1月1日の起源〜暦の歴史



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更新:2004/12/31, 2006/5/21,10/6, 2008/2/22,5/23,8/17,11/26,12/31,2009/12/28,2010/1/13,2011/1/3


《摘要》

 現在広く使用されているグレゴリオ暦は、ユリウス暦の改良版で、ユリウス暦の運用途中に、たまたま3月21日が春分であった時代に固定したもの。(1月1日は、ここから逆算して決められる)
 ユリウス暦はエジプト暦(シリウス暦)を輸入したものなので、輸入当時の年初が1月1日となった可能性が高い
 (本来のシリウス暦は、太陽との関係で変わる季節とは一致せず、毎年約20分ずつずれていき、1506年周期で元の季節に戻る)。

 現代の日本で採用している西洋暦は、キリスト教の歴史を反映しており、宗教とそれを利用してきた政治を抜きに暦を理解する事は出来ない。


《月》の表記に付いて。
 日本語には "month" と "moon" のように、暦上の「月」と、天体の「月」に同じ文字を当てているため、「暦月/月(暦)」「天体月/月(天体)」のような表現を用いています。



「暦」の誕生

 太陽の沈まない白夜がある高緯度地方や、季節変化に乏しい低緯度地方でも、太陽の位置で日周期や年周期を観測することは可能だが、暦の必要性は無く、明確な季節のある中緯度地方でなければ現在の暦に繋がる概念の発達は起きなかったと推定されている。

 当初、夜間に実用的な唯一の照明で人々の活動に直結した「月(太陰→太陰暦)」や、季節変化と関連の深い太陽が観測の中心だった(→太陽暦)が、より完全で普遍と思われた基準を恒星(星・星座)に求めた(→恒星暦)ものは、天文学や占星術へと分化していった。

 天照(アマテラス)に代表される太陽信仰で、日食は支配者の霊力低下や神による不信任の表明と考えられ、邪馬台国の女王卑弥呼も日食によって処刑されたと伝えられている。
 現代では天体ショーに過ぎない現象だが、統治者たちは民衆に教える難しさよりも、予知して奇蹟として演出する道を選んだと考えられる。
 天文学を駆使して日食や月食を予測する役職が陰陽師(おんみょうじ)で、正確な暦は政治の道具となり、他の者が暦を作る事を禁止した時代もあった。


暦日(れきじつ)

 昼と夜の繰り返しの周期を数えるもの。
 日の出や日没の時刻を基準にすると、緯度や季節変化の影響で毎日変化するし、朝晩の地平線近くには雲が発生しやすいので観測しにくいが、南中時刻を基準にすると緯度の影響が無くなる。
 南中から次の南中までの時間を「真太陽日」と呼ぶ。
 真太陽日は、年2回の周期で約30秒伸縮するため、通常は「平均太陽日」を使う。

 現在の日の出は、太陽の上端が地平線と一致した時刻だが、旧暦では太陽の中心が地平線と一致した時刻であった。

 連続する周期とは別に、昨日と今日の境界を設ける必要を生じるが、古来「日の出によって1日が始まる」とするのか、「日没によって1日が終わる」のかによって、一日の区切りをいつにするかは2つに分かれたが、時計が普及した現代では、日付の変わる時刻が毎日変わったり、人の活動中に日付が変わるのは不便と云う理由で深夜に移された。

 クリスマス・イブが、クリスマス前日の晩を意味するのは、「日没によって1日が終わる(=新しい1日が始まる)」と考えられていた時代の名残り。
 イブ(evening)は日暮から深夜の直前までの人々が活動する時間帯を指し、「前日の晩」という意味は無いので、前々日を「イブイブ」などと言うのは日本的な誤用。
 日本では「日の出」を1日の始まりにしてたが、仏教では死者と生者の生活(昼夜)は逆転しているという考えに基づき、死者の1日の始まりを「初夜」と呼んで、「夜の始まり」と云う意味であったが、「初・始」の使い分けの曖昧さも手伝って「最初の夜」と云う意味で使われる事が多くなっている。
 ※ 本来は間違いでもが、多勢に無勢の論理で罷り通るのが「言葉」の世界)。
 ※ 深夜:多くの人の活動が止む時間帯で、時刻で区切る事は出来ない概念上の分類。



暦月(れきづき)

 本来は月の満ち欠けによる周期を数えるもの。
   暦(こよみ)上の1ヶ月は、月頭(1日)と月期間(月末までの期間)によって決められ、現代の太陰暦(旧暦)では、「朔」の瞬間(天球上で月が太陽と同じ緯度にある時刻)を含む日を1日、その前日を月末としている。
 満ち欠けの周期は約29.53日なので、毎月の日数は29日か30日のいずれか不定となる。
 天体月の公転に由来する満ち欠けの周期と、地球の公転に由来する年周期(約365日)には関連がないため、暦月と季節は一致しない。
 後に季節変化に重点を置いた太陽暦に移行すると、各月(暦月)の日数が30日前後に固定されるが、制定時の権力者の恣意が働いて、7月と8月が続けて31日になるなど規則性は失われた。

   古代ローマでは、日没直後の西の地平線上に細い三日月が見えた時に、祭司の指示で触れ役が新しい月の始まりを叫んで歩いた。カレンダーの語は、ラテン語で叫ぶ事を「カレオ」といい、1日を「カレンド」と呼んだことに由来する。  現在宗教儀式にしか使われていないが、イスラム暦はこの方式で毎月1日が決められている。

 日本で採用した中国由来の暦では月が太陽と同じ緯度(天球上の緯度=方向)にある「朔」の日を毎月1日とした。この場合もローマ同様の方法で三日月を観測してこれより2日前に遡って月初めを推定していのが「朔(さく、ついたち)」の字の由来となっている。
 ※月齢を参照→ある日の月齢は、その日の正午における月齢で代表するため、実際の旧暦では朔の瞬間が正午前にある日が1日で、朔の瞬間が正午を過ぎると晦日で、翌日が1日になる。

 太陽から遠く離れた星座を基準に太陰(天体の月)が天空を1周する周期は「恒星月」と呼ばれ、27.321662日(A.D.2000.1.5)となるが、満月や新月を基準にした朔望日は、太陽の方向を基準にした見かけの太陰の公転周期で、地球の公転によって太陽の向きが毎日ずれるので余分に回らなければならず、朔望月平均日数は、
  29.530886日(A.D.1900)
  29.530589日(A.D.2000.1.5)

