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過ぎ去りし街並み
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鳥取県倉吉市 |
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兵庫県姫路市 ちかくの三田市には4年前に行ったことがあるが、姫路市には生まれて2年ほどして以来、訪れたことがまだない。その三田に行った時に立ち寄ってみようかとも考えたが、じっくりできる状況でもなかったし、あらためてルーツさがしの旅行でもしようと考えていたが、すでに母が行動できぬような歳になってきている。急がなくてはならないね。借金をしてでも母と一緒に姫路に行って生まれた場所を見つめてみたい。これまでに何度兵庫県で生まれましたと語ったことか、そして幾度覚えていませんって説明してきたことか。3泊4日ほどかけてルーツを確かめ、意識に留めておかないと、どーも寝覚めが悪くってオチオチ死んでもいられねー。姉のばあいは浜松だから、リタイアしたら2人で旅するのもまんざら悪くも無い気がする。彼女は真っ平御免こうむるって言うに違いなかろうが、いざ行こうとなれば僕らふたりでいくほかはないだろうね。そもそもぼくたち一家はザローリングストーンそのものみたいな生き方をしている。今でも変わってはいない、もう変われないのだろう。無力感と同時に誇りももっている。誤解を恐れずにいえば、帝王学を仕込まれたよーにも思える。まあ笑わないでくれよ‥――――西の文化は都会の文化と言い換えてもいいかもしれない。都会と云っては語弊があるというなら町衆の文化かな。要するに発達した街、都市の市民文化ということです。でも金持ち文化ではないのであって、よく東北の人が誤解するのがここで、多様な意見、主張と議論、全員の最大公約的結論ではなく個人の最小公倍的結論を指向する点、などが重要なのです。東北人と関西人はそこのところが決定的に違う。――――仙台では伊達政宗の城を再建しようなどと目論んでいるようで、財政的に無理がなければ特に異論は発しない。でもね、地下鉄東西線の迷走ぶりを見ていると立派なお城などとてものぞめない気がする。‥白鷺城をはやく拝んでおかないと。業を煮やしたキム先生がテポドンでもぶっ放しゃしないか心配になってきた。 |
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宮城県仙台市宮城野区 この地域には別々の時期に二度住んでいる。はじめは僕が幼稚園から小学3年生までのとき、そして息子が歩き始めのころの二回。ぼくの幼稚園はナザレト幼稚園といって、カトリック東仙台教会の杜の中にある施設のひとつとして建てられていた。なにせ高い丘の上に立っていたから幼児の足では大変だったろう。いまのように物騒な世の中じゃなかったので1km以上あった通園の道のりを20人もひきつれて一人の若いシスターが往復していたらしい。幼稚園での生活は別天地だった気がする。宗教的で優しかったし日本の文化や行事にもしっかり配慮されていてよくいる独りよがりの宗教団体などとはちがって、とても穏やかな空気が流れていた。僕の住んでいた一帯は文教医療地区と言ってもいいほどその手の施設が集中していて、とても好ましい環境だったと思う。当時はまわりは田んぼが拡がっていたし海岸まで延々と自転車で行けたし途中に建物なんか何もなかった。――――長男の場合、いちばん可愛いさかりだった。ぼくも設計事務所で愉しく仕事ができていた。家族の青春時代、いちばん充実していた時だったろう。お給料もいまの3倍は頂いていたし社宅としてこの地区のマンションをあてがってももらえた。結局ある同僚の退職と死にかかわるその後の私の反抗がもとでクビになったが運良く設計のしごとで拾われて助かった。――――東北新幹線ができ、東北自動車道ができ、仙台港ができ、次々と広大な都市計画道路が造られており、昔の面影はちかくを通るたびに少しずつ拭い去られていく。その中で僅かではあるけれど過去の道しるべになるようなものが残っていたりする。外人墓地とそこに建っている聖母子の像はいつまでも残しておいてもらいたい‥ |
