フリ−ダ・カ−ロ : Frida Kahlo 1907.7.6−1954.7.13

生命 life

「私は人生で二度、大きな事故に遭った。一つは電車に巻きこまれたこと、もう一つはディエゴ・リベラと結婚したこと」
 フリ−ダ・カ−ロは一九〇七年七月、メキシコ郊外のコヨアカンで生まれた。当時はメキシコ革命の混乱期、願いをこめてフリ−ダ(ドイツ語で”平和”の意味がある)と名づけられた。
 写真家の父ギエルモはドイツ系ユダヤ人で「リ−ベ(かわいい)」と呼んで溺愛した。母マティルデは宗教心が篤い女性だった。フリ−ダは聡明で、目鼻だちのはっきりした美少女で、将来は医者になるという明確な目標をもっていた。
 一九二五年九月、フリ−ダの運命を変える大きな災難が襲いかかった。乗っていたバスにトロリ−が衝突したのだ。バスは大破、バスの手すりに使われていた鉄棒がフリ−ダの下腹部に突き刺さったのだ(この痛ましい事故で彼女は生涯子どもを産めないからだになる)。
 脊椎、鎖骨、肋骨、右足の何カ所も骨折、足首は脱臼したうえに砕けていた。その後、三十数回も大手術が繰り返されることになる。
 フリ−ダは、六歳のときに、小児麻痺をわずらっていた。右足は訓練で回復したものの、左足に比べて極端に細くなり、よく他の子どもたちから苛められた。だが、めそめそ泣いているフリ−ダではなかった。意地悪されたら、数倍もやりかえした。
 負けず嫌いで闘争心の強いフリ−ダは、歩いたり、走ったりするだけでなく、スポ−ツにも励んだ。そんなときにバス事故に遭ったのだ。度重なる入院。手術と退院、自宅療養、再発。その間に、フリ−ダは恋人アレハンドロも失った。
 フリ−ダは去っていった恋人に自画像を描いて贈った。これが、最初の『自画像』となる。
 そして、フリ−ダが言う「もう一つの事故」はディエゴ・リベラとの出会い。フリ−ダがメキシコ最高の教育機関の国立予科高等学校にかよっていたころだ。当時、画家リベラは三十代の半ば過ぎ、パリから故国に戻ってきたばかり、最初の壁画制作にとりかかっていた。
 リベラは、百四十キロを越える巨体に、特異な風貌をしている。ステッソン帽を被り、薬筒のついたベルトを腰に締めている。眼が大きく、頬の垂れ下がった顔はガマガエルに似ていた。
 だが、リベラは女性に非常にもてた。彼自身とても女好きだった。画家としての名声にくわえて、明るくエネルギッシュな仕事ぶりが女性たちを惹きつけた。
 高校生のフリ−ダもリベラに、魅せられていた一人だった。
「私の生涯の夢は、リベラの子どもを産むこと」
 自分勝手に思いこんでいるフリ−ダに級友たちは驚いたが、彼女は本気だった。 事故の傷が少し癒えたフリ−ダは、医者になる夢を捨て画家を目指した。 憧れのリベラが文部省の建物に壁画を描いているのを知ったフリ−ダは、ある日、一人で出かけて行く。高い足場に乗って壁画制作中のリベラを見上げて、「どうか降りてきてください。大切な話があるんです」と声をかけた。少女の髪は長く、黒く濃い眉は鼻の上でつながっている。
「それはまるでムクドリのようで、(眉)のア−チの下にはすばらしい褐色の瞳があった」とのちにリベラは伝記に書いている。 フリ−ダは画家になれるかどうか判断してほしいと言うのだ。リベラは彼女の絵を見て衝撃を受けた。才能にあふれた素晴らしい作品ばかりだった。
 二人は恋に落ちた。
 リベラは二度目の結婚を解消して、フリ−ダにプロポ−ズした。
 外見からは、「象と鳩の結婚」のように見えたが、フリ−ダの父はリベラに警告した。「娘はかくれたる悪魔ですぞ」
「わかっています」とリベラは答えた。 一九二九年に、二人は結婚。リベラ四十二歳、フリ−ダは二十二歳だった。
 フリ−ダは病弱だったが、あらゆる障害を乗り越えて生き抜こうとする強靱な精神力をもっていた。
 結婚生活はけっして平坦ではなかった。絶え間ない夫の不倫。共産党員としての苦悩。
 リベラはフリ−ダの妹のクリスティ−ナと関係し、壁画の仕事を手伝っていた若い女性とも関係があった。
「セックスは男にとって放尿みたいなもの」 とリベラは言い放った。
 また、リベラは大統領官邸でもあった国立宮殿など政府の壁画を引き受けていたことが問題となり、メキシコ共産党書記長の座を追われ、「政府の手先」と非難された。フリ−ダも離党した。
 フリ−ダは苦悩から逃れるために「自分を描く」ことに情熱を燃した。フリ−ダは約二百点の作品を描いたが、そのほとんどが自画像だ。女性ならためらう口ひげまでも克明に描いている。
「絵は私の生涯を完璧なものにしてくれる。私は三人の子どもを亡くした。絵はその代わり」  一九三二年七月う、フリ−ダはアメリカの大富豪から依頼された壁画制作のためにニュ−ヨ−ク旅行をした。美しい民族衣装を着たフリ−ダはアメリカ社交界の注目を浴びた。だが、不幸にもフリ−ダは流産をした。骨盤が変形していたからだ。彼女は初めての流産の体験を『ヘンリ−・フォ−ド病院』と題して描いた。
 その数カ月後に、『私の誕生』が描かれている。「私が生まれたときのことを想像して描いた」という絵である。
 ちなみにこの絵は歌手マドンナが個人所有している。
「私を理解したかったら、この絵を見て」とマドンナは言う。
 一九三七年一月、ロシア革命の父、レオン・トロツキ−、ナタ−リャ夫妻をメキシコに招いた。フリ−ダはトロツキ−に恋をした。彼の誕生日に「すべての愛をこめてこの絵を捧ぐ」と『自画像』を贈っている。
 一九四〇年八月二十日、トロツキ−は暗殺された。フリ−ダも二日間、拘束された。
「トロツキ−が死んだのはあなたのせい。なぜ、メキシコに連れてきたの」とディエゴを責めた。
 フリ−ダは悲しいとき、辛いとき男装をした(断髪の自画像もある)。
「自立心向上のため。性を忘れるため」
 フリ−ダはキャンバス代わりにコルセットに描くこともあった。
 フリ−ダとディエゴは結婚して十年、愛してあってはいたが、「私は気に入った女性と付き合いたかった」というリベラの言葉で離婚した。
 だが、離婚して一年後、彼の誕生日の一九四〇年十二月八日に再びリベラと結婚。
「フリ−ダはぼくなしでは生きられない。もう一度、ぼくらは一緒にならなきゃならない」  再婚するにあたって、フリ−ダはリベラにいくつかの条件をつけた。
・自分の作品の売上げで自活すること。
・家計の半分を支払う。
・性的な交わりをもたない。
「長い闘病生活でも、私には限りない『生』の喜びがあった」(一九五三年の日記)
 一九五三年、メキシコで初の個展が開かれた。フリ−ダは瀕死の重症だったにも関わらず、民族衣装で美しく着飾って、救急車で会場にかけつけ、担架で入場すると、拍手で迎えられた。
 翌、一九五四年七月二日、フリ−ダは(前年に)右脚膝下切断した苦痛を押してアメリカがグアテマラに介入した暴挙に抗議する共産党デモに参加した。
「デモの参加者たちに、どうしても連帯の気持ちを伝えたかった」
 フリ−ダにとって、新しいメキシコを望む同志への最後の挨拶だ。
 九日後の七月十三日、フリ−ダは肺塞栓症で息を引き取った。