 朔望月日数は、毎年1月頃最長(約29.8日)、7月頃最短(約29.3日)
 日々の南中時刻は平均51.51分(時期により38〜66分)遅れる。

※ 現在、「新月」の意味は3通りあって夫々勝手に使われている。
 (1)太陽と同緯度で見えない月。主に理科で使う。
 (2)三日月のこと。月(暦)の初めに見える月(天体)の意味。  (3)東の空に昇り始めた頃の月。(日没後に月が昇るのは旧暦15日頃以降で、満月を過ぎた下弦の月だけ)

月齢

 天体の「月」が太陽と同じ方位にあるときを「朔」と云い、朔の瞬間からの経過日数で表わす。
 月齢は刻々と変わるため、通常は「正午日数」(正午における月齢)で代表する。
 単位は「日(にち)」で、四捨五入して少数点下第1位に丸めたものが一般的。

 

月の位相

 月(天体)の満ち欠けの事で、太陽との相対的な位置関係(視黄経差)を角度で現したもの。
 朔の時の視黄経差は 0°で、上弦=90°、望(満月)=180°、下弦=270°と定義され、例えば「朔の時刻」とは視黄経差が 0°になる時刻(-年-月-日-時-分-秒)を指す

※三日月:月齢 3.0 前後の日の月。
 太陽と月が同じ経度にあるときを「朔」と言い、この瞬間から3日目の夕方の日没後に見える月の姿。
 三日月は以前「朏」と書き、「朔の後、夕方に初めて見える月」が語源。(太陽の近くにあって、日没直後に短時間見えるとすぐに沈みます)
 朔の瞬間から40〜65時間後と幅があるため、形にも幅がある。
 文学などでは、細い月の総称としても用いられることが多く、狭義の三日月から半月の直前までを指す。

 補足の補足:2004年施行の指導要領では「ゆとり教育」と云う方針の下、小学校では新月と満月以外を教えてはいけない事になった。
 太陽の後を追って日没後すぐに沈んでしまうのが三日月で、前日には太陽のすぐ近くなので見えない。
 新月直前の月も似た形をしているが、欠けの向きが逆で夕方には見えず、日の出直前に昇り始め、日没直前まで空に在るが、日の出によって見えなくなってしまう。

※晦(つごもり):暦の月末のこと。



「年」

 中緯度地方において、季節変化の周期を数えたもの。
 地球が太陽を周る際に自転軸が傾いているために起こる現象。
 公転面は、中心が太陽からずれたゆるい楕円形で、太陽にもっとも近づく近日点通過日は2001年のとき1月4日で、このとき北半球では冬に当たるが、南半球ではしっかりと夏なので、心配要らない。



エジプト暦

 通用の暦は、1年を30日×12ヶ月+5日(加日)の365日に固定し、洪水・種播き・収穫の3季に分け、各季4ヶ月にしていた。年々季節とずれていく「移動年」で、エジプト暦という場合はこちらを指すが、これとは別にオオイヌ座のシリウス(sirius, 天狼星)が日の出前に地平線の上に出る日を年初としたシリウス年によってナイル川に起こる洪水の時期を予測していた。
 シリウス年によって四季の循環周期が365.25日であることを知っていたが、暦年を季節に合わせようとはせず、季節は1461年で一巡するものと考えていた。
  1461エジプト年=1460シリウス年=533265日
   (※今日の測定による実際の周期は、1506暦年で一巡する)

 シリウスは、全天で最も明るく見える星。この方法によって決められた1年は「恒星年」であり、太陽を基準にした「太陽年」よりも幾分長く、1年ごとに約20分ずつ季節がずれていく。
 閏年はまだ発明されていない。



ローマ暦

 原始ローマ暦はB.C.8世紀にできたが幼稚なもので、年初は春分の日を含む現在の3月頃、Martiusで始まる10ヶ月・304日+無名月(冬期間)という暦だったが、しばらくして、12ヶ月355日に改められた。
 日没直後の西の地平線上に細い三日月が見えた日を月初めとし、
 閏日を年末に設けていた名残が、現在の2月に閏日を置く起源となっている。

 ローマ人が奇数を好んだため、後に各月の日数は29日と31日で年末月のみ28日となった。
 更にその後、閏月を設けて季節のずれを調整した時代もあったが、暦を司っていた祭司が運用を誤って季節との誤差が蓄積していった。 未確認情報:理科年表(丸善.2001)の中にローマ暦の平年日数355日に極めて近い数字が掲載されているので併記する。  ※A.D.2001.7.1 の対恒星平均運動(平均太陽日)=3548.19
  ・・・似てるべ?

 最終的には、1年おきに閏年を設け、355日(平年)→378日→355日→377日を4年周期で繰り返した。閏日は2月23日と24日の間に23〜24日間設けられた。
 これは、当時の日付が月初めからの通算日数ではなく、毎月3つ設けられた要日の何日前かを数えていた習慣によるもので、23日が "Terminaria(終日)" で、24日以降は次の月初 "Kalendae" を基点に数えるので、2月24日は翌年の付属物扱いとなっていた。

 これによる1年の平均日数は、恒星年に相当する366.25日で、公転周期とは毎年1日ずつずれていったため、B.C.222年頃の年初は現在の3月15日だったが、B.C.153年には1月に移動した。



ユリウス暦(B.C.46年)

 ローマ皇帝ジュリアス・シーザー(ユリウス・カエサル)によって布告され、翌年の年初より実施。
 季節との差が溜まっていたローマ暦の年初を新暦1月1日をに移動させる為、施行前年に定期の23日+臨時の67日間の閏日を設けたが、この年は445日となって「乱年」と呼ばれた。

 新暦は1年を365.25日とみなして、ローマ暦と同じMartius(軍神月)から31日と30日を交互に繰り返し年末月のみ29とする均等に配分されたもので、4年に1度の閏年を設け、2月24日を2回繰り返した(同じ日付が2日続いた)。

 シーザーがエジプト遠征(B.C.49)の際に知ったエジプト暦を輸入するため、アレクサンドリアからソシゲーネスを招致して作成。シーザーは実施の翌年に暗殺されている。
 当初、言葉の意味の違いから解釈を間違え、B.C.9 まで3年置きに閏年を設けたため、皇帝アウグストゥスが小規模な改暦を行った。
 訂正のために A.D.4 まで閏年を廃止し A.D.8年より正常運用するものだったが、この際に3度目の戦勝を記念して第6の月 "Sextilis" を自分の称号である "Augustus" に改め、日数をそれまでの30日から吉数である31日に変え、年末月を1日減らした。
 これ以来、7月と8月に31日が続く不均等な配置となって現在に至る。