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宮城県岩沼市 東北の農業関係者には知らぬものの無い日本三大稲荷のひとつ竹駒神社のあるまち、そして芭蕉ゆかりの二木の松のあるまち、そして仙台空港をかかえるまち、そして阿武隈川の河口のまち、そんなところでしょうか。蔵王にも仙台にも松島にも近く他地域とのアクセスも良いので便利は便利ですが、ただそれだけのような気にもなります。地元の盆踊り歌には「岩沼良い街、好きな〜ま〜ち〜」っていうフレーズがあるけれど、あれ何かなという感じです。ぼくは小学校3、4年のとき東仙台からこの岩沼に移ってきましたが、良くできる仙台からの転校生という本人無視の前評判とはうらはらに、女の子のスカートまくりばっかし熱を込めてしていました。でもテストも好きでした。早く終わった順から校庭で遊んでよいというきまりがあったので、だいたいテストの日はぜんぜんだめな奴とすごくできる奴が授業の半分も過ぎたあたりでドッジボールをするのがお決まりの姿でした。岩沼に来た当初はそういった感覚で好き勝手にのびのびと生きていられたようだけれど、いまよくよく考えてみると人間不信、人間嫌いになったのもこの岩沼で、だったかもしれない。中学生になったあたりから、将来道をはずれて破滅していくことになる地元の同級生や性格のねじくれた地元の半端な優等生あたりがなにかにつけ絡んできたり無言の圧力を陰湿にかけてくる。常におおっぴらのこちとらは、あまりそのことに気づかないし想像もつかない。けれどもその事実はいつか具体的な形であらわれる。でも僕らの場合、かろうじてよそ者族が多かったので(自衛隊、大昭和製紙、東洋ゴム、など)、それでもクッション機能はあった。いやがらせといっても今の虐めや暴力とはぜんぜんちがっていたが、それでも僕のこころは少々病んでいたように思う。――――現在はこのまちに自宅を建ててローンに苦しみながら何とか生き続ける毎日であります。 |
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東京都台東区谷中 僕はハタチのときは新聞配達をして暮らしていた。とてもじゃないがそれだけでは生きていけず、親に仕送りしてもらっていた。じぶんの野心と努力が噛み合わず、なんとも不甲斐ない時期だった(その点ではいまもあまり変わらない)。東京で学んだことはチャンスは都会でしか、そして求める者にしか手にできないということと、ここにはそういった野心家がひしめき合ってゴミゴミしたなかでいつも闘っているということと、そのなかのごく少数の一線を越えることを厭わない勝利者がチャンスを得、一気に階段を上って極端な支配階級となって遥かな権力と豊かさのなかで生き、そしてそれを世襲していくということ、それを学んだ。なぜそう云いきれるかと言うと、ぼくには特に個人的な理由があった。下町には意外な人がたくさん住んでいて新聞配達では400軒もまわり集金もするので、若い地方出身の兄ちゃんを相手に話をしたがる御仁が少なからず存在した。お邸でもおなじで室内に招じ入れられて話をしたりされたりした。当時はすでに目標のイラストレーターに死んでもなり遂げるなどという情熱は失せてしまっていたので、そういったお誘いがあれば興味にまかせていろいろとお邪魔した。むしろそちらを何か大事な当面の生活のように見做してしまっていた。そういう生活で形成された社会の見方や判断がその後のぼくの思想の上でおおきな影を残しているのは否めない。別に後悔はしていないが四十代になってオプティミスト傾向が勝るようになるまでは、当時のそのペシミズムがやたら僕を内側からコントロールし続けていたようだ。下町は地味なかおりがするのは事実だが、秘められた人的なポテンシャルは予想外にたかい。何となれば成功寸前のコンペティター達が集団で巣食っている場所であるし、闘い済んで隠居したもと支配階級であるところの現代の仙人が棲むところでもあるからだ。 |
