「判り易い表現」と云う言葉の意味には2通りあるようです。
実行を前提とせず一般教養としてだけ知りたい場合には、暗記しやすいように出来るだけ短い文章であることが「判り易い」と云う意味になるようです。
また、図表についてもデータの類は邪魔でしかなく、雰囲気だけ伝える絵や写真が豊富である事が求められるようです。
一方、読み手が実行するのを前提に書く場合、全ての手順を丁寧に説明して、誤解し易い部分は「○○ではない」のような注釈まで付けたのが判り易いHow_To になります。
本は読みたくないが「マンガなら読める」と云う方が、あまりにも増えてしまいました。
数人の登場人物の顔だけ描いて文章を吹きだしに入れるとか、会話形式にするとかの方法にしただけの入門書もあるようですが、当方の負担が増えるだけですから、勘弁してください。
誰の言葉であったか定かでありませんが、大衆操作に由来する名言があります
「言葉は短くするほどインパクトが強くなる。
しかし、真実からは遠くなる」
ま、これをいい意味で利用したのが、作者の意図を離れて読み手が想像を膨らませる「俳句」と云う文学なのでしょうね。
パソコン通信の時代、農業・園芸系のサイトで「科学的な表現」というのは、「回りくどくて、判りにくい」という侮蔑の意味で使われていました。
「暑い・寒い」「大きい・小さい」のような主観的な表現は、「〜に比べて」という大事な要素が省略されているので、聞き手にとんでもない誤解を生ませます。
長さを測る「物差し」であれば、JISやISOといった規格が予めあって、cm や mm と云う単位を付けて呼ぶことでその規格に沿って測定したと値だという暗黙の了解の下に、その数字を見るのが普通です。
利害の一致しない他人どうしが同じ結果を得られる観測の方法を「客観的」といい、客観的なデータを得るためには、共通の「ものさし」を使わなければなりません。
これらの手段を講じて、たった1人(筆者)の体験した事を第3者が再現・検証できるようにした文章を、本来の意味での「科学的な表現」といいます。
人がどう考えるかは自由ですが、それが他人と違う場合、自分の考えだけを尊重する事を妄想と云い、話し合って修正する作業を哲学と言います。
よく、「作物と会話する」などと言う表現をする方がいますが、作物に話しかけて説得する事はできませんから、赤ちゃんを相手にするときのように、何らかの行為を通じて機嫌がよくなったり悪くなったりと言う変化から、勝手に判断する事を云うのだと思いますが、ミルクをあげると機嫌が良くなるからと言ってそればかり続けていると、思わぬ病気を見落とす危険もあるのはみんなが知っている事です。
「科学技術を駆使して・・・」などと言う表現が横行しているので誤解されていることが多いのですが、本来は相手の都合を理解しようと勤めるのが科学で、そのために観察して、考え、その考えが正しいかどうかを確かめるために、相手の都合が変わるような「ちょっかい」を出して反応を見るのが実験です。
科学技術などというものは、実験の結果がわかってからも繰り返して続ける行為に他なりません。
作物を相手にする場合、聞く耳も話す口も持たない相手なので、説得してどうにかなるわけではありませんし、「この枝を伸ばしたい」「ここは伸びて欲しくない」などといくら話しかけても役には立ちません。
作物側の都合が変わるように、「ちょっかい」を出すのが農業で、人間の介在無しでは滅びてしまう様な性質のものだけ選抜する「育種」ですし、気象や病害虫から自分のみを守れないくらい柔らかくして人間が食べやすくする作業が「肥培」です。
日頃、同種の観察や計測を行っている人が、「推理→検証」の経験を積んで計測前に言い当てる事が出来る様になる事を「勘が鍛えられた」といい、実際の測定を行わずに済ませる事を「目測」といいます。
経験の無い人や、経験があっても浅い人たちが推測だけを行う事は、一般社会で「データの捏造」といいます。
お百姓さんはこういうのが大好きですよね。早い話が、勉強したり自分で考えるのは面倒だから、とにかく手を出して、やってるうちに上達する(筈だ!)という事でしょう。
この考え方は江戸時代に流行した中国由来の儒教の亜流で、「陽明学」という名前の宗教に由来するようです。
各派の呼称は教祖の名前を冠しますが、幕府公認の朱子学が真理の探究を掲げるのに対して、陽明学は実践を重んじますが、真理は生まれながらに備わっているから探求など不用という主張によるものです。
これが後のテロリスト集団「新撰組」に受け継がれます。新撰組の旗印はご存知「誠」で、意味するところは「自分が正しいと思った事をやらないのは悪い事だ」→「正しい自分がすることは正しい」。
だから、気に入らない人たちをどんどん殺すのに生き甲斐を感じていたんだそうです。ホントに宗教は恐い。
人間が全ての事象を理解する事は出来ないので,マクロ化(抽象化・概念化)やミクロ化(分解)する必要が有る. これらの過程を経ずに全体を丸ごと理解しようとするのは神の行為であって,検証の余地が無いから,信じるか否かの選択しか許されない.