    はじめの月 Januarius (ラティウスの神の名前が由来)
    清めの月  Februarius (清めるの意味)
    軍神月   Martius (ラティウスの神の名前が由来)
    開花月   Aprilis (語源諸説あり)
    成長月   Maius (語源諸説あり)
    繁茂月   (?)June (語源諸説あり)
    第5月   Quantilis (序数の5) → Julius(B.C.44 改称)
    第6月   Sextilis (序数の6) → Augustus (B.C.8 改称)
    第7月   September (序数の7、発音は、セプテンベル)
    第8月   October (序数の8)
    第9月   Novenber (序数の9)
    第10月  December (序数の10)



ニケア公会議(A.D.325)
(Nikaia/ニカエア/ニケーア)

 キリスト教徒は迫害されながらも増え続け、無視できない勢力となった。
 ローマ帝国を再統一したコンスタンティヌス帝は、西暦 313年に「ミラノ勅令」を出して公認したが、教義を巡っての内部対立が激化して治安が悪化したため、325年にキリスト教の全司祭を集めた会議を開いた(旅費を含めた全経費を皇帝が負担した)。
 この会議によって、現代に続くキリスト教の基礎が確立したが、最大の争点はイエスが神なのか預言者(=人間)なのかについてで、多数決で神と決められた。

 この時、キリスト教の祝祭日をユリウス暦だけによることを義務付け、 キリスト教で最大の行事である「復活祭」の日取りを、春分の後の満月を過ぎた最初の日曜日と決めたが、春分の日がいつなのか迄は決めなかった為、数年間の混乱を経て、天文学上の春分とは無関係に、暦上の3月21日を春分の日とみなして復活祭の日程が決められるようになった。
 このときの春分の日は3月21日であったが、これ以降、ユリウス暦で想定された周期(365.25日)と、現在知られている周期(約365.2422日)との差が溜まり、年々、春分の日が夏の方にずれて行った。





グレゴリオ暦(現行の太陽暦)

 A.D.1582年2月24日、ローマ法皇グレゴリオ13世が教皇勅書によって新暦法を公布。
 天文学上の春分の日をニケア宗教会議当時の3月21日に戻すことに重点を置いたもので、ユリウス暦1582年10月4日(木曜)の翌日を新暦10月15日(金曜)としたが、抵抗が多く普及に300年を要した。(曜日だけが連続している事に注目!)

 月名・月の日数はユリウス暦と同じだが、閏日は2月の月末に移動させた。
 原案は、ペルジア大医学講師のリリウスで、10年掛けて提案を作成し、天文学者のクラビウスが推進役を務めた。10月の実施を決めたのもクラビウスだが、主要な行事が少なかったからと云われている。

 地球の公転周期を 365.245日とみなし、4年に1度を閏年にするが、紀元節毎の100で割り切れても400で割り切れない年は閏年にするという単純なルールで季節のずれを防止できるようになった。
 この置閏法(閏年を決めるルール)によると、約3000年で1日ずれる

(補足)「皇」は、中国語で最高権力者の称号。「王」は皇に忠誠を誓った小国の長という意味。



(補足)
 現在知られている公転周期は 365.2422日で、グレゴリオ暦の前提になった周期とは 0.0028日ずれていることになる。以下に置閏の原理を計算例で示す。
 ()内は現在知られている周期を基にしたもの。

・1年を365日とすると、公転周期365.2425(365.2422)日との差は 0.2425(0.0422)日あるので、
・4年で、0.97(0.96688)日の余りが溜まるので、閏年にして1日増やすと
・    0.03(0.0312)日足りなくなる。
・これを25回繰り返した100年目には、0.75(0.78)日足りなくなるので、閏年を省くと、逆に 0.25(0.22)日余る。
・400年目に1.00(0.88)日余るので、閏年にする。

※グレゴリオ暦では400年周期で揃う(公転周期を400倍すると小数点以下の端数が無くなる)計算になるが、実際には5000年周期である。
 最後の400年目毎の補正を、500年目毎にするだけでも精度は向上するが、現在もグレゴリオ暦で定められた方法によって補正されている。

 

グレゴリオ暦の変法

 旧ソ連やギリシアでは、置閏法を改変して運用している。
 閏年を900年に7回省くもので、A.D.2400まで原案と一致するが、原案よりも精密に補正できる。

 追加された置閏ルール:西暦年が100の倍数のとき、100で割った商が9の倍数に2または7を加えたものでないときは閏年としない。



国際暦

 第1次世界大戦後の国際連盟において提案され、3案にまとめて各国に諮られたが、機関解散により立ち消えている。
 アメリカのElizabeth Achillis が設立した世界暦協会は、現在も活動を続けていおり、主な改正の論点は、
  1. 曜日を暦日に固定して週外の日(曜日が無い日)を置く
  2. 各月の日数を均等に配置する。
  3. 年首の定義
  4. 置閏法(閏年を決める手続きを簡単で精密なものにする)



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= 暦に付随する話題 =
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西暦(キリスト紀元)

 A.D.531年より開始された。
 ローマのディオニシウス・エクシグヌス(Dionisius Exguus:〜A.D.550頃没)による提案による。

 キリストの生誕年は当時より不詳で、現在では B.C.4 頃と推定されているが、、ディオニシウスの推定した生誕年の根拠は不明とも、当時そう考えられていたとも言われている。
B.C.1/12/25 をキリストの降誕日と推定し、翌年を紀元1年としたもの。(歴史学に紀元0年は無い! これだと計算上面倒になるため、天文学では紀元0年を置いて、紀元前の年号を1年ずつずらして使うのが習慣になっている。)

 世界的に普及したのは18世紀以降で、一部のカトリック教徒国で公式に採用されたのも10世紀になってから。
 それまでのローマでは、ローマ建設の日を元年とするローマ紀元(=B.C.753)が長く使われ、その後ディオクレティアヌス皇帝(Diocletianus:在位284-305)の即位紀元を使っていたが、在位末にキリスト教徒の大迫害を行った者として知られ、キリスト教徒達は「殉教者の紀元」と呼んでいた。その後キリスト教の広まりに伴って迫害は止んでいたが、かつての迫害者の名前と結びついた年の呼び方を嫌ったのが背景。