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静岡県浜松市 浜松は若い町だ、本田宗一郎の立身出世の街、ヤマハの街、スズキの街、河合楽器の街、浜名湖の街、うなぎの街、天竜川の街、空自浜松基地の街、大凧合戦の中田島砂丘、こんなところかな。静岡市は少々元気がないが、いっぽう浜松は相変わらず威勢がいい。――――同期の中途採用組はおおかたが退職してしまってはいるが生き残りの戦友らはさすがに高給取りとなってよい仕事を続けている。継続はちからなりだ、それは間違いないのだが、一時期雑誌NAVIで浜製の労働環境を実際に覆面レポーターが期間労働者として入って、連載企画にしていたが、日本国のトップ企業への裏返しのエールだっちゅーことはわかる気がするが、日本人の依存根性と日本企業の横着な態度を同時に告発しないかぎり、この手の問題は解決しようが無い。ぼくが働いていた頃も適当に要領のいい若者が意見や討論などしらけ切っていて関心をもたず、ただ蟻のように勤労労働者を演じ続けていた。学校教育と管理型警察の勝利には違いないが、将来の日本の中堅を担わねばならない若者の姿としてとても物足りない。波風立てず、異論を差し挟まず、ほとんど立ち入ることをせず、殻に閉じこもり趣味に生きる。この姿こそが現代人の疎外のこころの本性ではないのか。先輩と二人で夜の街を歩いていると6人ほどの暴走野郎にからまれた。初心者どもだったらしくたいした事はしなかったが、ホンダのむっつり正規従業員の若者とこいつらのどちらか選べと言われれば、いまなら不良の兄ちゃんたちを選びたい。なにやら若い頃から将来を安定で収める決心をしてしまい、その魂の代償として自分を殺し声をあげない、だけど陰湿に人を小ばかにする。こんな若いチカラなんか屁のつっぱりにもなりゃしねえよ。 |
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埼玉県上福岡市 ホンダの朝研に通っていました。あさは大変に混むので川越街道は通りません。当時まだ途中からただ乗りが可能だった富士見川越有料道路を寸借してVT250Fで乗り入れていました。上司も風変わりなのがいっぱいいて、通勤のとき出来たばかりの関越自動車道を1300ccの二輪で240km/hでたよと言って笑顔で大声で朝礼前にまわりに吹聴する主研がいるし、毎月誰かが骨折をして松葉杖で歩いていて、年中その姿がヒトが変われど同じ光景の繰り返しだったり、まさしく派手な集団でございました。川越街道と言えば会社帰りにバイクでおとなしく流れについていた時、なにか変に滞った場所があり何かを車がよけていてついに僕の番となり何かと思えば内臓はみ出しのりっぱな猫が痛みに耐え切れず80cmもの高さに跳ね続けている姿だった。それはいつまでもいつまでも体力の続く限りの断末魔のうごきで、ちょうど夕焼けで陽も暮れおわり車のライトに浮かび上がってその白い猫は完全な主役だった。あんな躍動感を僕は見たことが無かった。気持ちは悪かったが、生命の叫びを伝える感動をおぼえた。僕自身もこの川越街道では救急車に運ばれる事故にあった。そういう意味で記憶に残る路線だ。上福岡の住宅街は駅前に日々の惣菜を売買する市がならんでいて活気があって好きだった。食いしん坊のぼくはそこで物色して晩飯のおかずを買って帰るのが日課だった。近所の銭湯も低料金のスーパー銭湯になり、社宅のとなりはコインランドリーだったし銭湯のとなりは日替わりめしやだったし、そのめしやは歩いて1分ほどだったし、つまりは2分ほどの行動範囲で衣食住の基本は完了していた。ちょっと贅沢の日を求めたいときは、東部東上線の踏切を渡ってこじゃれたワインショップで酒をさがした。でもその店もサンダルで10分ほど、自転車なら3分で行けた。今なら高架になっているはずだから、セコンド単位でいける筈だ。 |