宗教は、現代の法体系に例えると「憲法」のようなもので、みだりに変えてはいけない規範です。
安定した時代に作られた法律や思想は、その時々の雰囲気や利害関係が反映されます。
長い歴史を持つ宗教はすべて、虐げられた少数の民族によって完成されたものです。当時の支配階級とは無縁の人々が「理想の姿」を経典としてまとめたものなので、その宗派の勢力が広まって支配階級になったとき、「理想の姿」が邪魔になっても「変えてはいけない」と云う足枷(あしかせ)がモラルの維持に役立つものと考えられています。
日本の憲法もまた、当時の支配階級の思惑を排して、敗戦国として強制されたために民主主義の理想を文字にすることが出来た云われました(過去形)。
多くの人に受け入れられたあらゆる宗教は、成立当時の最高の科学を集めたものと信じますが、成立当時の状況では予想できなかった発見によって、認識を変えなければならない部分があるのも事実です。
たとえば、ローマカトリック教会がガリレオの「地動説」を認めたのはつい最近で、350年後の 1983年5月9日の事でした。(ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の英断)
周囲の状況が変化しても頑なに昔のままの行為を続ける事を、「こだわる」といいます。最近では良い意味のように使われる事が多いのですが、変化を嫌うだけの事も多いはずです。
宗教や憲法のように変えてはいけないのは「目的」だけであって、その目的を実現するための「方法」は気軽に変えて良いものだと思うのです。
科学と宗教の簡単な識別法:従来の説明で都合の悪い現象が認められたとき、新しい説明を作り直そうとするのが科学で、現象そのものを認めないのが宗教です。
新しい宗教が出来るときには、権威付けのための奇蹟・伝説が誕生します。
宗教は思想の完成形なので、その普及(布教)のための方法として効果的ですが、しょせんはでっちあげたオマケなので、核心部分と切り反す作業が必要です。
農業に於いても、画期的な作物や品種が登場したときに伝説が作られる事があります。
栽培方法が確立していない内は様々な障害に見舞われますが、相談された指導者が困って、つい口走った内容が広まった場合などです。
慣習には、それ相応の成立した事情があるはずです。
成立当時の事情が変われば、慣習も変えなければならないはずですが、成立した事情がわからないと、変えていいものなのかどうかの判断が出来なくなります。
このため、技術史の研究も欠かせません。
たとえば、関東地方の様な火山灰由来の黒ボク土では、ススキ以外の殆どの植物が育たず、酸性土壌のために枯れ草が分解されなかった為に有機物が蓄積したと言われています。
このような場所では、石灰を入れると分解が進んで肥えた土地になるわけですが、昔からやっているからと言って、いつまでも続けられる訳では無いことはお判りでしょう。
また、家庭菜園の入門書には、種ジャガイモの切り口に灰や石灰を塗らせたり、病気の予防と称して畑に石灰を入れさせる様に書いたものがありますが、今まで強酸性の土壌だった所には、アルカリ性に強い病原菌が居なかったと言うだけで、石灰の投入を続ければその環境に適した病原菌も増えてくるので、そういった経験は役に立たない場所が増えていきます。。
「学ぶ」というのは、知らない事を教えてもらったり、気付いたりすること。
「習う」というのは、稽古する事で、学んだものをより確実に身に付けるために何度も復習する事・・・だそうです。