 日本は、キリスト教を主教とする国ではないし、2000年現在、政権の中枢にあるのは「公明党」という日蓮宗の流れを汲んだ一派のみ。(党の綱領によると、日蓮宗で日本を統一するために活動しているのだそうだ)
 2003年に始まったイラク戦争は、互いに相手を認めない宗教(キリスト教対イスラム教)同士の石油を巡る縄張り争いとなり、赤十字のマークが入った援助の食糧が、キリスト教の印だからという理由で食べなかった程だが、イスラム教国でも儀式以外の日常生活には、西暦年とグレゴリオ暦を使用している。これらは、便利だからという以外の理由は見当たらず、キリスト教に入信するかどうかとはまったく別。



皇紀・紀元節・建国記念の日

 日本書紀の記述に由来する神武天皇即位の B.C.660年2月11日(旧暦の1月1日)を紀元とするもので、明治5年12月に紀元節(祝日)として制定され、数回変更の後2月11日となった。
 紀元節は戦後廃止されたが昭和41年(12/9)に国民の祝日「建国記念の日」として復活。
 建国の日(建国記念日)ではなく、建国を記念する日との意味で「の」の文字が入っており、「建国を偲び、国を愛する心を養う日」と定義されている。

 皇紀の年数は、西暦+660 となる。カレンダーに付記される以外に用途は無い。

 「建国記念の日」には「祝う会」の他に、「祝わない会」も開催されている(2009年報道)。


数え年

 生まれた瞬間を1歳とし、年初に一斉に1を加えていく方法。
 過去に法的根拠を得たことの無い、ただの慣例。

 旧暦では、1年の長さが最大30日も違い、閏月があって誕生日を基にするのは不便であったためと考えられる。

 稀に、「数え年は満年齢に2を加えたもの」という短縮された雑学が流通しているが、実際には、元旦から誕生日の前々日までは2歳の差があるが、誕生日前日から年末までは差が1歳になるので、間違い。



満年齢

 明治35年12月2日公布で定義されたが普及せず、昭和24年5月24日に満年齢の使用を義務化する法律を公布し、昭和25年1月1日より実施された。移行による混乱は記録されていない。

 民法では、誕生日の前日に1歳繰り上げる事になっており、2月29日生まれの人が4年に1度しか歳をとらないと心配をする必要はない。

 今日でも、満年齢と誕生日の関係を考慮せずに作られた制度が数多存在し、小学校で4月1日生まれの子が2日生まれの子よりも1学年上になるのはこのため。



ケニアの運転免許証

 年齢欄には、「over 18(18歳以上)」とだけ記載されており、これを受け取った日本人女性はいたく感激したという記事が新聞掲載されたことがある。



寒中

 小寒(1月5日頃)〜立春(春分の日の前日)まで
 寒中見舞いの習慣があり、喪中などで年賀に出向けないとき、この期間を利用するのが便利です。

人工周期

 週(7曜≒暦月を4分)・旬(暦月を3分)・干支(12周期/60周期)など
 改暦と無関係に連続性が保たれたまま記録されており、暦学上の価値が高い。

 自然現象が元になっている現在の暦では、様々な理由で改変が行われ、その度に暦が中断し連続性が無い。
 連続性が保たれた人工周期の記録を元にする事で、歴史上の事件が通日数(今から○○日前)で数える事ができるようになる。
 【後述、「ユリウス日」を参照】



六曜(りくよう)

 旧暦の日付に対して固定された各種の呼び名を「暦注」といい、六曜もこの一種。七曜や干支のような連続性が無く、迷信以外の価値は皆無。
 新暦が制定された際、従来の暦にあった「暦注」の掲載は禁止されたが、それまで当たり前すぎて暦に掲載されることの無かった六曜は禁止を免れた。
 新暦は単純な法則で変化するので誰でも簡単に作る事が可能で、カレンダーが売れなくなってしまったのを案じた業者が、新暦上に配置すると不規則に見える六曜を掲載する事で、爆発的に売れたらしい。
 よって、六曜の普及は新暦の普及以降となる。
 

 仏滅・大安・赤口・先勝・友引・先負を繰り返すが、旧暦各月1日が以下の通りに決まっていたので、小の月の月末に1〜2日分飛ぶことになる。
  4/1、10/1  仏滅(ぶつめつ)
  5/1,11/1  大安(たいあん)
  6/1,12/1  赤口(しゃっこう/しゃっく)
  7/1,正月/1  先勝(せんかち/せんしょう)
  8/1、 2/1  友引(ともびき)
  9/1, 3/1  先負(せんまけ/せんぷ)
  ※「エイプリルフール(4/1)は仏滅」と覚えるとよいらしい。 

 旧暦では日付に固定されているので、迷信のネタとして珍重されることは無かったが、太陽暦の採用に伴って日付との関係が崩れて一見不規則なものに見えるようになった。
 明治時代後半より流行して、昭和30年代から現在のように重用されるようになった。 

 元来は中国で争いごとの吉凶を占うもので、日本へは江戸時代中期に伝わり、日常生活全般に拡大解釈された。
 ・仏滅----一日中、凶
 ・大安----一日中、吉
 ・赤口----昼が吉、朝夕は凶
 ・先勝----午前が吉、午後が凶
 ・友引----正午だけ凶、「共に引き分け」の意味だったが、近年は「友を引く」の連想から同じ事が起きる(繰り返す)意味に解釈されている
 ・先負----午前が凶、午後が吉

 気付いた方もおいででしょうが、争い事には必ず相手というものが居る訳で、それが同じ暦を使うもの同士という事だってあったでしょうに。
 争いや勝負に同じ占いを持ち込むんで、運の良い日取りの者同志が戦いを仕掛けたのでは占いの価値がなくなるので、方角を取り入れた別の占いが発明されましたとさ?
 おそらく、最も良い利用法は現代の我々が行っているように、「いつにしようか?」と迷った時に、「来週の日曜が大安だから」というような、選択の幅を狭くするだけかもしれません。
 自由というのは、意外に不便なものです。

 ※(厳密に解釈するほど、意味が薄れてくる例)
旧暦(天保暦:1843〜1909廃止)では、京都を標準時として朔(毎月の1日)を決めていたが、現在東経135°(兵庫県明石市)を標準とした時間より7分遅れており、現在の暦を元に作られた旧暦で大安になっていても、天保暦に忠実に計算すると仏滅である場合がある。
 ※ 近年の基準時の変遷
   1873年〜 京都真太陽時
   1789年〜 東京平均太陽時
   1888年〜 東経135°子午線での平均太陽時


エイプリル・フール(April Fool)

 1564年、フランスのシャルル9世がそれまで4月1日だった新年を1月1日に移した。(暦の月日は変わらず、注釈だけが変わった)
 それまでの新年のお祝いは、3/21(春分の日)〜4/1 の期間に行われていたため、移行に反対した者たちや、新年が移行したのを知らずに旧法に則った祝いを続けた者たちを「四月のバカ」と呼んだのが由来。