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宮城県名取市 できたばかりの快適な県営住宅にうまく入居できて長男も誕生し南東の端の棟でかつ南東の角部屋の二階という理想的な環境だったが、かみさんの不手際で洗濯機の排水を下階に漏らしてしまい、それが原因ではなかったのだが下階のおくさんが流産してしまい、そんなこんなでかみさんがノイローゼになってしまって1年足らずで引越ししてしまった。僕がもっと忙しくなく相談にのってたらこんなことにはなっていなかったろうしその後の状況も悪化せずに済んだはず。今言っても始まらないがこのときの一件はある意味画期的なものだった。――――名取市は岩沼市とともに仙台空港の位置にあたるうえこの度は仙台〜空港間アクセス鉄道も建設が開始されて将来が明るい地域となっている。岩沼や名取は特に仙台市と合併する切実な必然性もなく、両市で合併するつもりもないので将来周囲が次々とくっ付いてしまった後に慌てて後悔してしまうのではないか、それが心配だ。べつに僕自身は小さくて目の届くサイズの都市であれば良いと考えるが今後、誘導策として国家が行う不平等な施策によって、云うことを聞かない市町村には必ず不利益が降りかかることになるのはまちがいない。ある程度は素直にくっつく算段を始めないと将来きっと損をさせられることになる。そろそろ腹を決めるタイミングではなかろうか。わが国家はしょせん個別に最善を追及するなどしちめんどくさい行政を嫌う怠け者官僚の天国だから、なんでも規格に揃えて無理やり管理しようとする。仮にアナザウェイでうまくいっていようが、それをぶち壊してでも型に嵌めようとする。それがおかみに平伏させる意図を込めた最大の任務だと考えている。毎度言われ続けている行政の都合のための行政であって、市民や自治体のニーズを実現させるためにある行政なんかじゃないってことだよね。こんなことしてたらアメリカじゃ暴動もおきかねないよ。その点日本人は為政者にとって楽な、モルモットのような人民だよね。良かったね‥ |
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宮城県仙台市太白区 はじめて立派な出来たばかりのマンションに住んだ。と言っても先に載せた名取市の県営アパートのほうが造りは上等だと思うが、まあ一応庶民的感覚で云えば県営より賃貸マンションのほうがリッチに考えているんじゃないだろーか。これが出来た頃この柳生の一帯はなにも建っていず道路も繋がっていなかった。いわばぼくらは、パイオニアであってエンタープライゼスに満ち溢れた勇猛果敢な家族だった訳だ。それが今では、云わばヒトと車の列の絶えないトレンディーな地域のひとつに成長しつつあり、光陰矢の如しである。当時長男は幼稚園のかわいい盛りで本当に天使のようだった。そのうちに娘が生まれて、お兄ちゃんがすこしブルーになっちゃった。それでもお父さんと実家のおばあちゃんや叔母は心底息子を可愛がったので、良い子に成長してくれている。――――現在この太白区の巨大な郵便局で働かせてもらっている。どうも郵便局は民営移管と言ってる割に正規職員が玉石混交でやることにも一貫性に欠けている。じきに大鉈が振るわれるだろうが、いまのところ正規職員やアルバイト諸君にとっては我々短時間職員は4時間だけしか働かない使いづらい有閑マダムか有閑じじいぐらいにしか写っていないようで、こちらとしても大げさに入社試験で選抜しておいて、扱いはアルバイト以下で、今後の方向性も具体的に示せずにいて、それで内務短時間勤務にもかかわらず営業ノルマという形で個人購入を無理強いしている。いったいどういう企業体なのだろう。まあ考えると腹も立ってはくるが10万そこそこでもいまの家族には当面必要な収入源だから失わないようにはしていきたいが、時々正職員の考えの無さにほんとうに爆発しそうになってしまう。支社の担当者のかた、もしこの欄を見る機会があったらぜひ連絡してください。あらいざらいぶちまけます。それだけの記録はパソコンに納めてありますから、残念‥ |