一部にしてしまうのである。ストレスがあるならば、まず歩け!
さて、この考えは、机の上で考えたものだったか、山道で考えたものだったか・・・
TOPへ