 フランスでは「四月の魚」、スコットランドでは「四月のカッコウ(鳥)」などとも呼ばれる。
 中国を起源とする説もある(・・・というか、主張している国がある)が、つまらないので割愛。(その他諸説あり→平凡社・世界大百科事典)


週・七曜(しちよう)

 現在の暦に週が導入されたのは、キリスト教の拡大に伴うもので、暦の元となっているユリウス暦には週の概念は無い。
 お馴染み「日月火水木金土」の事であるが、日曜日を週頭にするか、週末にするべきかについては決着がついておらず、連続している事だけが重要。

 バニロニアの王が7日毎に公務を休んだのが起源。
 旧約聖書(ユダヤ教)に登場するモーゼの戒律では、7日毎に安息日を置くことを命じ、土曜日に礼拝を行っていた。これを受け継いだキリスト教でも初期には土曜日に礼拝を行っていたが、コンスタンティヌス帝の融和政策によって、ローマ帝国の国教で太陽神を崇拝する日曜(sun-day)に移動した。
 ※クリスマスを始めとするキリスト教の行事は殆どが、太陽神のものと一致し、名前だけ変えて受け継いだものと云われている。

 現在の週の名は B.C.2世紀頃のエジプトの占星術に由来するもので、当時発見されていた5惑星と太陽・月から成る。

 (補足)暦学上で言及されたことはないが、現在の北半球では(南のことは知らない)ほぼ7日毎に北極圏から吹き込む冷たい風の影響で、周期的に天候が変化する。日曜の度に雨だったり、三寒四温のような成句があったり(足して7になるのがミソ)する原因になっている。
 多くの文学的な解説では、「徐々に暖かくなって、どちらかといえば寒い日が3日、暖かい日が4日」と云う印象を受けるが、実際には急に暖かくなったり寒くなったりしている。
 暖気と寒気は混ざり難く(そのため、前線が出来て雨が降る)、境目が南北に移動する度に気温が大きく変わる(梅雨期を除いて、斜めになった境界が西から東に移動している)。



干支(えと)

 現代では十二支の中でどれに当るかの意味で使われているが、十二支は「干支」の「支」の方だけで、旬日(上旬・下旬などの、ほぼ10日間)が基の「十干(じゅっかん)」と12ヶ月が基の「十二支(じゅうにし)」を順送りに組み合わせて出来る60種類の呼び名。
 1番から60番に相当する序数(順序を表わす数字)の役割を果たします。
 改暦や閏月などと無関係に開始当初から、年・月・日それぞれの名前として連続性が保たれたまま 3000年に渡って記録されてきたため、暦学上極めて重要。
 「干支」を「かんし」と読まず、「えと」と読ませるのは、後述する「五行」から「兄(え)・弟(と)」の音を借りたものらしい。

 組み合わせが60で1周することから60歳の別名を還暦と呼ぶ語源となっている。
 ・甲子の年に建てられたので、「甲子園球場」
 ・壬申の年に起こったので、「壬申の乱」
 ・2004年の干支は、甲申(きのえさる)

「甲申」と書いて「こうしん」と読ませることもありますが、日本で独自に発達した訓読みの呼称(きのえ・さる)は五行を借用してわざと判り難くしてあるので「有り難味」が増し、結果的に迷信の下地になっています。

十二支(じゅうにし)
うしとらたつうまひつじさるとりいぬ
ちゅういんぼうしんしんゆうしゅつがい
十干(じゅっかん)
こうおつへいていこうしんじん
五行(ごぎょう)
つちみず
もくごんすい

十二支獣(じゅうにしじゅう)

 本来、月を表す記号だった「子・丑・寅・・・」を当時の識字率などの不便から呼びやすさ、判り易さなどの目的で動物を当てはめたもの。
 性格占いなどに転用されているが、「子・丑・寅・・・」の文字そのものに動物を表す意味は無いので、占いの根拠も皆無。

五行(ごぎょう)

 五行は、古代中国で生まれた「五行相生(そうしょう)説」によるもので、木が火を生み、火は土を生み、土は金を生み、金は水を生み、水は木を生むという思想。
 これら5つの組み合わせで、この世のあらゆるものが成り立っているという、現代における元素や素粒子のような存在です。
 十干の読みに当てるために各々「兄と弟」を設けて水増ししている様にしか見えませんが、五行の其々に「陰」と「陽」がある(陰陽説)ので全部で10種類という解説が一般的です。
 兄は「え」、弟は「と」と読ませ、木の兄(きのえ)木の弟(きのと)と読ませます。この結果、これらの読みは以下のようになります。(これ以上判り易い表は無い!!と自画自賛)

こうおつへいていこうしんじん
きのえきのとひのえひのとつちのえつちのとかのえかのとみずのえみずのと


土用(どよう)

 「土旺」の当て字が習慣化したもので、「土気(どき)の旺(さか)んな時期」という意味。

 五行を四季に適用しようとすると1つ余るので、真中の「土」を季節の生成を助けるもの(≒準備期間)と云う事にしたらしい。(春=木気、夏=火気、秋=金気、冬=水気)
 黄道上の太陽が四立点(立春=0°:立夏=90°:立秋=180°:立冬=270°)の前 18°に位置した日が「土用の入り」で、四立点に達する前日までを「土用」と呼ぶ。

 現代ではうなぎを食べる日になってしまった「土用の丑」は、秋分前の土用の期間(太陽暦で7月下旬頃)のうち、日毎に割り当てられた12支が「丑」の日を指す。
 土用は体調を崩しやすい季節の変わり目であり、殊に体力を消耗し易い夏である事も普及した要因に挙げられている。
 土用の期間が約18日間なのに対して、12支は12日で1巡するため、年によっては、2回の「土用の丑」があることになる。

 「うなぎの日」は、江戸時代の発明家またはプロデューサーとして有名な○○(←伏字じゃなくて、ど忘れ^^;)のアイディア(知人の鰻屋が、客が少なくて困っていたのを案じて作ったPOP)が起源とされるが、更に遡ると「天皇に献上するウナギを吟味する一環で捕獲日を検討したところ、丑の日に獲ったものが最も生きがよかったからである」という始祖の子孫による新聞投書が記録されている。