熟練者が傍で見ている時は巧く出来たのに、一人でやってみたら出来なかったということが多くあります。
緊張感の有無なのか、僅かな手順の違いなのか、様々な理由がありますが、多くの場合、教える側が重要さを認識していなかったり、言葉で伝え切れなかったりした部分がトラブルの元になっているような気がします。
「教える事は、自分が学ぶ事」にもなります。
これと似て異なるのが「門外不出」で、手順さえ確立すればあまりに簡単な事なので、真似されないように秘密にするのだそうです。
実験の結果(実際に起こった事)を伝えても、「信じられない」「自分の目で見たものしか信じない」と拒否される事が多くあります。
拒否した後、確認の実験をするのならいいのですが、普通はそれでおしまい!
要するに、各個人の中に出来た「常識」と違うものは受け入れたく無いという意思表示が、どこかで覚えた別の意味の言葉で置き換えられたものと云う場合が多いものです。
その常識の内容も、実は自分の目で見たわけではない伝聞が大部分を占めているのが実態です。
最も困った現象は、信じたくない事に関しては血眼(ちまなこ)になって例外を捜すのに信じている事に関してはどんな例外でも「何にでも例外はある」と云って受け入れると云う習慣です。
筆者が信じていた「デタラメな常識」を採収したページがあるので笑ってやってください(参照→調理・農業その他・)
いままでは、農業のマニュアル化や工場化の失敗例が多く、「マニュアル化は不可能」と云われて来ました。また、「工業製品のように同じものは作れない」と云う言い方も定着しています。
一般の工業製品が商品として店頭に並ぶ前には、数多くの技術者が掛かりっきりで困難を克服する努力が行われ、開発秘話としてテレビのネタになっているのですが、いざ、農業と比較する場面では忘れてしまうようです。
手作業で出来ないものをあきらめるとき、「売っているものは機械を使ってるからね」という言い訳をよくしますが、その機械を作るのも人の手ですし、原型を1/100ミリ以下の精度で作っているのも、人の手である事を知らなければなりません。
マニュアル化が出来ないのは、マニュアルを作る努力した人がいないからです。
多くの人が、農薬の希釈率を聞くときに「少し」とか「たくさん」ではなくて、「○○倍に溶かして使う」と云うような数字は抵抗なく受け入れます。
ところが、剪定のときの枝の数や長さを数字で指定した途端に「難しい」と言われてしまうのです。「難しい」は暗記する量が多いと云う意味だったのでしょうか。(冒頭の「判り易い表現」を参照。)
日本でほぼ完全なマニュアルが出来ているのは「米」だけといわれますが、大粒種ブドウについても「巨峰会」と言う団体が詳細な指導指針を作っています。
「○芽残して切る」とか「枝を○本残す」と云うのを細かく指定したマニュアルがあることを「難しい」と云い、「枝を薄くして」とか「適度に残して」という指導要領を「平易」と呼ばれているのが現状です。
「わかる人にしかわからない(既に知っている人なら理解できる)」のは、修行を完遂した人だけに明かされる「秘伝」「極意」であって、マニュアルとは云いません。
あらゆる農作業の文章化が必要です。園芸ブームで街にはたくさんの入門書が溢れていますが、「試行錯誤をお楽しみ下さい」と言わんばかりの手抜きではないでしょうか。
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