「出口の安からんことを、ここにはもう戻ってきませんように」  フリ−ダはそう日記に書き記している。
 彼女の最期の絵は切り分けられた歓喜に満ちたスイカの絵だ。『生命万歳!』(ビバ・ラ・ビダ)と題されている。
 リベラには、フリ−ダの死が信じられなかった。彼女の頸動脈を切らせて確認した。
 リベラはフリ−ダの遺骨をスケッチすると、灰のひと固まりを口に含んだ。
 フリ−ダは横たわった姿勢のままで埋葬されるのを嫌がった、自分はこの姿勢で若いころから、苦しみすぎたからというのが、その理由だった。
「火葬にして」と言っていた。
 イサム・ノグチやジョ−ジア・オキ−フなど多くの芸術家たちからも愛された。
 ピカソは「フリ−ダのような自画像は、私にも誰にも描けないよ」と称賛した。
 リベラ・ディエゴの娘はこう語っている。「ときにフリ−ダは私の父の母親役を、父は彼女の父親役を演じることもあった。とても不思議な関係でした。二人は隣に別々に暮らしていて、しばしばお互いの家で眠ったり、食事をしたり。サルトルとボ−ヴォワ−ルのような関係でした」
 死後、四十四年、一九九八年春夏パリコレ「ジャン・ポ−ル・ゴルチェ」は、フリ−ダをテ−マにしファッションショ−を開催した。


「私は炎とともに生まれた」(フリ−ダ)


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