お盆

 元来は旧暦7月15日で、現行の太陽暦では8月下旬〜9月上旬に当たる。
 旧暦では、晴れていれば必ずお盆のような形をした満月の晩の行事であったが、現行暦では暦上の7月15日や「月遅れ盆」と称して8月15日を盆の中日(なかび/ちゅうにち)と呼び、前後3日を含めた1週間を指す。(夏休み中の8月15日を採用する地域が多い)。
 この1週間の初日を「盆の入り」、末日を「盆の明け」とも呼ぶ。

 中国では、旧暦7月15日を中元と呼び、1月1日の上元、10月15日の下元と併せて大切な日とされた。
 中元は、7月の満月の日にこれまで半年間の無事を喜んで贈りものをする習慣があったことから、現代の「お中元」の習慣が出来た。


 端午の節句を祝うのに必要な笹の葉など、行事に必要な資材が揃わない時や、突発的な事情などによって、「旧暦(本則)・新暦上の同月日・新暦翌月の同日(月遅れ)」の中から便宜的に選んで行われます。


太陽年(回帰年)

 現行の一般的な暦で採用しているもの。
 季節の移り変わりは太陽と地球だけの関係で成り立っているので、最も実用的。


恒星暦

 古代人が天文台(定点)を作って観測を始めた頃、星や星座が地平線に出没する場所は年中変わらない様に見えるのに、毎日変わっていく太陽は、長期的な観測の基準に適さないと考え、恒星(=星座)を基準にした暦を作った。
 実際の季節変化は太陽に影響を受けているので、この暦は長い周期で日付と季節がずれていく。

 恒星暦の季節移動は、銀河系の中での太陽の移動によるもの。



初日の出(はつひので)

 日の出が一番遅い日や、日没が一番早い日は、冬至の頃だと思い込んでいる事が多いようですが、太陽の南中時刻を基にした1日の長さは周期的に変化しているので、平均太陽日を以って一日の長さを決めている事や、日の出と日の入りの定義の違い(→暦日を参照)、光の屈折による見かけ上の変化などが影響して、日没の一番早い日は冬至の前へ、日の出の遅い日は冬至の後にずれています。
 日の出が一番遅いのは、元旦から1週間位の時期のようで、初日の出は朝寝坊の人でも見られるようにとの配慮なのかしら?
・・・と思っていたら、大晦日から徹夜で初日の出を見てから寝るのがフツウなんだそうで、要らぬ心配だそうです。



北(方角)

 方角は地球の自転軸に由来するもので、北半球では太陽で出来る影が最も長くなるときの影の向きが北になります。
 地球の自転軸と、磁石の指す磁極はずれているため、観測に方位磁石は使用できません。
 古代人(北半球の住人)は、1年中地平線の下に沈まない星の中で、地平線近くを通る星の最も低くなる方角に目印を建てて北としたこともあるようです。(注:北極星も少しだけ動いて見えます)


東西(方角)

 定点(天文台)から、正反対(1直線上の対極)の地平線に出没する星の方角とした。
 (この項、意味がよくわからん。)


地球の自転

【太陽年と恒星年】
 地球は自転しながら、太陽の周りを公転して移動しています。
 月面の模様がいつもウサギが餅つきをしている様に見えるのは、月が自転していないからですが、もし地球も自転せずに太陽に同じ面を向けたまま1周(公転)すると、遠い星から見た地球は1年に1回転する様に見えます。
 このため、1年の日数は地球から見た太陽を基準にした「太陽年」よりも、遠い星から見た「恒星年」では、ぴったりと1日多くなってきます。

【太陽日と恒星日】
 北極側から見たとき、地球は左回り(←作図したときの上辺での動く向き)に自転し、左回りに公転しています。(回転方向は、作図したときの上辺の移動方向で呼びます)
 1日は、地上の同じ場所が太陽と正面に向き会う周期と言い換えることが出来ますが、公転の所為で地球が1回転より余計に回らないと正面を向く事ができません。
 現在の地球の自転周期は、1日より短い約0.9973日で、自転周期を基準に1日としたものは恒星日と呼ばれます。

 コペルニクスが「天球の回転について」と云う題で地動説を発表したのは、1543年。
 ガリレオ・ガリレイ(当時60歳)が、ローマの異端審問所で裁判を受け、死刑(火あぶり)を受けるか地動説を捨てるかの選択を迫られて地動説を捨てたのが、1633年。真偽のほどは定かでないが「それでも地球は動いている」とつぶやいたと伝えられる。
 ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が、この時の宗教裁判の誤りを認めたのは、350年後の1983年5月9日であった。



太陰(たいいん)

 太陽に対する月の別名。暦上の月と天体の月を区別するため、暦を扱うときにはこの語を用いることが多い。



月(暦月)

 太陰暦では、太陽の方向を原点とした太陰の公転周期だが、太陽暦では一定のルールに従って28〜31日に固定されたもの。
 月(天体)の軌道周期(近点月)は、27.5545506日だが、地球の公転に随伴してずれるため、朔望月平均日数は、29.530886日(A.D.1900)
 毎年1月頃がもっとも長く(約29.8日)、7月頃にもっとも短く(約29.3日)なる。
 日々の南中時刻は、平均51.51分ずつ遅れるが、この値は38〜66分の間で変化する。
 ※ 役者(月)の演技は変わらないのに、客席(地球)の場所が変わるので、違って見える・・・のが原因です。

月齢(げつれい)

 一連の月の満ち欠けを、朔の瞬間を 0.0 とした経過日数で表したもの。太陰暦の日数は月齢を元に決められる。
 その日の月齢は正午(昼12時)の月齢で代表させているため、夜に見える実際の月(太陰)の見え方とは違ってきます。


27宿(28宿)

 インド・中国・アラビア・ペルシアなどでは、実際には見えない朔の日を観測する為に、黄道を恒星月の周期(27〜28日)に分けて宿と呼び、1日に1宿ずつ移動する太陰を観測することで朔の日を推測した。



ユリウス日

 グレゴリオ暦への改暦の際に年代学上の混乱を避けるために考案された通算日。  Joseph Scaliger(イタリア、1540〜1609)の考案によるもの。

 B.C.4713.1.1(月曜)正午を基点とした通算日。
 A.D.1900.1.1・正午は、 "2415012.0日" となる。



節季

季節は気温の変化であり、気温は太陽の高度(正弦)に関連して変化し、太陽の高度は、黄道上の位置(黄経)で決まる。
(※黄道:天球上の太陽の通り道)  分点:春分・秋分(春分点から180°離れた場所)

 至点:夏至・冬至(分点を半分にした場所)

 立点:立春・立夏・立秋・立冬(分点・至点を半分にした場所)


 西洋の習慣では、季節を2分2至(春分・秋分・夏至・冬至)で分けるのに対して、東洋では4立(立春・立夏・立秋・立冬)で分ける。
 この習慣は、冬が開けて活動を開始する時期に基準になる年始(春分・立春)を置こうとしたためで、暦が作られた場所の気候の違いによると考えられている。
 さらに細分した、24節季や72候、彼岸・土用・節分などの雑節も太陽暦に基づいて決められる。
 ※「お彼岸が過ぎたら急に春らしくなったねぇ〜。昔の暦は今のと違って大したもんだ。」というお年寄りに教えてあげましょう。


二十四節季

 太陽と無関係に満ち欠けする月(天体)を基準にした「太陰暦」に対して、季節を知るために「太陰太陽暦」として併用されたもの。
 「旧暦は季節に敏感」などという戯言は太陰太陽暦の太陽暦部分を指しているに過ぎない。
 期日は地球の子午線と太陽との角度で決められ、軌道の不安定さや閏年などの関係で現行の太陽暦上では1日前後移動する。

 節季は、特定の日を表わすとともに、次の節季までの期間を表わすため、「立春」は2月4日頃の特定の日を意味する場合と、次の「雨水」までの期間全体を意味する場合とがある。

立春(正月節)2/4頃(りっしゅん)節分の翌日。春の始まりの日
雨水(正月中)2/18〜19頃(うすい)雪から雨に変わる
啓蟄(二月節)3/5〜6(けいちつ)土中で冬眠していた虫が這い出す
春分(二月中)3/20〜21(しゅんぶん)昼夜の長さがほぼ等しくなる日。春彼岸の中日。
清明(三月節)4/4〜5(せいめい)清らかで明るい季節・・・の意味。
穀雨(三月中)4/20〜21(こくう)春雨が降って穀物を成長させる・・・の意味。
立夏(四月節)5/5〜6頃(立夏)夏が始まる日
小満(四月中)5/21(しょうまん)万物が充実し草木が茂る季節
芒種(五月節)6/5〜6(ぼうしゅ)芒のある穀物・麦などを蒔く季節
夏至(五月中)6/21〜22(げし)昼が最も長くなる日
小暑(六月節)7/7〜8(しょうしょ)これから暑さが厳しくなる
大暑(六月中)7/22〜23(たいしょ)暑さの頂点
立秋(七月節)8/7〜8頃(りっしゅう)秋の始まる日
処暑(七月中)8/23〜24(しょしょ)暑さが終る
白露(八月節)9/7〜8(はくろ/びゃくろ)草に露が宿る
秋分(八月中)9/23(しゅうぶん)昼夜の長さがほぼ等しくなる日。秋彼岸の中日。
寒露(九月節)10/8〜9(かんろ)寒さで露が凍る手前
霜降(九月中)10/23〜24(そうこう)冬が近づき霜が降りる
立冬(十月節)10/7〜8頃(りっとう)冬の始まる日
小雪(十月中)11/22〜23(しょうせつ)初雪が降る頃
大雪(十一月節)12/8〜8(たいせつ)雪が多くなる
冬至(十一月中)12/21〜22(とうじ)夜が最も長くなる日
小寒(十二月節)1/5〜6(しょうかん)寒の入り。寒風や降雪が激しくなる
大寒(十二月中)1/20〜21(だいかん)寒さの頂点

立春を起点とする雑節
・節分:立春の前日
・八十八夜:立春から88日目
・二百十日:立春から210日目
・二百二十日:立春から220日目
・春一番:立春以降初めて吹く南よりの強風。
 気象庁の気象用語では、「立春から春分までの間に、広い範囲(地方予報区くらい)で初めて吹く、暖かく(やや)強い南よりの風」と、やや厳密に定義されている。



 旧暦では1月〜3月の事。 立春付近の月を正月にしていた事に由来する。
 現在、寒の入り前にある元旦に「迎春・新春」の語を使うのは、旧暦に由来するもので、改暦が行われた際にどうしたものか、かなりもめたらしいが定着してしまった。

 気温の変化に直接関わる太陽の動きで、これと無関係の月(天体)の周期を基にした暦では、閏月の入った直後にずれが最大になり、暦上の春の訪れは遅くなる。
 これを以って、「今年の冬は長引く/春が早い」「今年の夏は短い/長い」などと表現する事があるので、気象予測と混同しない様に注意が必要。

 旧暦の正月(年始の月)は、中国伝来の「立春正月」が採用され、立春(太陽暦に由来)の平均が元日(太陰暦に由来)になるよう工夫されている。
 二十四節季で立春の次の「雨水」を含む月を正月とした。
 元日(=朔の日)と立春が重なる事を「元日立春」と呼んで珍重した。
 平年だと立春を含む月が正月になるが、19年に7回の閏月のある年は、12月に立春が来てしまうため、正月は翌月となり「年内立春」と呼ぶ。このため、旧暦では立春の無い年や立春が2回(年初と年末の月)ある年が存在する。
 閏月は、月名の頭に「閏」を付けて「閏二月」「閏三月」等と呼ばれ、正月のときだけ「閏一月」と呼ぶ(「一月」という月名はない)

 風水などの占いでは、節分(立春の前日)は前年に属し、立春を以て年が変わるものとしている事が多い。

====【ガセネタ】====
・正月は、大寒を含む月の翌月を2月とし、逆算して決められている。
・正月は、立春を過ぎた最初の月。

 ↑どちらもガセ

 天体の運動は、意外に不規則で長期的な予想は困難なため、現在でも立春などの日取りは毎年2月1日の官報で発表される翌年のデータに基づいて確定されている。



節分

 もともとは、立春・立夏・立秋・立冬のそれぞれの前日を節分と言っていたのが、立春前日のみを指す様になった。

 豆まきの風習は、もともと大晦日に行われていたらしいが、立春が新しい年の始まりとすれば、その前日の節分は大晦日に当たる。(移行の時期など詳細不明)
 豆まきでは炒った豆をまくが、炒る理由は説話や昔ばなしに言い伝えがあるものの、どうもこじつけがましい。どうやら、蒔いた豆を拾って「福豆」として食べるために、予め炒っておかないと腹を壊すからと云うのが真実に近い気がする。(←個人的な感想)



初午(はつうま)

 2月最初の午の日を指す。和銅4年(711年)2月午の日に京都伏見稲荷大社に祭神が降臨したのを祀ったのが由来といわれ、全国の稲荷神社で祭礼が行われる。
 地方によっては消防の出初め式が行われていたが、現在では日曜日に移動されている事が多い。



観象授時(かんしょうじゅじ)

古代バビロニア・エジプト(約4000年前)では、gnomon(「知る」の意味)と呼ばれる柱の影の長さを測り、南中時に最短/最長の時を2至点とした。
 その後、夕方東の地平線から出たばかりの星座や南中の星座、西の地平線に沈む直前の星座を記録して四季を判定した。
 エジプト暦の年初はオオイヌ座のシリウスを観測して決めていたが、バビロニアではカペラを基準にしていた。
 十二支・十二宮・十二獣といった、現在占星術に残る名前は、黄道(天球上の太陽の通り道)を等分して星座を当てはめ、太陽・太陰の観測をした名残。
 現在の天文学では春分点を「γ(ガンマ)点」と呼ぶが、「γ」はおひつじ座の記号で、命名当時(約2000年前)の春分点はおひつじ座の首の所にあったのが由来。
 恒星を基準にした「恒星年」は太陽年に較べて1年ごとに約20分遅れていき、現在ではうお座に移動している。


純太陰暦

 イスラム暦では、暦月を29日と30日の繰り返して12ヶ月を1暦年とした。
 1年=354日なので、33年で1年分余計に進むことになるから、30暦年中に11回の閏年を置くことで360暦月当たり18分短いだけで太陽暦との誤差が保たれる。、
 単年での季節は固定されないが、熱帯地方では不便にならない。

 暦の始まりは、どの文化圏でも太陰暦であったと考えられているが、農耕の始まりと共に季節を知る為の暦の需要がおこり、太陰太陽暦と太陽暦との2つに分化してゆく


太陰太陽暦

 朔望日を守って暦月を決めるが、閏月を置くことで暦年の季節とのずれを補正するもの。最大30日のずれが生じる

 現代の観測結果から、1太陽年=12+(10.8751/29.5306)ヶ月・・・と表現することが出来、右辺2項目の近似値をどう与えるかによって様々な置閏法が使われた。
 予め決められた計算法による補正(置閏法)では、精密さを追うと煩雑になり実用的でなくなる上、いくら精密にしても誤差が溜まるのを避けることは出来ない。
 (予め決めずに毎年、観測の結果を基に年初を決定する方法もある。→「エジプト暦」を参照)

 後の中国では、太陽年を24分して、各々に季節の名を付け、これを基にした置閏法を発明する。「24節季」として現在に残る。

 各月の位置は24節季を元に決められ閏月によって微調整されている。(冬至を含む月:11月、春分を含む月:2月、など)
 節季は地球の公転周期に由来して決まる瞬間の日時(○月○日○時○分○秒)であり、便宜上その瞬間を含む日を○○の日(春分の日など)と呼んでいることに留意されたい。
 つまり、春分の日が2月3日であるとき、春分は2月3日午前0時JST かも知れないし、23時59分59秒かもしれない。

 日本で始めて暦法が用いられたのは A.D.604(推古天皇12年)で、その後9度の小改変を経て明治5年の改暦まで用いられた。
 邪馬台国の王であったと言われる卑弥呼が日食の責任を取らされて処刑された頃から、偽政者の専らの関心事は日食や月食の正確な予知で、陰陽師の任務は悪霊払いではなく、暦の管理である。
 その計算方法はより正確なものが次々に中国から輸入され、国内に複数の暦法が混在する時代もあるが、日食や月食が起こる事で淘汰されていく。



旧暦

 前項の「太陰太陽暦」の事。現在の太陽暦が採用される前の暦法と云う意味。

 月日の決定は太陰(天体の月)の満ち欠けによって決められたため、季節の変化とは最大で2箇月のずれを生じたので、太陽暦に基づいた24節季などを併用したもの。
 24節季は現在のカレンダー上でほぼ1日しかずれない(←閏年の調整によるもの)ので、「旧暦は季節に敏感」などという文言は誤りだが、元旦が宗教(キリスト教)の都合で決められ、各月の始まりが節季と一致しないため、「なるほど〜」と疑わないヒトも多く、宗教ビジネスや霊感商法などの温床になっている。



太陽暦

 朔望月(天体月の満ち欠けの周期)を無視して太陽年=暦年とする。
 季節とのずれは1日未満となり、暦を作るルールも極めて簡単になる。
 (後述)但し、現行暦の制定時に基準となった太陽周期は 0.0003日の誤差を持っていたので、 【→グレゴリオグレゴリオ暦の項を参照】

マヤ暦

 1年が365.24日であることを導き出していた。
 1年を、20日×18ヶ月とし、残りは閏年の調整を兼ねた月名の無い日にしていた。
 オーパーツ・マニア(時代に不釣り合いな遺物・アトランティスなどの超古代文明や宇宙人との交流を主張する人々)は、現在知られている地球の公転周期(365.2422日)との差がグレゴリオ暦(365.245日)よりも、0.0001日小さい事を指して高度な文明であったと言うが、マヤ暦での有効桁が1桁小さいことに由来する偶然の可能性が高く、もし、真の公転周期が365.2423や365.2424あたりであったら誤差の多少は逆転していた可能性もあろう。

 彼らはまた、マヤ暦は閏年のない完全なものであったと喧伝するが、地球の自転周期(日)と公転周期(年)に何の関係も無い以上、端数の調整は必須で、マヤ暦では日付の無い日が5〜6日も続いたというのが真相。
 このような暦は不便で仕方が無いが、オーパーツ・マニア向けの物語では省略される事が多い。

 現在使用されている、円周を360度に分割する方法が直接考案されたのは、古代エジプトで、マヤ文明との関係は不明。1年の日数に最も近い数字でありながら、約数が非常に多く等分割するのに便利であったためと考えられている。
 マヤ暦で1年を360日+余り5〜6日としたのも様々な理由で等分割に便利であったからであろう。近年の世界暦を制定しようとする運動でもこの方式が取り上げられている。(→「国際暦」の項を参照)



円周の分割

 古代エジプトでは、円に内接する正多角形を作図して等分割していた。
 等分割された円弧を円周とする円をつくると、再分割することが出来る。
 正三角形→正四角形・・・・・・・・・・・・・12分割
          →正五角形・・・・・・・・60分割
               →正六角形・・360分割
 出来上がった基準を使って、いろんな数で等分割出来るようにする為に、同じ数で分割せずに1づつ増やしていったのがポイント。(3×4×5×6=360)
 全円を360にしたのは、等分割するのに便利だったからというより、等分割して作ったからというのが正解。


参考書